第30話「マリッジ・ブルーと、天上の迷宮ドーム」
羊蹄山への遠征から数日が過ぎた。
カレンダーはもうすぐ5月だというのに、外は相変わらず死の世界だ。だが、大家さんはエンジニアとしての使命感に燃え、自販機救出時に作った「雪のドーム」を起点に地熱バイパスを拡張。ついには私たちの家から自販機、そしてお隣の佐藤さんの家までを繋ぐ「氷の生活道路( アイス・トンネル)」を構築してしまった。
厚い氷の壁に包まれたトンネル内は、地熱の余熱でほんのり暖かい。
その氷のトンネルの入り口から、「しゃーっす! 佐川急便でーす!」と、青と白のストライプの制服を着たお兄さんが駆け込んできた。雪道を走らせたら世界最強、「飛脚」の紋章を背負う男たちだ。
「うひゃー、今日は一段としばれますねぇ! アキラさん、お荷物です。あ、こっちはビリー君宛ての『冷凍肉』っすね!」
お兄さんは当たり前のように、隣にいたオレンジダウン姿のビリー君に伝票を差し出した。
ビリー君は慣れた手つきで伝票を氷の壁に押し当て、右前脚の「肉球」をグイッと捺印欄に押し付けた。
「はい、母印( 肉球)いただきましたー! いつもありがとねー!」
お兄さんは爽やかに敬礼し、ダッシュで去っていく。
……私は呆然と見送った。
誰も、彼が数千万年前に絶滅したはずの凶暴な肉食恐竜であることに、微塵の恐怖も抱いていない。長引く大寒波が、道民の脳をバグらせているのか?
その時、トンネルの向こうから優雅な足音が近づいてきた。お隣の佐藤さんだ。どんな猛吹雪でも品格を崩さない彼女の腕には、「丸井さん( 丸井今井)」の紙袋が提げられている。
「あら、アキラさんにビリーちゃん。ごきげんよう。どうしても柳月の『あんバタサン』が食べたくなりましてね」
佐藤さんは自販機に小銭を入れ、「おしるこ」の缶を買った。
「……少々変なことをお伺いしますが」
私は思い切って尋ねてみた。
「ビリー君のことなんですけど……彼、佐藤さんの目には何に見えますか?」
佐藤さんは不思議そうな顔で、ちょうど肉球のインクを雪で拭っている生物学的な恐竜を見た。
「何って……恐竜でございましょう? ヴェロキラプトルさん、でしたかしら。それがどうかしまして?」
着ぐるみだと思っているわけですらない。正しく認識した上で、スルーしているのだ。
「見てらっしゃいな。アキラさん」
彼女はトンネルの氷壁越しに、外の猛吹雪を見つめて言った。
「雪も積もれば、恐竜の一匹や二匹、ふらりと現れますわ。北海道ですもの。細かい理屈を気にしすぎるのは野暮というものですわよ。この長い冬を越すには、もう少し大らかでいらっしゃらないと」
そう言い残すと、彼女は「お近づきの印に」とあんバタサンを一つ私に手渡し、優雅に去っていった。北国マダムの底知れない胆力。理屈を超えた受容こそが、大寒波を生き抜く道民の「文明」なのかもしれない。
私はあんバタサンをかじった。バターの塩気と餡の甘さが染み渡る。
ふと横を見ると、ビリー君がダウンのポケットから「一枚の白い羽」を取り出し、寂しそうに見つめていた。あの日、森へ帰ったシマエナガの毛玉ちゃんが残していった宝物だ。
その時だ。
トンネルの換気口から、一塊の茶色い影が転がり込んできた。二羽のスズメだった。
一羽は寒さで凍りついて動かず、もう一羽は倒れた相棒を必死に翼で覆い、「チュン! チュン!」と激しく鳴き立てている。
(頼む、こいつを助けてくれ!)
