第24話「北の境界線」
「……ヴェロキラプトルという恐竜を知っているだろうか?」
かつて、私はこの問いから記録を始めた。
あの時は、目の前の畳の上に鎮座する異形を、どうにかして既存の論理に組み込もうと必死だったのだ。
だが、今は違う。
窓の外、津軽海峡から北を完全に飲み込んだ白銀の沈黙を見れば、ヴェロキラプトルの一匹や二匹が山悟荘の茶の間でゆで卵を食べていることなど、もはや些細な誤差に過ぎない。
世の中の人間は、ずっと温暖化のことばかりを考えていた。
だが、大家さんという老エンジニアだけは、その「先」を見ていた。海流が止まり、熱の供給が断たれ、世界が急激に冷却へと反転する瞬間を。
その予測通りなのかどうなのか判らないが、とにもかくにも本州がまだ春を待つ平穏の中にいる一方で、ここ北海道は、文明が試される「局地的な氷河期」の最前線と化しているのだった。。
ビリー君が、玄関の土間で私を見上げている。
彼は大絶滅を経験していない。巨大隕石も、衝突の冬も知らない。
ただ現代の「箱舟」にうっかり迷い込んできた迷子だ。
そして、そんな彼にとっての、今の外気は生存圏のデッドラインを超えているはずだ。
「……行くのか?」
私が聞くと、ビリー君は短く鳴き、第一ゴム製の「山吹色」の長靴から突き出た鋭い鉤爪を、凍ったコンクリートの床に立てた。
彼が着込んでいるオレンジ系迷彩柄の特注ダウンのフードの中には、白い毛玉ちゃんこと――シマエナガがしっかりと潜り込んでいる。
ハエトリグモのアダンソン先輩は、私の防寒着の襟の隙間に入り込み、そこから前脚を出して「視界クリア。いつでも撃てるぞ(Let's rock!)」とばかりに合図を送った。
我々は「生死を共にする固い絆で結ばれた戦友たち」、そう、完全装備のバンド・オブ・ブラザーズなのだ。
大家さんが調律してくれたこの山悟荘は、完璧な暖房と酸素濃度を保っている。
だが、ここに引きこもっているだけでは、いずれリソース――特に「卵」と「サッポロクラシック」が尽きてしまう。
氷河期を迎えたこの街で、人間と恐竜がどう生き抜くか。
今日のミッションは、最寄りの「スーパーアークス」への遠征だ。
「よし、アークスへ行くぞ。特売の卵を確保する」
私は物置から、最強の装備を引っ張り出した。
赤いプラスチックのソリではない。
大型で、より多くの雪や物資を運ぶために強化された黒いボディ。その名も「パパさんダンプ」。
一般的な「ママさんダンプ」よりも一回り大きく、フレームも頑丈だ。これなら一週間分の食料も余裕で積めるし、万が一ビリー君が歩けなくなっても回収可能だ。
私が玄関の重い扉を力任せに押し開けると、冷気がナイフのように突き刺してきた。
雪は止んでいる。だが、空気そのものが凍りついたような、完璧な青の世界が広がっていた。
縦型の信号機にはつららが下がり、隣近所の屋根からは巨大な雪庇が、今にも落ちてきそうな威圧感でせり出している。
ビリー君が一歩、外へ踏み出した。
白亜紀のハンターが、人類がかつて経験したことのない「新しい氷河期」の氷の路面を、長靴の金剛砂入りゴールド底で確かめるように踏みしめる。
難所はいきなり現れた。
交差点だ。
車の往来で磨き上げられた路面は、完全な「スケートリンク」と化している。
いかにビリー君の長靴がスパイク付きだとはいえ、パパさんダンプを引く私の足元はおぼつかない。
「くそっ、これじゃ渡れないぞ……」
私は電柱の脇にある「砂箱」に手を伸ばした。
滑り止めの砂が入っているはずの、黄緑色のボックス。
だが、蓋を開けた私は舌打ちした。
――空っぽだ。
肝心な時に限って、中身が入っていない。これもまた、北海道の冬の厳しい現実だ。
「ダメだ、回り道をするしかな……」
言いかけた時、ビリー君が私の前に出た。
彼は自分の腰に巻いていたポーチから、一本のペットボトルを取り出した。
中には、粉っぽい石粒が詰まっている。
「それ……いつの間に?」
ビリー君はニヤリと笑うと、器用にキャップを回して開け、ペットボトルを振りながら氷の上を歩き出した。
サラサラと撒かれる黒い砂。
それは、彼がいつぞやの散歩中にこっそり砂箱からくすねて(あるいは収集癖で溜め込んで)おいた、滑り止めの砕石だった。
氷の上に、一本の黒い道ができる。
ビリー君は振り返り、映画で覚えたあの「決め台詞」の響きで、低く喉を鳴らした。
「Vamoose(行くぜ! 僕ちゃんの背中にしっかりついてきな!)」
それは拒絶でも逃走でもない。
今夜の夕食を勝ち取るための、勇ましき開拓者の宣言だった。
論理的には、通販を待つのが正解かもしれない。
だが、私はポケットの中で、あの日ビリー君が拾ってくれた真鍮の鍵を握りしめ、彼が作った砂の道を歩き出した。
この鍵がある限り、帰る場所(チューニングされた山悟荘)はそこにある。
私はパパさんダンプのハンドルを握り直し、恐竜の背中を追って、真っ白な世界へと足を踏み出した。
愛すべき我が家のジャングルを背にして、目指すは徒歩15分の食料庫、スーパーアークスだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて、第2章「山悟荘の深層 」は完結となります。
次回、第3章でまた皆様とお会いできるのを楽しみにしております。
それでは、次なる吹雪の壱拾六軒でお待ちしております。




