第43話「ラプトルの内なるチカラと、緑の球体が語るもの」
ボッケ (泥火山)での「ビリー君・泥煮込みダイブ未遂事件」を力ずくで阻止した後、私たちは阿寒湖の温泉街を歩いていた。
夕闇が迫り、湖畔に冷たい風が吹き始めると、街の雰囲気は一変する。
私たちは、緩やかな坂道に沿って民芸品店が立ち並ぶエリア――「阿寒湖アイヌコタン」へと足を踏み入れた。
ここは北海道最大のアイヌの集落であり、伝統文化と木彫り芸術の発信地だ。
道の両脇には、巨大なシマフクロウ (コタンコロカムイ)や神々を象ったトーテムポールのような木彫りの柱が立ち並び、薄暗闇の中で松明の炎に照らされて、厳かで神秘的な雰囲気を漂わせている。どこからともなく、アイヌの伝統楽器であるムックリ (口琴)のビョ〜ンという独特の音色が響いてくる。
「Namoose (なんだここは……キンチョー感あふれるアザーワールドリー・スペ〜ス)」
ビリー君が少し緊張した面持ちで、キョロキョロと周囲を見回す。
そして、ある木彫り専門店の前で、彼はピタリと足を止めた。
彼の黄金色の瞳の先にいたのは、店の看板代わりに置かれた、実物大の「木彫りのヒグマ」だ。
荒鮭をガッチリと咥え、一本一本の荒々しい毛並みや、隆起した肩の筋肉まで見事に再現されたその姿は、今にも低い唸り声を上げて動き出しそうなほどの尋常ではない迫力がある。まさに職人技の極致だ。
だが、そのリアルすぎる造形が仇となった。
その瞬間、ビリー君の脳裏に、ある忌まわしい記憶がフラッシュバックしたのだ。
――つい2ヶ月ほど前、札幌の藻岩山で遭遇した、本物のヒグマだ。
(あの時の、圧倒的な質量の暴力と、むせ返るような獣の匂い、そして絶対的な「死」を予感させる殺気。ほんの少し前に味わったばかりのその恐怖は、白亜紀のハンターである彼にとっても、間違いなく命を脅かす規格外のトラウマだったのだ)
私は相棒の心中を察し、心の中でそう呟いた。
だが、事実は少し違った。
(ちげーよ、アキラ! 熊が怖いんじゃねぇ! あの時、僕ちゃんのお腹の中から目覚めた「見えない悪魔 (致死性ガス)」がヤバすぎたんだよ! ヒグマをワンパンで撃退した上に、アキラもバスケス姐さん (アダンソン先輩)も気絶させちまった……僕ちゃんの強大すぎる「内なる力」が怖いんだってば!)
「!!!」
ビリー君の顔色が変わる(なぜ恐竜の顔色がわかるのか、なんて野暮な事は聞かないでほしい。飼い主にはわかるのだ)。
極度の緊張と(彼なりの)恐怖によるストレスが、彼のデリケートな胃腸を直撃した。
ギュルルルル……。
ビリー君のお腹の奥底から、雷が鳴るような不吉な重低音が響いた。
まずい。彼はお腹を壊すと、ヒグマをも撃退する毒ガス並みの悪臭を放つ裏ワザがあるのだ。
「プッ」
静寂に包まれたアイヌコタンの通りに、可愛らしくも、絶望的なオナラの音が響いた。
ビリー君は、カチンコチンの石像のようにその場で固まった。
彼は冷や汗を流しながら、首をギギギとロボットのように後ろへ回し、恐る恐る自分のお尻の方を確認している。
つい数時間前、十勝川のモール温泉 (美人の湯)で完璧なコンディショナー効果を浴び、極上のツヤとフワフワ感を手に入れたばかりの自慢の羽毛が、大惨事になっていないか……?
