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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第2章:山悟荘の深層
19/21

第19話「怠惰な食虫植物と、秋味の祝祭」

 室温28度、湿度60%。

 床下の「白亜紀の通気口」から漏れ出す濃密な大気によって、我が家の巨大なテラリウム(茶の間(ちゃのま))は完璧な熱帯雨林と化していた。

 

 モンステラは天を突き、カラテアはワサワサと葉を揺らしている。

 だが、豊かな生態系には必ず「招かれざる客」が付き物だ。

 私の目の前を、フワリと白い粉のような極小の虫が飛んだ。

 オンシツコナジラミだ。

 乾燥と寒さに弱いはずの彼らだが、この白亜紀の気候下では異常な繁殖力を見せ、観葉植物の樹液を吸おうと虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。

 

 本来なら、私はここで焦る必要はなかった。

 なぜなら、この事態を想定して、窓際には数鉢の「モウセンゴケ」を配備していたからだ。葉の表面から甘い粘液のシャボン玉を出し、コバエやコナジラミを絡めとる、美しき食虫植物。

 だが、私は鉢を見て舌打ちをした。

 

「……おい、どうしたんだお前たち」

 モウセンゴケたちは、なぜか極端に元気がなかった。

 粘液の粒は干からび、葉はだらんと垂れ下がっている。他の植物が異常なスピードで巨大化しているというのに、彼らだけが「成長不良」を起こしているのだ。


(……そうか。食虫植物は本来、栄養の乏しい痩せた土地で生き抜くために虫を食うよう進化した。だが、この部屋は今、酸素も微生物も飽和状態の「超・富栄養環境」だ。根から十分すぎるエネルギーを吸い上げているせいで、わざわざ虫を捕る必要がなくなり……ニート化したとでもいうのか!)


 「いや、それならワサワサに育ってもいいだろうが」と声に出してみる。

 

 白亜紀の空気が生んだ、まさかの怠惰。平和ボケしたモウセンゴケに頼るわけにはいかない。

 その時、巨大なモンステラの葉の上から、音もなく黒い影が飛び降りた。

 我らが現場監督、ハエトリグモのアダンソン先輩だ。

 漆黒のボディに白い三日月の紋様。彼女の八つの瞳が、空を舞うコナジラミを完全にロックオンしていた。

 ただの捕食ではない。むせ返るような硝煙と殺意の匂い。

 ―― Let's rock!(やってやるぜ!)

 私の脳内に、あの野太いシャウトが響いた気がした。

 

 シュバッ!

 先輩が宙を舞う。通常の三倍、いや五倍のスピードだ。高濃度の酸素を全身の気門(きもん)から吸い込み、彼女の脚力と反射神経は、ハエトリグモの限界を完全に超えていた。

 「黒い稲妻」となって空中をジグザグに跳ね回り、まるで巨大なスマートガンを乱射する植民地海兵隊のごとき制圧機動で、白い害虫たちを次々と空中でキャッチしていく。

 

 畳の上で寝そべっていたビリー君も、そのあまりのスピードに目を丸くし、「Vamoose(ヴァムース)(すげえや姐御! マジでバッドアスだぜ!)」と声を上げている。シマエナガに至っては、先輩の残像を目で追いきれず、首をぐるぐると回して目を回していた。

 

 ものの数分で、茶の間(ちゃのま)の制空権は完全に取り戻された。

 葉の上に着地した先輩は、前脚をスッと持ち上げ、私に向けて「任務完了」の敬礼をした。

「……見事だ、先輩。今日は特別ボーナスを出そう」

 私は立ち上がり、台所(だいどころ)の冷蔵庫の冷凍室を開けた。

 取り出したのは、秋のうちに買っておいた鮭の半身だ。

 

 パッケージには、白黒の事務的なシールで「北海道産・秋鮭(あきざけ)」と印字されている。私はそれを見た瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

「……ビリー君、聞いてくれ」


 私は鮭のパックを片手に、なぜか無駄に大きな声を出していた。

「本州のルールに縛られたスーパーの連中は、これを『秋鮭(あきざけ)』と呼ぶ! 食品表示法だのPOSシステムだの、効率化の波に飲まれてな! だが違う! 厳しい冬を前に、己の故郷の川へ命がけで戻ってくるこのシロザケの勇姿……それは我々にとって『アキアジ』なんだよ!!」

 

 ビリー君はポカンとして私を見上げている。

 だが、私の口は止まらなかった。思考が異常なスピードで回転し、言葉が次々と溢れ出してくる。なんだこの高揚感は。体が熱い。


「スーパーのポップがどうであろうと、私の魂のバーコードまでは書き換えられない! こいつはアキアジだ! そして、このアキアジと、秋に収穫されたキャベツや玉ねぎを、豪快に鉄板で焼く! これこそが北海道の漁師のソウルフード、『ちゃんちゃん焼き』だ!」

 

 私は茶の間(ちゃのま)の座卓に大型のホットプレートをドンと置き、温度を最大に設定した。油をひき、半解凍の秋味……いや、秋鮭の切り身を皮目から豪快に並べる。

 ジュウウウッ!!

 凄まじい音と蒸気が、白亜紀の空気に混ざり合う。

 山盛りのキャベツ、もやし、玉ねぎで鮭を覆い隠し、その上から、白味噌、酒、みりん、そしてたっぷりの砂糖を混ぜ合わせた「特製・甘味噌ダレ」をぶっかけた。

 

「仕上げはこれだァ!」

 私は、雪印の北海道バター(有塩)の塊を、惜しげもなく頂上に投下した。

 蒸し焼きにされた鮭の旨味、野菜の甘み、焦げる味噌の香ばしさ、そして溶け出すバターのむせかえるような香り。

 ビリー君がたまらずホットプレートに身を乗り出し、「Vamoose(ヴァムース)(早く食わせろよ! 僕ちゃんの胃袋がブラックホールになっちゃうぜ!)」と狂ったように尻尾を畳に叩きつけている。

 

「よし、食え! 激闘を制した勇者たちの宴だ!」

 私は熱々の鮭と野菜を小皿に取り分け、ビリー君と先輩に振る舞った。

 ビリー君は、ハフハフと白い息を吐きながら、甘い味噌とバターが絡んだ鮭を丸飲みする。彼の白亜紀の胃袋が、北海道の秋の味覚に完全に制圧された瞬間だった。

 

Vamoose(ヴァムース)(……っ! 最高だぜ! 僕ちゃんの脳内で極上の美味のビッグバンが起きた!)」

 黄金色の瞳をカッと見開き、これまでで一番長く、そして熱い歓喜の咆哮を上げる恐竜。

「そうだろう! これがアキアジだ! バターと甘味噌だ! 北海道の冬はカロリーが正義なんだよ!!」

 私はジョッキに注いだサッポロクラシックを煽り、笑い声を上げた。

 

 熱い。たまらなく暑い。

 私は着ていたフリースを脱ぎ捨て、Tシャツ一枚になった。

 頭の芯がジンジンと痺れるように気持ちいい。すべてが完璧に思える。モウセンゴケが働かなくたって、先輩がいればいい。外が氷河期だって、家の中で鮭を焼けばいい。

 

 私は我々の身に起きている、事の重大性など知る由もなかった。

 ただ、この熱狂のまま、食後に西部劇でも見ようと、テレビのリモコンに手を伸ばした。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。

もし作品を気に入っていただけましたら、ページ下部のブックマークや評価などで応援をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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