第37話「風に乗る命と、記憶を呼び覚ます音色」
カレンダーは6月。
本州からはジメジメとした梅雨入りの便りが届く頃だが、ここ北海道には本州で言うところの「梅雨」はない。異常なほど長く厳しかった氷河期のような冬がいきなり終わりを告げ、突き抜けるような青空と共に、ようやく待ちに待った「春」、いや「初夏」が駆け足でやってきた。
軒先の巨大な氷柱はとうに消え去り、庭の黒い土からはフキノトウを通り越して、鮮やかな緑の雑草たちが力強く背を伸ばしている。家の周りは雪解け水でぐちゃぐちゃだ。
そして、我が家の「陽だまりの大家族」にも、旅立ちの季節が訪れた。
まずは、茶の間の高い天井の梁の上で生まれたスズメたちだ。
あの二つの卵から孵った「二羽」のヒナたちは、ビリー君の過保護すぎるイクメン教育( と大量の餌)のおかげで、もう親鳥と変わらないほど丸々と太った立派な若鳥に成長していた。狭くなった巣の中で、二羽は窮屈そうにバサバサと羽ばたきの練習を繰り返している。
ある晴れた朝。
お父さんスズメが、庭の梅の木から「チチッ!(来い!)」と鋭く鳴いた。
それが合図だった。
一羽、そしてもう一羽と、ヒナたちが梁を力強く蹴って飛び出した。最初は頼りなく空中でよろめいたが、数千万年受け継がれてきた鳥類の本能がすぐに風を捉え、見事に庭の木へと着地する。
「Kururu……(行っちまったか……)」
縁側の窓辺でその様子を見守っていたビリー君が、少し寂しそうに喉を鳴らす。
彼はガラス越しに、手塩にかけて育てた二羽の弟子たちへ向けて、魂を込めた最後の咆哮を送った。
「Vamoose!!(立派にやれよ! ヴァムォォォース!)」
窓ガラスがビリビリと震える。
若鳥たちはその声に振り返るように、一度だけ「ピピュッ!」と鳴き返し、お父さんたちと共に6月の広い空へと羽ばたいていった。
別れは続く。
今度は、板の間の隅にあるサーバーラックの裏だ。
アダンソン先輩の子供たち――冬の間に生まれた何百匹ものチビグモたちが、庭の板塀によじ登り、小さなお尻を空に向けてキラキラと光る糸を吐き出し始めた。
「バルーニング」だ。
風に乗って新天地へと飛んでいく、クモ一族に伝わる旅立ちの儀式である。6月の風が吹き抜けると、無数の銀色の糸が初夏の日差しを反射して光り輝き、チビグモたちを乗せて空高く舞い上がっていった。
アダンソン先輩は、板塀の頂上で前脚をピシッと上げ、微動だにせずその光景を見送っていた。それはまるで、歴戦の女軍曹が立派に育った部下たちを新たな戦場へ送り出すような、頼もしくも哀愁漂う背中だった。
ふと足元を見ると、基礎の通気口の隙間から、漆黒の装甲を纏ったクロオオアリの部隊がワラワラと顔を出していた。地下10メートルの第1基地で働き詰めだった彼らも、今日ばかりは作業の手を止め、触角を盛んに揺らしながら空を見上げている。まるで「新天地でもご安全に!」と、エールを送っているかのようだった。
そして最後は、この人だ。
「いやぁ、賑やかだった冬が嘘のようじゃありませんか」
大家さんが、玄関先で愛車のエンジンをかけていた。
彼がフィールドワークのためにガレージの奥から引っ張り出してきたのは、ただの軽トラではない。スズキ・ジムニー( SJ30型)だ。
昭和の遺産とも言うべき2ストロークエンジンを搭載した、むせ返るような白煙とオイルの匂いを撒き散らして走る「小さな戦車」。
パラリン、ペンペンペン……という2スト特有の甲高い排気音が、初夏の澄んだ空気に響いている。
「大家さん、本当に夏の間、行っちゃうんですか?」
「ええ。私が開発した地熱バイナリー発電を普及させるため、道内の温泉地やへき地を回ってポテンシャル調査をしてきますよ。雪のないこの時期しかできないフィールドワークなものでね」
大家さんはニカっと笑い、ゴツい車のキーを私に放って寄越した。
「留守中の山悟荘と地下基地の管理は、アキラさんと『アリさんチーム』に任せますよ。地下の彼らには、十分な砂糖水を与えておきましたからね。……あと、ガレージの『アンキロサウルス号』。私の最高傑作キャンピングカーですが、エンジンが腐らないように、たまに乗ってやってください」
「アンキロサウルス号……?」
「ええ。装甲付きの移動要塞です。ビリー君とのドライブに最適だと思いますよ」
大家さんは足元から小さなクーラーボックスを取り出し、私に手渡した。
