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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第2章:山悟荘の深層
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第23話「鍵の非論理的な活用法」

外は相変わらず氷河期の吹雪が吠えている。

 だが、正常な酸素濃度を取り戻した山悟荘(さんごそう)茶の間(ちゃのま)は、室温25度という極上の平和に包まれていた。


 私はソファーに深く腰掛け、テレビ画面に見入っていた。

 再生しているのは、デニス・クエイド出演の映画『僕のワンダフル・ライフ』だ。

 一匹の犬が、大好きな飼い主の少年に再び会うため、何度も生まれ変わりを繰り返すという物語。実はもう何度も観ているのだが、なぜか定期的に観たくなる何かがある。


 画面の中で、少年は青年へと成長し、家を出ていく。そして残された老犬ベイリーが、静かに息を引き取る。

「……っ」

 私は堪えきれず、目頭を熱くして鼻をすすった。ハードボイルドな男たるもの、感情の起伏は最小限に抑えるべきだが、犬の純粋な愛情の前ではあらゆる理屈が無力化される。


 ふと視線を落とすと、テレビの前の床では、別の「非論理的」な事態が進行していた。

 ビリー君が、例の「真鍮製の鍵」を咥え、地熱システムの吸気パイプの前に陣取っていたのだ。そのパイプの上には、現場監督のアダンソン先輩が乗っている。


 映画は次の人生(犬生)へ進む。

 警察犬として生まれ変わったその犬は、心を閉ざした孤独な警察官の相棒となり、深い絆で結ばれる。だが、犯人を追跡する任務中、相棒を庇って銃弾に倒れ、殉職してしまうのだ。

「……うぅっ……お前ってやつは……!」

 私はハンカチを握りしめ、嗚咽を漏らした。何度観てもここで涙腺のダムが決壊する。


 その私のすすり泣きを切り裂くように、ビリー君が動いた。

 彼は真鍮の鍵の先端を、吸気パイプの表面に「カチリ」と当てたのだ。

 鍵穴などない。ただ接触させただけ。

 だが次の瞬間、微かな「共鳴音」が響いた。キィィィン……という、耳には聞こえないほどの高周波の音。


 すると、今まで部屋のどこかで鳴っていた低い不快な振動音――風圧でアルミサッシの二重窓が共振して起こる、あの「ブゥン……」という独特のうなり声が、ピタリと止まった。

(……音叉か?)

 私は涙で視界を滲ませながら、驚いて身を乗り出した。


 先輩が、右の前脚をチョンと動かす。さながら狙撃の微調整を指示するバスケスのような、鋭く的確なサインだ。ビリー君がそれに従い、鍵を数ミリ右にずらす。

 パイプの微細なノイズが消え、美しい和音のような唸りへと変化していく。昔の北海道の家によくあった「煙突式灯油ストーブ」が、完全燃焼して安定した時の、あの気持ちの良い感覚だ。


 映画の中では、三度目の生まれ変わりを果たした犬が、新しい飼い主の酷い彼氏によって、無情にも遠くの空き地に捨てられていた。

「……あのクソ野郎。動物を捨てる奴は万死に値する」

 私はギリッと奥歯を噛み締めた。

 だが、リピーターである私は知っている。この理不尽な不幸こそが、かつての飼い主の元へ自らの足で帰り着くための、絶対に必要なフラグなのだ。


 映画のシナリオが必然の軌道を描くように、この真鍮製の鍵もまた、扉を開けるための道具ではなかった。

 大家さんが作った「地熱システム」という巨大な楽器の、「調律」を行うためのツールだったのだ。


 ビリー君が鍵の角度を固定すると、空気が柔らかく対流し始めた。

 さらに、鍵から発生する微細な振動は、シマエナガにとって最高に心地よい「マッサージ器」になったらしい。白い毛玉は鍵の持ち手部分に止まり、羽を膨らませてうっとりと目を閉じている。


「お前たち、それを『指揮棒』だと思ってたのか……」

Vamoose(ヴァムース)(あったりまえじゃん! 僕ちゃんの絶対音感を舐めないでほしいね!)」

 ビリー君は自慢げに喉を鳴らした。


 そして、映画はついにクライマックスへ。

 長い旅路の果てに、犬はようやく最初の飼い主を見つけ出す。だが、すっかり気難しいおっさんになってしまった元飼い主は、なかなか彼を受け入れようとしない。

 それでもその犬のおかげで、気難しいおっさんは昔の恋人と再会し、ついに結婚を果たす。

「……出来すぎた話だ。ご都合主義にもほどがある」

 私はハードボイルドな批評家を気取って呟きながらも、顔面を涙でビショビショに濡らしていた。


 私は立ち上がり、台所(だいどころ)から、出来上がったゆで卵を二つ持ってきた。

 一つは自分用に。もう一つは、この家のノイズを消し去ってくれた、有能な調律師の恐竜に。


 映画もいよいよラストシーンに突入だ。

 気難しいおっさんから、ちょっとソフトになったおっさんは、この見知らぬ犬がかつて飼っていた犬と同じ仕草をすることに気づき、ついに「お前……ボス・ドッグなのか?」と悟る。犬の首輪には新しく「ベイリー」と彫刻されたプレートが取り付けられた。


 私たちは茶の間(ちゃのま)に並んで座り、カチカチと殻を剥いた。

 温かい卵を頬張る。

 横を見ると、ビリー君もなぜか瞳を潤ませながら、私と同じタイミングでゆで卵を丸飲みしていた。


Vamoose(ヴァムース)(……クゥ〜ッ、なんか分かんないけど、ハッピーエンドって最高だね、アキラ……!)」


 涙もろいスキンヘッドの男と、涙ぐむ恐竜。

 エンドロールが流れる中、完璧に調律された山悟荘(さんごそう)の空気が、優しく私を包み込んでいた。二重窓の不快な共鳴音は消え去り、あるのは深い安らぎのハーモニーだけだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。

もし作品を気に入っていただけましたら、ページ下部のブックマークや評価などで応援をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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