第19話「怠惰な食虫植物と、秋味の祝祭」
室温28度、湿度60%。
床下の「白亜紀の通気口」から漏れ出す濃密な大気によって、我が家の巨大なテラリウム(茶の間)は完璧な熱帯雨林と化していた。
モンステラは天を突き、カラテアはワサワサと葉を揺らしている。
だが、豊かな生態系には必ず「招かれざる客」が付き物だ。
私の目の前を、フワリと白い粉のような極小の虫が飛んだ。
オンシツコナジラミだ。
乾燥と寒さに弱いはずの彼らだが、この白亜紀の気候下では異常な繁殖力を見せ、観葉植物の樹液を吸おうと虎視眈々と狙っている。
本来なら、私はここで焦る必要はなかった。
なぜなら、この事態を想定して、窓際には数鉢の「モウセンゴケ」を配備していたからだ。葉の表面から甘い粘液のシャボン玉を出し、コバエやコナジラミを絡めとる、美しき食虫植物。
だが、私は鉢を見て舌打ちをした。
「……おい、どうしたんだお前たち」
モウセンゴケたちは、なぜか極端に元気がなかった。
粘液の粒は干からび、葉はだらんと垂れ下がっている。他の植物が異常なスピードで巨大化しているというのに、彼らだけが「成長不良」を起こしているのだ。
(……そうか。食虫植物は本来、栄養の乏しい痩せた土地で生き抜くために虫を食うよう進化した。だが、この部屋は今、酸素も微生物も飽和状態の「超・富栄養環境」だ。根から十分すぎるエネルギーを吸い上げているせいで、わざわざ虫を捕る必要がなくなり……ニート化したとでもいうのか!)
「いや、それならワサワサに育ってもいいだろうが」と声に出してみる。
白亜紀の空気が生んだ、まさかの怠惰。平和ボケしたモウセンゴケに頼るわけにはいかない。
その時、巨大なモンステラの葉の上から、音もなく黒い影が飛び降りた。
我らが現場監督、ハエトリグモのアダンソン先輩だ。
漆黒のボディに白い三日月の紋様。彼女の八つの瞳が、空を舞うコナジラミを完全にロックオンしていた。
ただの捕食ではない。むせ返るような硝煙と殺意の匂い。
―― Let's rock!(やってやるぜ!)
私の脳内に、あの野太いシャウトが響いた気がした。
シュバッ!
先輩が宙を舞う。通常の三倍、いや五倍のスピードだ。高濃度の酸素を全身の気門から吸い込み、彼女の脚力と反射神経は、ハエトリグモの限界を完全に超えていた。
「黒い稲妻」となって空中をジグザグに跳ね回り、まるで巨大なスマートガンを乱射する植民地海兵隊のごとき制圧機動で、白い害虫たちを次々と空中でキャッチしていく。
畳の上で寝そべっていたビリー君も、そのあまりのスピードに目を丸くし、「Vamoose(すげえや姐御! マジでバッドアスだぜ!)」と声を上げている。シマエナガに至っては、先輩の残像を目で追いきれず、首をぐるぐると回して目を回していた。
ものの数分で、茶の間の制空権は完全に取り戻された。
葉の上に着地した先輩は、前脚をスッと持ち上げ、私に向けて「任務完了」の敬礼をした。
「……見事だ、先輩。今日は特別ボーナスを出そう」
私は立ち上がり、台所の冷蔵庫の冷凍室を開けた。
取り出したのは、秋のうちに買っておいた鮭の半身だ。
パッケージには、白黒の事務的なシールで「北海道産・秋鮭」と印字されている。私はそれを見た瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「……ビリー君、聞いてくれ」
私は鮭のパックを片手に、なぜか無駄に大きな声を出していた。
「本州のルールに縛られたスーパーの連中は、これを『秋鮭』と呼ぶ! 食品表示法だのPOSシステムだの、効率化の波に飲まれてな! だが違う! 厳しい冬を前に、己の故郷の川へ命がけで戻ってくるこのシロザケの勇姿……それは我々にとって『アキアジ』なんだよ!!」
ビリー君はポカンとして私を見上げている。
だが、私の口は止まらなかった。思考が異常なスピードで回転し、言葉が次々と溢れ出してくる。なんだこの高揚感は。体が熱い。
「スーパーのポップがどうであろうと、私の魂のバーコードまでは書き換えられない! こいつはアキアジだ! そして、このアキアジと、秋に収穫されたキャベツや玉ねぎを、豪快に鉄板で焼く! これこそが北海道の漁師のソウルフード、『ちゃんちゃん焼き』だ!」
私は茶の間の座卓に大型のホットプレートをドンと置き、温度を最大に設定した。油をひき、半解凍の秋味……いや、秋鮭の切り身を皮目から豪快に並べる。
ジュウウウッ!!
凄まじい音と蒸気が、白亜紀の空気に混ざり合う。
山盛りのキャベツ、もやし、玉ねぎで鮭を覆い隠し、その上から、白味噌、酒、みりん、そしてたっぷりの砂糖を混ぜ合わせた「特製・甘味噌ダレ」をぶっかけた。
「仕上げはこれだァ!」
私は、雪印の北海道バター(有塩)の塊を、惜しげもなく頂上に投下した。
蒸し焼きにされた鮭の旨味、野菜の甘み、焦げる味噌の香ばしさ、そして溶け出すバターのむせかえるような香り。
ビリー君がたまらずホットプレートに身を乗り出し、「Vamoose(早く食わせろよ! 僕ちゃんの胃袋がブラックホールになっちゃうぜ!)」と狂ったように尻尾を畳に叩きつけている。
「よし、食え! 激闘を制した勇者たちの宴だ!」
私は熱々の鮭と野菜を小皿に取り分け、ビリー君と先輩に振る舞った。
ビリー君は、ハフハフと白い息を吐きながら、甘い味噌とバターが絡んだ鮭を丸飲みする。彼の白亜紀の胃袋が、北海道の秋の味覚に完全に制圧された瞬間だった。
「Vamoose(……っ! 最高だぜ! 僕ちゃんの脳内で極上の美味のビッグバンが起きた!)」
黄金色の瞳をカッと見開き、これまでで一番長く、そして熱い歓喜の咆哮を上げる恐竜。
「そうだろう! これがアキアジだ! バターと甘味噌だ! 北海道の冬はカロリーが正義なんだよ!!」
私はジョッキに注いだサッポロクラシックを煽り、笑い声を上げた。
熱い。たまらなく暑い。
私は着ていたフリースを脱ぎ捨て、Tシャツ一枚になった。
頭の芯がジンジンと痺れるように気持ちいい。すべてが完璧に思える。モウセンゴケが働かなくたって、先輩がいればいい。外が氷河期だって、家の中で鮭を焼けばいい。
私は我々の身に起きている、事の重大性など知る由もなかった。
ただ、この熱狂のまま、食後に西部劇でも見ようと、テレビのリモコンに手を伸ばした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




