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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第4章:漂泊のヘテロトピア
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第40話「地球の深部と、風の岬の銀の糸」

日高のサラブレッド銀座を抜けたアンキロサウルス号は、太平洋の海岸線に沿ってさらに南東へとひた走り、様似町(さまにちょう)へと入った。


 季節は7月、初夏。

 北海道とはいえ、雲ひとつない快晴の空からの日差しは強く、海沿いのアスファルトにはゆらゆらと陽炎(かげろう)が立っている。

 登山口近くの駐車場に車を停めると、助手席のビリー君が「ふぅ……」と暑そうに溜息をついた。彼は意を決したように、愛用しているオレンジ色の特注ダウンジャケットの首元に不器用な爪を掛け、ジッパーをジリジリと下ろした。


「お、ついに脱ぐか」


 ビリー君は器用に袖から腕 (翼)を抜いた。私はてっきり、ヤンチャな彼のことだから脱いだジャケットを後部座席にポイッと放り投げるだろうと思っていた。

 だが、違った。


 彼は座席の上で、前脚と顎を使って丁寧にシワを伸ばし、パタン、パタンと几帳面に四つ折りに畳んだのだ。そして、それを後部座席の自分の荷物スペースへ、崩れないようにそっと置いた。凶暴な肉食恐竜らしからぬ、あまりにも几帳面で生活感あふれる所作に、私は思わずクスッと笑ってしまった。


Namoose(ナムース)…… (さすがの僕ちゃんでも暑すぎるんですけど、たまんないね……)」


 身軽になったビリー君。露わになったその身体は、初夏の陽の光を浴びて、美しいアンズ色とダークグレーの鱗が混ざった豊かな羽毛で覆われている。ダウンのモコモコ感とは違う、本来の恐竜としての引き締まった野性的な姿だ。


 準備万端。私たちは車の外へ出た。

 目の前に、周囲の山々とは明らかに異なる、独特の重厚な存在感を放つ山が迫ってくる。

 「アポイ岳(アポイだけ)」だ。標高はわずか810メートルだが、その価値は富士山にも劣らない。


「ビリー君、よく聞け。あの山はただの山じゃない。『地球の内臓』だ」


 私は熱弁を振るい始めた。

「アポイ岳は、数千万年前の激しい地殻変動によって、地下数十キロの深くにある『マントル』がめくれ上がり、そのまま地表にドカンと露出してしまった世界的に珍しい山なんだ。そして、マントルを作る岩石の主成分は、美しいオリーブ色の宝石――ペリドットだ。地下基地の床を打った『オリビンサンド』の親玉だよ! つまり、我々は今、巨大な宝石の山を見上げているんだ!」


Namoose(ナムース)…… (ふーん、僕ちゃん、食えない石なんて興味ないね……)」


 ビリー君は全く興味がなさそうに、大きなあくびをしている。

 私たちは地面を観察した。足元の岩肌は風化して茶色っぽいが、目を凝らすと至る所にキラキラと緑色の輝きが見える。


「くっ……! 目の前にあるのに!」


 私はハンカチを噛み締めて悔しがった。

 ここはユネスコ世界ジオパークであり、特別天然記念物の指定区域だ。学術的な価値を守るため、石ころ一つ、草一本たりとも持ち出しは厳禁である。私のような石好き一般市民にとっては、「宝の山の中で手錠をかけられている」ような、生殺しの地獄だ。


Kururu(クルル)? (拾わないのかい?ブラザー)」


「ダメなんだよビリー君。ここで拾ったら、私は前科持ちになってしまう……!」


 だが、捨てる神あれば拾う神あり。

 麓のビジターセンターのお土産コーナーに、救済措置があった。『アポイ岳・かんらん岩標本 (許可採取品)』。

 私は迷わず財布を開き、濃い緑色が美しい最高級の標本を購入した。


「よし、これで合法的に地球の深部を手に入れたぞ!」


 ホクホク顔の私と、呆れ顔のビリー君、そしてダッシュボードのアダンソン先輩を乗せ、車はさらに南へと進んだ。

 次なる目的地は、北海道の背骨 (日高山脈)が海へと沈み込む最南端、襟裳岬(えりもみさき)だ。


 莫大な建設費がかかったことからその名がついた難所「黄金道路(おうごんどうろ)」のトンネル群を抜け、岬に近づくにつれて、車体を揺らすほどの強風が吹き始めた。ここは年間260日以上も風速10メートルを超える風が吹く、日本屈指の強風地帯だ。


「……相変わらずだな」


 岬の駐車場に降り立つと、身体ごと持っていかれそうな強烈な突風が襲ってきた。風が強すぎて高い木が育たないのか、見渡す限り荒涼とした笹原と岩肌が続いている。

 そして、その過酷な環境の岩場にへばりつくように咲く、鮮やかなピンク色の花。


「エリモツツジ」だ。背丈は低く、地を這うように枝を伸ばしている。そうしなければ、この風に吹き飛ばされてしまうからなのだろう。グレーの岩肌と、強風に激しく揺れるツツジの赤。それが、私の知る襟裳岬の原風景だった。


「うわっ、すごい風だ!」


 ダウンジャケットを脱いでいたのが仇になった。

 ビリー君の自慢のフワフワ羽毛が、防風林 (ダウン)を失ったことで風をモロに受け、巨大なドライヤーを逆から当てられたようにボサボサに逆立っている。一回り大きく膨らんだ巨大な毛玉のようだ。


 だが、景色は絶景だ。断崖絶壁の下には岩礁(がんしょう)が点在し、そこには野生のゼニガタアザラシたちがのんびりと寝そべっているのが見える。


「ビリー君、見ろ。あそこにご馳走がいるぞ」


 私が海を指差した、その時だった。


 ヒュゴォォォォッ!!


