第29話「雪の妖精と、小さなサヨナラ」
支笏湖でワカサギを確保した後、私たちを乗せた雪鯨号は、羊蹄山の麓へと静かに滑り込んだ。
別名「蝦夷富士」。その雄大な姿は、大寒波の白い空の下でも、神々しいまでの存在感を放っている。
「よし、ビリー君。ここからは徒歩で進むぞ。静かに、森の音を聞くんだ」
私が声をかけると、ビリー君はオレンジ色のダウンのフードを整え、真剣な顔で頷いた。
そして私の肩には、ここまでの道中ずっと一緒だったシマエナガ(ビリー君曰く「僕ちゃんの子孫」)が止まっている。
彼はこの旅の間、ずっと外の景色を眺めていた。いつもの特等席である茶の間のカーテンレールとは違う、広大で冷たい、本来の彼の故郷の空気を楽しむかのように。
私たちは、ふかふかの新雪を踏みしめながら、森の奥へと進んだ。
森に入ってすぐのことだ。
ササッ、と雪原を横切る黄金色の影があった。キタキツネだ。
先ほど支笏湖で出会った丸っこいエゾタヌキとは違い、冬毛で一回り大きく見えるモフモフの体と、立派な尻尾。シュッとした顔立ちをしている。
ビリー君がハッとして足を止めた。彼は、私が茶の間のテレビで流していたDVDで学んだ「北海道における野生動物への正しい( ?)挨拶」を思い出したようだった。
彼は姿勢を低くし、つぶらな瞳でキツネを見つめ、喉を震わせて呼びかけた。
「……Rururururu……(やあ、兄弟。こっちにおいでよ)」
名作『北の国から』の黒板五郎さんスタイルだ。
その完璧な発音( ?)に、キタキツネはピタリと足を止め、不思議そうにこちらを振り返った。
「……コン?(なんだお前)」
一瞬、種族を超えた交流が生まれるかと思われた。
だが、キタキツネは「変なオレンジ色のトカゲがいるな」とでも言うように、興味なさそうにプイッと顔を背け、軽やかな足取りで森の奥へと消えていった。
「Namoose……(なんだよ、冷たいヤツだな)」
ビリー君がガックリと肩を落とす。私は笑いながら彼の背中を叩いた。
「ははは、野生は甘くないな。純や螢のようにはいかないぞ」
気を取り直して進むと、今度は雪原にぽつんと置かれた「雪見だいふく」のような白い塊に遭遇した。エゾユキウサギだ。
真っ白で、丸くて、耳の先だけ黒い。その愛らしいフォルムに、キツネに振られたばかりのビリー君の目がハートマークになりかけた。
「Vamoose(クゥ〜ッ! 今度こそめちゃくちゃ可愛いじゃん!)」
ビリー君が駆け寄ろうとした、その時だ。
ウサギが警戒して、むくりと立ち上がった。
ビヨーン。
丸かった体が縦に伸び、雪の下から驚くほど「長く、逞しい脚」が露わになった。想像してごらん。可愛いウサギの顔の下に、カンガルーか競輪選手のような筋骨隆々の脚がついている姿を……。
深い雪の上を走るために進化した、北海道仕様のガチムチ体型だ。
ビリー君は、そのあまりのギャップにドン引きし、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……Namoose(ウソだろ……足の筋肉ヤバすぎない? 僕ちゃん、ちょっと無理かも……)」
ウサギは強靭な脚力で雪煙を上げ、兎だけに脱兎の如く走り去っていった。その最高スピードは時速70キロ以上と誉れ高く、エゾユキウサギは日本に生息する野生の哺乳類の中で一番足が速いと言われている。
雪煙を浴びたビリー君は、「解せぬ」という顔でダウンについた雪を払った。
「ははは、北海道の動物は逞しいだろう。見た目に騙されちゃいけないよ」
さて、今日の目当ては、この時間の森に現れる「エゾモモンガ」だ。
夕暮れ時。いわゆるマジックアワー。青白い雪原が、沈む太陽に照らされてピンク色に染まり始める。