「これ、差し入れです。長旅には乳酸菌が必要ですからね。キンキンに冷えています」
そこには見慣れた青いパッケージが鎮座していた。雪印メグミルクの「ソフトカツゲン」だ。
「おぉ、カツゲン……!」
私は思わず唸った。ビリー君が「Kururu?(なんだそれは? 獲物かい?)」と鼻を近づけてくる。
「いいかビリー君、これはただの甘いジュースじゃない。道民のソウルだ」
私は結露した冷たいパックを手に取り、パッケージの文字を愛おしそうに極太の指でなぞった。
「そのルーツは昭和13年。帝国陸軍が兵士の栄養補給のために開発した軍用飲料『活素』、つまり『活力の素』だ。戦後、それが北海道民向けに甘く改良され、銭湯上がりの定番として我々の血肉となった……。まさに、ここ一番で勝負する男の飲み物なんだよ」
「ははは! さすがアキラさん、詳しいですね。では、その活力で留守番を頼みましたよ!」
大家さんはジムニーに飛び乗り、けたたましい2ストサウンドと青白い煙を撒き散らしながら、颯爽と走り去っていった。
……シーン。
みんなを見送って茶の間に戻ると、耳鳴りがするほど信じられない静寂が満ちていた。
あまりにも静かだ。つい数日前まで、ここには騒がしいスズメ一家と、数百匹のクモの命の鼓動があり、大家さんの熱弁が響いていたなんて嘘のようだ。地下深くではクロオオアリたちが黙々と働いているのだろうが、地上のこの部屋に残されたのは、私と、ビリー君と、アダンソン先輩だけ。
ダメだ。静かになればなるほど、頭の中でハリー・ベラフォンテがバナナボートを熱唱し続ける。
ふと見ると、ビリー君が座布団の上で何かをいじっていた。
冬の間、大家さんが地熱パイプの共鳴調整用として使い、ビリー君が自分の「肩たたき機」にも使っていた例の「真鍮の鍵」だ。
ビリー君は、鉤爪( ハンドクロウ)の先でその鍵の特定の一点を、優しく、計算された角度で弾いた。
チィィィィィィン…………。
驚くほど澄んだ、高い金属音が響いた。(おぉぉ……ハリー・ヴェラフォンテが消えていく……)
それは単なる打撃音ではなく、空間そのものを震わせるような、不思議な倍音を含んだ音色だった。
その音が、空っぽの茶の間に波紋のように広がっていく。
チィィン……。
音が耳に残る間、私の脳裏に、冬の記憶が鮮やかに蘇った。
『ピピュッ! チチッ!』と鳴き交わすヒナたちの声。アダンソン先輩率いるクモ部隊の足音。大家さんの大声。タンパーで地下の床を叩き割る轟音。そして、「Vamoose!!」と吼えるビリー君の声。
あの狭くて、暑苦しくて、最高に騒がしかった冬の日々。
音色が消え入ると同時に、幻影も霧散し、再び圧倒的な静寂とバナナボートが押し寄せてきた。
「Kururu……(静かすぎるなぁ……)」
ビリー君が、音の消えた真鍮の鍵を寂しげに見つめている。彼もまた、同じ記憶を見ていたに違いない。アダンソン先輩も、座卓の上で動かずに、その余韻に浸っているようだ。
この家は、私たち三人( 一人と一匹と一匹)には、少しばかり広すぎる。
「……なぁ、ビリー君。先輩」
私はその静寂を振り払うように、冷えたカツゲンのパックにストローを突き刺し、一口飲んだ。そして、ビリー君の口にもストローを咥えさせてやる。
「……ッ!? Vamoose!(なんだこれ、甘酸っぱくて美味い!)」
ビリー君が目を丸くして喜んだ。懐かしい味が喉を潤し、私の55歳の体に確かな活力が湧いてくる。
私は大家さんから預かった、アンキロサウルス号のゴツいキーを指先で回した。思い出に浸ってしんみりするのは、まだ早い。
「ここにいても、あいつらの声はもう聞こえない。……せっかくだから、私たちも旅に出ようか」
ビリー君がガバッと顔を上げた。
「行き先は決めてない。でも、この広い北海道の大地には、まだ俺たちの知らない景色や、聞いたことのない音、そして見たことのない『石』があるはずだ」
大家さんの遺した( 死んでいないが)陸戦型装甲キャンピングカー「アンキロサウルス号」を駆り、この短くも美しい夏を駆け抜けるのだ。
アダンソン先輩が賛成するように、ピョンと私の肩に飛び乗った。
留守番のクロオオアリたちに地下の平和を託し、さあ、あてのない大冒険の始まりだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回も、男と恐竜と蜘蛛の気ままな漂泊にお付き合いください。




