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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第2章:山悟荘の深層
18/21

第18話「氷河期の特異点と、白亜の通気口」

 テレビの天気予報が、北海道の地図を不吉な「紫一色」に染め上げている。

 大陸から切り離された北の大地だけに、数年に一度クラスの猛烈な寒波が居座っているらしい。ニュースキャスターは連日、過去最低気温の更新と雪解けの遅れを淡々と伝えている。

 

 学説によれば、地球は長い間氷期を終え、再び本格的な氷河期(真冬)へと向かっているらしい。

 だが、私は特に悲観していない。

 人類はすでに、寒さを凌ぐための断熱技術も、エネルギーを生み出す文明も獲得している。スーパーに行けば物流網のおかげで野菜も手に入る。

 ただ、春が少し遠くなり、冬の装備が厚くなるだけのことだ。

 

 しかし、真鍮の鍵が回されたこの山悟荘(さんごそう)の中だけは、さらに事情が違っていた。

 ここは別の惑星のように平和な「白亜紀の飛び地」となっていたのだ。

 私はTシャツ姿で、茶の間(ちゃのま)の棚に並んだ愛すべき「同居植物」たちの異変を観察していた。

 

 まず、多肉植物の「ハオルチア」たち。普段は成長が遅く、静かな宝石のような植物だが、今はその透明な「窓」が内側から発光するようにパンパンに膨らみ、見たこともない太さの花芽をぐんぐんと伸ばしている。

 そして、床置きの「カラテア」。

 これは昔、「スイートデコレーション」で見つけて一目惚れし、奮発して買ったシブい陶器鉢に植え替えたものだ。

 

 複雑な葉の模様を持つこの植物は、夜になると葉を閉じる習性があるが、今の彼らはまるで早回しの映像を見ているかのように、ワサワサと葉を広げたり閉じたりしている。スイデコの鉢の和風モダンなデザインが霞むほど、植物自体の生命力が暴走している。

 

 私は深く息を吸い込んだ。

 濃い。重い。そして、甘い腐葉土のような香り。

 これは単なる「高濃度の酸素」ではない。二酸化炭素濃度、湿度、そして微生物の密度に至るまで、すべてがヴェロキラプトルのいた「白亜紀の大気」そのものなのだ。

 

 現代とは異なる成分比率の大気。それが植物たちの光合成を爆発的に加速させ、ハエトリグモであるアダンソン先輩の呼吸器を活性化させている。

 漆黒のボディに白い三日月の紋様を持つ先輩は今、巨大化したカラテアの葉をサーキット場にして、残像が見える速度で走り回っている。まさに「黒い稲妻」。未開のジャングルを切り裂いて進む植民地海兵隊の尖兵(せんぺい)のごとき、バッドアスな機動力だ。

 

 私はふと、ある仮説に行き当たった。

 あの床下の通気口。私が真鍮の鍵で、完全に開放したのはつい昨日だ。

 しかし、順序が逆だったら?

 もし――「空気漏れ」はずっと前から起きていたとしたら?

 

 思い返せば、私が引っ越ってきた当初から、モンステラは異常に巨大化し、ハオルチアは枯れることを知らなかった。

 あの床下のバルブは、完全に閉じていたのではなく、わずかに「白亜紀の吐息」を漏らし続けていたのではないか。

 だとすれば、ビリー君がこの家に現れた理由の辻褄が合うのではないか?

 彼は偶然ここに現れたのではない。白亜紀の空気が時空の隙間から漏れ出すように、この山悟荘(さんごそう)のどこかにあった『時空の隙間』から、ビリー君はやってきたのではないのか?

 

「……そうだったのか、ビリー君。君は迷子になってしまったんだな?」

 不憫なヴェロキラプトルの身の上に起きた出来事を憂いた私が涙ながらに言うと、通気口の側で寝転んでいたビリー君が、片目だけ薄く開けた。

 彼は今、完全に液状化している。

 故郷の空気を全身に浴びて、お腹を天井に向け、無防備に手足を投げ出し、板の間(いたのま)の上で溶けたバターのようになっている。

 

 そのお腹の上では、シマエナガの白い毛玉ちゃんが「ここが一番空気がおいしい!」とばかりに羽を膨らませて埋まっていた。

 ビリー君の黄金色の瞳はとろんと濁り、鋭い狩人の勘は完全にオフになっている。

 

「もし、帰る道が見つかったら、どうする?」

 私は、少し意地悪く聞いてみた。

 ビリー君は大きな口を開けてあくびをし、その風圧でシマエナガが驚いて飛び立つのを目で追った。

 そして、私を見て、ゆっくりと、心底面倒くさそうに首を横に振った。

Namoose(ナムース)(冗談キツイぜ、アキラ。こんな極楽を手放して、わざわざサバイバルに戻る馬鹿な恐竜がどこにいるってのさ。僕ちゃん、ここから一歩も動かないからね!)」

 彼には「帰郷」への執着がないようだ。

 

 そもそも、戻る方法を知らないのだろうし、知る必要も感じていない。彼にとって重要なのは、「今ここが暖かい」という事実だけだ。

 孫( シマエナガ)もいる。先輩( ハエトリグモ)もいる。卵を焼いて特注のダウンジャケットを着せてくれる人間もいる。

 

 彼の論理はシンプルだ。環境が最適化されているなら、移動(Vamoose(ヴァムース))する必要はない。

 全身からあふれるのは、野生の放棄と、圧倒的な充足感だけだ。そう、彼が満足なら私も満足だ。

 私は苦笑して、よく冷えたサッポロクラシックの缶を開けた。プシュッ、という音が白亜紀の空気に響く。

 外の世界がどれほど凍りつき、氷河期が訪れようとも、この小さな通気口がある限り、私たちは快適だ。

 

 窓の外では風速数十メートルの暴風雪が吹き荒れているが、この特異点(山悟荘(さんごそう)茶の間(ちゃのま))の住人たちは、誰一人として窓の方を見ようともしない。

 現代文明のインフラと、太古の恵み。

 そのハイブリッドこそが、この家の最強の生存戦略なのだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。

もし作品を気に入っていただけましたら、ページ下部のブックマークや評価などで応援をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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