「……Vamoose(アキラ、あそこだ)」
ビリー君が、音もなく頭上の樹洞( きのほら)を指差した。
見上げると、そこからひょっこりと顔を出している、大きな黒目の生き物がいた。エゾモモンガだ。まん丸い体、小さな手足。彼は私たちを恐れる様子もなく、じっとこちらを見下ろしている。
次の瞬間、彼は音もなく宙へ躍り出た。飛膜を広げ、滑空するその姿は、まるで空飛ぶ座布団……いや、森の精霊のようだ。
ビリー君は、その優雅な飛行に見惚れ、ぽかんと口を開けて目で追っていた。
その時だ。
私の肩にいたシマエナガが、「ジュルッ!」と鋭く鳴いた。
それに呼応するように、近くの木々の枝先から、「ジュリリ、ジュリリ」という賑やかなさえずりが聞こえてきた。見上げれば、白い綿毛のような群れ。野生のシマエナガたちだ。
十羽ほどの群れが、枝から枝へと飛び回り、可愛らしく首を傾げている。その姿は、言葉を失うほど愛らしいものだった。
真っ白な顔、つぶらな瞳、長い尾羽。極寒の冬を生き抜くために羽毛の間に空気を含み、真ん丸に膨らんだその姿は、まさに「雪の妖精」。
肩の上の小さな毛玉が、不意に飛び立った。
そして、群れの近くの枝へと舞い降りる。野生の仲間たちが、彼の周りに集まってきた。
彼らは互いに身を寄せ合い、おしくらまんじゅうのように枝に並んだ。有名な「シマエナガ団子」だ。
彼は、その団子の真ん中に、パズルのピースが埋まるようにすっぽりと収まった。
その光景はあまりにも自然で、あまりにも完璧であった。
そして私は悟ったのだ。
ああ、そこだったのか、と。
茶の間のカーテンレールで首を傾げていた姿。ビリー君のダウンのフードの中で眠っていた姿。おやつをねらって、私の太い指をついばんだ時の、あの小さな感触。
そのすべてが走馬灯のように蘇り、胸の奥がぎゅっと音を立てて締め付けられた。
寂しい。正直に言えば、連れて帰りたい。
だが、常夏25度に設定された山悟荘よりも、この氷点下の風の中で、同じ体温を持つ仲間と身を寄せ合うことこそが、彼にとって本当の「世界」なのだと理解してしまった。
ビリー君も、それ( 子孫の巣立ち)を感じ取ったらしい。
彼は寂しそうに一歩踏み出し、小さく鳴こうとした。
「Namoose……(行くなよ、もっと一緒に遊ぼうよ……)」
私は、ビリー君の肩にそっと手を置いた。
「止めちゃあダメだよ、ビリー君。彼は家族の元へ帰ったんだよ」
私の言葉に、ビリー君はハッとして、枝の上で幸せそうに仲間と暖め合っている小さな白い毛玉を見上げた。そして、自分の気持ちを飲み込むように、深く息を吸い込んだ。
「……Vamoose(……そうだな。元気でな、ちびすけ……!)」
それは、別れの言葉ではなく、旅立ちを祝うエールだった。
毛玉ちゃんが一瞬、こちらを振り向いた。つぶらな瞳が、私たちを映している。
「ジュッ!(またね!)」
そう聞こえた気がした。
群れが一斉に飛び立った。
白い雪が舞う空へ、白い妖精たちが溶け込んでいく。彼の姿は、もうどれなのか分からない。ただ、あの中に彼がいて、この美しい森で生きていくのだということだけが、確かな事実として残った。
帰り道、ビリー君はずっと無言で、私のダウンの裾を掴んで歩いていた。
私は何も言わず、彼の頭をポンポンと撫でた。
クーラーボックスには、大家さんへのワカサギ。心の中には、最高に可愛くて、少し切ない「雪の妖精」との思い出。
「帰ろう、ビリー君。山悟荘では大家さんが待っているぞ」
私たちは振り返らずに、雪鯨号へと歩を進めた。
羊蹄山の頂に、一番星が光っていた。
ビリー君の手には、小さな白い羽が揺らめいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