「……Kuru? (セ、セーフか? 悪魔は出てないか?)」
入念な確認の結果、出るものは出ていなかった。純粋なガスだけだ(臭いには臭いが)。
ビリー君は「ふぅぅぅ……」と、深いため息をついた。危なかった。もう少しで、木彫りの熊の前で尊厳を失うところだった。
「大丈夫かビリー君。……ほら、熊なんかじゃないよ。ただの木だ。可愛いものでも見て落ち着こう。とりあえず、先に大幸薬品の『セイロガンQUICK』を飲んでおくかい?」
私は、まだ動悸・息切れ・目眩が止まらない彼を抱え上げ、気分転換に明るい土産物屋の店内へと入った。
店内には、アイヌ文様の美しい刺繍や、可愛らしいコロポックルの人形が並んでいる。
そこで、ビリー君はあるものに目を奪われた。
店の奥に置かれた、照明に照らされた大きなガラス水槽。その底に、緑色で、真ん丸で、モフモフした物体がいくつも静かに転がっている。
「Kururuッ!? (なんだこれは!?)」
それは「マリモ」だ。
阿寒湖に生息する、世界でも珍しい球体の藻の集合体。阿寒湖の天然マリモは国の特別天然記念物だが、ここで売られているのは、別の湖の藻を人工的に丸めたお土産用の養殖マリモである。
ビリー君は、水槽の前にペタンと座り込んだ。
さっきの「内なる悪魔の恐怖」なんて完全に忘れたように、ガラスの向こうを見つめている。
だが、いつものように「美味そう」とよだれを垂らすわけでも、「遊びたい」と無邪気にはしゃぐわけでもなかった。
彼は、深く、深く物思いにふけるような目で、その緑の球体をじっと見つめていた。
水槽の中の小さな水流に乗って、マリモがわずかに揺れる。
ビリー君は微動だにせず、瞬きすら忘れたようにそれを見上げている。
その黄金色の瞳の奥に、彼は何を見ているのだろうか。
厳しい自然の中で、小さな藻の糸が絡み合い、何年もかけて完璧な球体を形作っていく奇跡の生命。数千万年の時を超えて、氷河期も乗り越えて生き残ってきたこの不思議な丸い姿に、同じく時を超えて蘇った自分自身の孤独やルーツを重ね合わせているのだろうか。
あるいは、つい先日まで自分が高い梁の上で命懸けで温め、大空へと巣立っていった「スズメの卵」の丸い温もりを思い出しているのか。羊蹄山で生き別れた、シマエナガの毛玉ちゃんを思い出して懐かしんでいるのかもしれない。
それとも、純粋に「僕ちゃんと同じフワフワした仲間だ」と、種族を超えた奇妙な共感を感じているのか。
言葉を持たない彼が何を考えているのか、私にはわからない。
だが、水槽の青白い光に照らされた恐竜の横顔は、まるで思索に耽る哲学者のように静かで、どこか神聖ですらあった。彼は前脚 (翼)をそっとガラスに当て、マリモの丸みを感じ取るように、そっと目を閉じた。
「……仕方ないな。お腹も無事だったことだし、プレゼントするよ」
私は彼の静かな時間を邪魔しないように立ち上がり、苦笑いしながらレジへ向かった。
購入したのは、小さな養殖マリモがプカプカと浮かぶ、コルク栓の小瓶だ。
私が店員さんから受け取った瓶を目の前に差し出すと、ビリー君はパチリと目を開け、「Vamoose! (やったぜ!)」と今日一番の歓喜の声を上げた。そして、その小瓶を両手 (両翼)で大事そうに、落とさないようにしっかりと抱え込んだ。
その夜。
私たちはアイヌコタンを後にし、アンキロサウルス号の広くて快適なベッドの中で眠りについた。
ビリー君の枕元には、マリモの入った小瓶が大切に置かれている。
彼は眠りながらも、時折うっすらと目を開けては、緑の丸い友達が無事かを確認し、安心して再び「すー、ぴぃー」と寝息を立てていた。
自分のお腹に棲む「悪魔」の恐怖を乗り越え、新しい (藻の)友達を手に入れたビリー君。
明日は、いよいよ北海道が誇るもう一つの神秘の湖、摩周湖へ向かう。
果たして、霧は晴れているだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回も、男と恐竜と蜘蛛の気ままな漂泊にお付き合いください。




