第36話「白亜紀のイクメンと、雪解けの予感」
ついに、茶の間の太い梁の上の小さな卵から、羽毛の塊のようなヒナたちが姿を現した。山悟荘は一気に賑やかさを増し、ビリー君の「イクメン」生活が幕を開けた。
彼は大きな鼻先を巣に近づけ、恐ろしい鉤爪( ハンドクロウ)を器用に折りたたみ、壊れ物を扱うような繊細さでヒナたちの世話を焼き始めた。
「いいか、ビリー君。まずは教育だ。この家の『掟』を教えてやってくれ」
私が言うと、ビリー君は真剣な顔でヒナたちの前にドカリと居座った。「ビリー師匠」の特別講義だ。
まず教えたのは、「ハエトリグモは餌ではない」ということだ。
サーバーラックの裏から出てくるチビグモたちをヒナがついばもうとするたびに、ビリー君は鋭く鳴いて制止する。
「Kururuッ!(こら! お嬢たちは優秀なレンジャーだぜ。ビシッと敬礼しな!)」
ヒナたちは首をすくめて納得し、陰からは部隊を率いるアダンソン先輩が、前脚を上げて海兵隊員のように敬礼していた。
次に始まったのは、一族伝統の「決め台詞」の伝承だ。
ビリー君が胸を張り、魂を込めて吠える。
「Vamoose!!(ヴァムォォォース!!)」
ヒナたちも産毛を逆立たせながらマネをする。
「ピピュ、ムーシュ!」
白亜紀の咆哮と令和のスズメのさえずりが混ざり合う不協和音。勝手口から顔を出した大家さんが、「言語学的カオスだと思いませんか」と嬉しそうにタブレットで動画を撮っている。
最後は一番重要なサバイバル術だ。
ビリー君は私を指差し、ヒナたちに言い聞かせるように狡猾に鳴いた。
(困ったら、あいつを見な。可愛く鳴けば何でも出てくる。この家で一番チョロいATM( パパ)はこいつだぜ)
私の脳内翻訳が正しければ、完全に手玉に取られている。私は苦笑いするしかなかった。
その夜。
久しぶりに外の風の音が止んだ。地熱システムで設定温度25度に保たれた常夏の室内でくつろぐビリー君。その温かいアンズ色の羽毛の中に、スズメの家族全員が吸い込まれるように潜り込んでいった。
「……結局みんなビリー君が一番好きなんだな」
私は幸せそうなモフモフの塊に、そっとブランケットを掛けた。
翌朝。
目が覚めると、窓の外が眩しかった。
縁側のサッシを開けると、いつもの鉛色の空ではなく、突き抜けるような青空が広がっていた。そして軒先から垂れ下がった巨大な氷柱から、ポチャン、ポチャンと規則正しいリズムで水滴が落ちていた。
雪解けの音だ。
私はビリー君を連れて、久しぶりに庭へ出てみた。カレンダーは5月の終わり。異常に長かった冬が、ようやく終わりを告げようとしている。
家の基礎周りの雪が解け、黒い土が顔を出していた。
「Kuruッ?(なんだこの草?)」
ビリー君が第一ゴムの長靴で雪を掻き分け、地面から顔を出した「薄緑色のつぼみ」を見つけた。春の使者、「ふきのとう」だ。
「春の野菜か?」という顔で見上げるビリー君に、私はニヤリと笑って頷いた。
「ああ、美味いぞ。大人の味だ」
ビリー君は嬉しそうに口を開け、新鮮なふきのとうをパクリと齧った。
その瞬間。
「……ッ!!? !? !」
目が飛び出さんばかりに見開かれた。ペッ! ペッ! と慌てて吐き出し、雪で必死に舌を洗いながら抗議の声を上げる。
「Namoose!(ペッ! マズい! 苦っ! 毒だろこれ! 僕ちゃん死んじゃう!)」
「ははは、驚いたか」
私は雪の上に残った、鮮烈な香りを放つ緑の芽を拾い上げた。
「苦いだろう? でもなビリー君。この苦さが、冬の間眠っていた体を叩き起こしてくれるんだ」
私は遠く、雪解け水が光る山々を見渡した。
「それが、『春の味』だよ」
ビリー君はまだ口の中が苦いのか、渋い顔をしている。
だが、その横顔を照らす陽射しは、もう冬のそれとは違っていた。長く、厳しかった私たちの「氷河期」が、今、終わりを告げようとしているのだ。
そんな春の訪れの予感を感じながら、私の頭の中では先程テレビで流れていたハリー・ヴェラフォンテのバナナ・ボート(Day-O)が繰り返し繰り返し再生されていた。終わったと思ってもまた最初に戻ってしまう、エンドレスな歌だ…………。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて、第3章「山悟荘の創造」は完結となります。
次回、第4章でまた皆様とお会いできるのを楽しみにしております。




