表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第2章:山悟荘の深層
17/19

第17話「大家さんが来る日」

 4月も間近だというのに、まだ冬は終わる気配を見せない。

 外は白く、冷たく、静寂に包まれている。それはもう季節の遅れというより、この世界そのものの仕様が書き換わったかのようだ。だが、この家の中のジャングルだけは、今日も着実に勢力を拡大している。

 

 ビリー君は朝から忙しかった。

 巨大化したモンステラの葉の状態を確認し、床に落ちていたネジを拾い、「これはまだ使える」と判断したら紙袋に入れて紙袋の上に座る。在庫管理と保守点検。彼なりの通常業務だ。

 その時、インターホンが鳴った。

 

 ピンポーン。

 ビリー君の首が、グルンと私の方を向く。黄金の瞳が細くなり、長靴の先から鉤爪がわずかに浮いた。

「……グルル」

 彼は短く息を吸い、玄関を睨んだ。「排除するか?」という問いだ。

「違う。今日は点検だ。水道管が凍結したら困るだろう?」

 私が説明すると、ビリー君は鉤爪を下ろし、納得したように喉を鳴らした。排除対象ではない。ならば、監視対象だ、と。

 

 玄関を開けると、そこに立っていたのは山悟荘(さんごそう)の家主、大家さんだった。

 白髪に皺こそ刻まれているが、眼光は鋭く肌ツヤはすこぶる良い。分厚い防寒着と長靴という出で立ちでありながら、どこか「(おさ)」としてのただならぬ品格が漂っている。手には年季の入った工具箱を持っていた。

  

「やあ、アキラさん! いやあ、4月だというのに今日もしばれますねぇ! ちょっと台所(だいどころ)の配管、見せてもらいますよ。冬はメンテが命ですからね」

 語り口は丁寧だが、身振り手振りが大きく、妙に熱っぽい。

「はい、どうぞ」

 私が招き入れたその瞬間――ぬっと、背後の茶の間(ちゃのま)からビリー君が現れた。

 

 大家さんの視線が止まる。

「……」

 大家さんは目を細め、ビリー君の喉元のアンズ色の羽毛や、鋭い鉤爪、そしてその黄金色の瞳をじっくりと観察した。驚くでもなく、怖がるでもなく。まるで建物の基礎のひび割れを確認するかのような、常軌を逸した冷静さだ。

 そして、フムフムと深く納得したように頷いた。

 

「……恐竜、ですね」

「ええ、まあ」

「本物の?」

「本物の、ヴェロキラプトルです。多分」

 大家さんは「なるほど」と呟き、防寒着の襟を正した。

「まあ、これだけ冬が長引いてますからね。恐竜の1匹や2匹、湧いてきても不思議ではありませんね」

(異常事態が重なると、人間は論理の飛躍を許容するのだろうか?)

 

 大家さんが台所のシンク下の収納扉を開け、点検作業を始めると、すぐに「現場監督」が動いた。

 大家さんがしゃがむたびに、ビリー君の首が同じ角度で傾く。さらに、音もなくハエトリグモのアダンソン先輩が現れ、大家さんが握るレンチの上にピョンと飛び乗った。背後では、シマエナガの毛玉ちゃんがモンステラの葉から身を乗り出して「ジュルッ!」と鋭く鳴く。

 ラプトルの監督、クモの監査官、そして野鳥の野次馬。フルメンバーでの現場入りだ。

 

「……これ、ものすごく見られてます?」

「ええ。作業工程のチェックだそうです。『そのパッキン、本当に耐久性あるのか?』と申しております」

「厳しいなぁ……こりゃあ、手は抜けませんね」

 大家さんは苦笑しながらも、ビリー君の視線と、レンチの上の先輩の無言のプレッシャーに急かされるように、鮮やかな手際で古い断熱材を剥がし、配管を交換していった。

 

「はい、これで完了です。配管周りの余計なゴミも片付けておきましたから」

 作業を終えた大家さんに、ビリー君が近づき、その足元を一周して匂いを嗅いだ。そして、玄関の方を向いて言った。

Vamoose(ヴァムース)(よし、合格! 僕ちゃんが帰還を許可するよ!)」

「おぉ、もう帰っていいんですかね?」

「はい。検査合格だそうです」

 大家さんは「恐竜さんに認められるとは光栄です」と深々と頭を下げ、嵐のように去っていった。

 静寂が戻る。

 

 私は、まだ開いたままになっているシンク下の点検口を覗き込んだ。「余計なゴミも片付けておきました」という言葉通り、長年詰め込まれていたボロボロの断熱材が撤去され、床下の空間がすっきりと広がっている。

 そのおかげで、今まで隠れていた「奥の壁面」が露わになっていた。

 

(……なんだ、あれは?)