 今までとは桁違いの、海から這い上がってくるような突風が下から吹き上げてきた。


「うおっ!?」


 私は思わず踏ん張った。ビリー君も姿勢を低くして耐える。

 だが、私の肩に乗って景色を眺めていた「彼女」は、あまりにも軽すぎた。


「……あっ」


 視界の端で、小さな黒い影が空へ舞い上がるのが見えた。

 アダンソン先輩だ。


「せ、せんぱーーいッ!!!」


 私は悲鳴を上げて風下へと走った。

 だが、相手は体長わずか1センチ弱のハエトリグモだ。この強風の中、広大な岬のどこへ吹き飛ばされたのか、見当もつかない。砂利や笹原の中に落ちてしまえば、見つけ出すのは砂漠でダイヤを探すより難しい。


「なんてこった……先輩! どこだ!?」


 慌てて走り出そうとする私を、ビリー君の尾っぽが制した。

 そうだ、これはコンタクトレンズを落としてしまった時と同じだ。うかつに動けば、小さな先輩を踏み潰してしまうかもしれない。


 私とビリー君は、その場に()いつくばり、地面に顔を擦り付けるようにして必死に捜索を始めた。エリモツツジの根元も、岩の陰も、必死に目で追う。


 アザラシなんて見ている場合じゃない。地下基地の女軍曹であり、私たちファミリーの一員であるアダンソン先輩が、風に消えてしまったのだ。


Kururu(クルル)ッ……! Kururu(クルル)ッ……! (姐御、どこだ……!)」


 すでに事態の深刻さを理解していたビリー君も、あちこちの草むらに鼻先を突っ込んで、慎重に嗅ぎ回っている。

 なんてことだ。こんな風の吹き荒れる広い場所で……。

 絶望が頭をよぎった時、ビリー君がふと動きを止めた。


「……? Kuru(クル)


 彼は地面ではなく、「頭上」を見上げていた。そして、鋭い鳴き声を上げて一点を指し示した。


Vamoose(ヴァムース)! (あそこだ、ブラザー!)」


 私は彼が見つめる先の空を見た。

 西日に照らされた空間に、一本の細い糸がキラリと揺らめいていた。

 それは、風に煽られた瞬間に先輩がとっさに放った命綱だった。


 糸の端は、展望台の柵の支柱に奇跡的に絡みついている。そして、その糸の先――さながら、風にたなびく鯉のぼりのように、空中で必死に八本の手足をバタつかせている小さな黒い影があった。


「おおおお〜、せんぱーーいっ!!」


 それは、地獄から天国へ登るための「お釈迦様の蜘蛛の糸」ではない。風の岬で生き残るための、海兵隊員の執念のセーフティロープだ。

 私は慎重に糸を手繰り寄せ、アダンソン先輩を両手で包み込むように回収した。先輩は目を回しているのか、私の手の中でふらふらと千鳥足を踏んでいたが、無事だ。


「よかった……本当によかった……」


 私はがっくりとその場に座り込んだ。目の前には、何も知らずに咲き誇るエリモツツジが揺れている。

 ビリー君も「Namoose(ナムース)…… (僕ちゃんの寿命が縮んだんですけど……)」と深いため息をつき、ボサボサになった頭で私に寄りかかってきた。

 

 強風の襟裳岬で起きた、小さな遭難事故。

 私たちはアダンソン先輩を大切に胸のポケットにしまい、逃げるようにアンキロサウルス号へと戻った。

 心臓の鼓動が落ち着くのを待って、私たちは再び車を出した。


 襟裳岬(えりもみさき)をぐるりと回り込み、次なる目的地は広大な十勝平野(とかちへいや)だ。

 強風に吹かれて冷え切った体と、ボサボサになったビリー君の羽毛をケアするために、今夜は少し内陸に入って音更町(おとふけちょう)十勝川温泉(とかちがわおんせん)で一泊することにした。


 太古の植物が地中に堆積(たいせき)してできた琥珀色(こはくいろ)の化石海水、「モール温泉」――通称・美人の湯に浸かれば、ビリー君の羽毛も極上のツヤと香りを取り戻すだろう。

 もう風はこりごりだ。早く温かく滑らかな琥珀色(こはくいろ)の湯に浸かりたい。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次回も、男と恐竜と蜘蛛の気ままな漂泊にお付き合いください。

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