ビリー君はハッとして、手の中の「白い羽」を素早くポケットの奥にしまい込んだ。
「Vamoose(任せな! 僕ちゃんに任せな!)」
彼はスズメをそっと両手で掬い上げ、家の中のストーブのそばへ運んでいった。
そして自分のおやつのワカサギを細かく砕いて与えようとした、その時だ。
「おや、急患ですか。それなら、これを使いましょう」
いつの間にか背後にいた大家さんが、小瓶に入った「特製の黄色い飲み物」を差し出した。以前、アダンソン先輩を覚醒させたあの黄金の液体( 栄養ドリンク)を、小動物用に絶妙に調合したものらしい。
大家さんがスポイトで一滴、弱ったスズメのくちばしに垂らした。
翌日。
ビリー君の過保護なストーキング看護と、大家さんの「黄色い飲み物」、そしてこの茶の間の白亜紀の高濃度酸素の相乗効果は凄まじかった。
スズメの夫婦は一晩で完全に元気を取り戻し、なんと鴨居の上の巣に純白の卵を二つ産んでいたのだ。
(いくらなんでも早すぎる気もするが、佐藤さんの言う通り、ここは北海道の特異点だ。細かい理屈は気にしないでおこう)
驚きはそれだけではない。アダンソン先輩も、サーバーラックの裏の暖かい場所に精巧な育児室( ベースキャンプ)を作り、数えきれないほどの小さなクモの子供たち( 新兵)を誕生させていた。
賑やかさを増していく居間。
ビリー君は、スズメの夫婦やクモの大家族を交互に見た後、どこか寂しげに、そして「僕ちゃんの相棒はどこ?」と問いかけるような目で私に鼻先を寄せてきた。
「……Vamoose……(アキラ……)」
独りぼっちの恐竜の、弱々しい甘えの声。
「……そんな目で見ないでくれよ」
私は彼の冷たい鼻面を撫でて苦笑した。
「私だって独りだよ。お前と一緒に熊をオナラで追い払うような物好きな相棒は、そう簡単に見つかるもんじゃないって」
新しい命が芽吹く家の中で、一人と一匹の「独身同盟」は、より一層固い絆で結ばれた。
そんな私たちの鬱屈した( ?)エネルギーの矛先を察知したのか、最近我が家に入り浸っている大家さんが、タブレットを片手に熱弁を振るい始めた。
「いいですか、アキラさん。氷のトンネルは『線』に過ぎません。目指すべきは『面』、全天候型・氷結迷宮、そうアイス・ラビリンス・ネットワークの構築ですよ!」
大家さんがキラキラした目で地上のドーム構想を語っている一方で、私とビリー君は、足元の「地面」に熱い視線を送っていた。
「ねえビリー君。地上のドームもいいけどさ……男のロマンといえば、やっぱ『地下秘密基地』だろ?」
私が囁くと、ビリー君は「Kururu!(激しく同意!)」と即答し、鉤爪で畳を引っ掻いた。
サンダーバードの格納庫を作る時が来たのだ。私たちは大家さんに相談を持ちかけた。
「地下シェルター? 悪くないですが、無計画な掘削は自殺行為ですよ」
大家さんは眼鏡を押し上げ、この周辺の地質図を映し出した。
「地熱パイプを傷つければ高圧蒸気が噴出し、あなたたちは瞬時に『恐竜の蒸し焼き』になります。掘るなら、この緑色でハイライトした深度5メートルから15メートルのエリアです。条件は一つ。掘り出した土は、私がドームを作る際の型枠や補強材として提供することです」
大家さんの「あなたたちは瞬時に『恐竜の蒸し焼き』です」というセリフ。
(まさか大家さんには、私まで恐竜に見えているのか?)
氷河期の謎が一つ消えてはまた一つ増える。
「交渉成立ですね、大家さん!」
私たちが握手を交わすと、ビリー君も興奮して「Vamoose!」と吠え、タブレットに肉球を押し付けた( 電子契約完了だ)。
こうして、山悟荘の大改造計画が壮大に始動した。
地上では大家さんが氷のドームを増殖させ、地下では私とビリー君がまだ見ぬ秘密基地への穴を掘り進める。
上へ伸びる文明と、下へ潜る野性。それぞれの「夢の城」作りが、終わらない冬の真ん中で幕を開けた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