 懐中電灯で照らす。

 新しい塩ビパイプの奥。基礎コンクリートの壁に、古びた金属製の制御盤のような箱が埋め込まれているのが見えた。その中央には、六角形の紋章が刻まれた鍵穴がある。大家さんが今日設置したものではない。この家の基礎の一部として、ずっとここにあったに違いない。

 六角形の紋章。どこかで見た記憶がある。

 

 私は茶の間の棚にあるガラクタ入れをひっくり返した。出てきたのは、以前ビリー君がゴミ袋に放り込み、私がゴミステーションで回収した、あの小汚い「真鍮の鍵」だ。あの時はただのゴミだと思ったが、今は手の中で吸い付くような重みを感じる。

 ビリー君が、音もなく私の横に並んだ。彼がグルルと喉を鳴らす。それは獲物を前にした時の声ではなく、もっと根源的な、懐かしむような響きだった。

 

(変数は揃った)

 柄にもなく、心拍数が跳ね上がるのを感じる。私はわずかに震える手で、その古びた鍵穴に真鍮の鍵を差し込んだ。吸い込まれるように噛み合う。今まさに、この『山悟荘(さんごそう)』の根源的な謎が解き明かされようとしている。

 

 息を止め、鍵を回す。

 ――カチリ。

 硬質な音が響いた、その瞬間。

 世界の色相が変わった。

 ゴォォォ……という低い音が、床下からではなく、空気そのものから響き渡った。気圧が急激に変化し、耳がツンとする。

 

 次の瞬間、部屋の中を猛烈な「匂い」が満たした。

 湿った土。濃密なシダ植物。腐葉土と、むせ返るような花の香り。それは、現代の冬の乾燥した空気ではない。酸素濃度が跳ね上がったのが肌でわかる。肺が焼けるように熱く、そして軽い。

 

「……これは、暖房なんてレベルじゃない」

 室温が上昇していく。だが、エアコンの風ではない。太陽の輻射熱のような、重たくて生命力に満ちた熱だ。モンステラの若葉が、目の前で「バサリ」と音を立ててさらに開いた。

 この空間だけが、数千万年の時をロールバックしているかのようだ。

 

 ビリー君は、目を閉じて深く息を吸い込んだ。

 全身のアンズ色の羽毛が、湿った空気を孕んでふわりと逆立つ。その喉から、今まで聞いたことのない、鳥のさえずりを重低音にしたような、長く美しい声が漏れた。

 それは「Vamoose」のような借り物の言葉ではない。白亜紀の咆哮(ほうこう)。彼の本当の声だ。

 

 アダンソン先輩も濃い酸素を得て、目にも留まらぬ速さで壁を駆け上がっていく。

 窓の外を見る。

 雪は降り続いている。終わらない冬、氷河期のような白い世界。だが、二重サッシの窓ガラスで隔てたこの部屋の中は、今、紛れもなく「白亜紀」だった。

(まさか。ここはただの古い家ではなく、テラリウムだったとでもいうのか)

 ビリー君は満足そうに床に腹をつけ、私を見上げた。その瞳は、もはや迷子ではない。自分の王国の王の目だった。

 

Vamoose(ヴァムース)(……あぁ、ここが僕ちゃんの帰る場所なのかも〜)」

 ここは捨てる場所ではない。帰る場所だ。彼はそう告げると、大きくあくびをした。

 私は鍵を回したままにして、点検口を閉じた。

 大家さんの「恐竜、湧きますよね」という言葉を思い出す。あれは比喩ではなかった。環境が整えば、恐竜が発生するのだ。

 

 私はTシャツ1枚になり、汗ばんだ額を拭って、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出した。輝く星のマーク、サッポロクラシック。

「……悪くない環境設定だと思わないか?ビリー君」

 私はビリー君の隣に座り、プシュッと小気味よい音を立てて喉を潤した。

 変わってしまうものもあれば、この部屋の空気のように、1億年経っても変わらないものもあるのだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。

もし作品を気に入っていただけましたら、ページ下部のブックマークや評価などで応援をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