第17話「大家さんが来る日」
4月も間近だというのに、まだ冬は終わる気配を見せない。
外は白く、冷たく、静寂に包まれている。それはもう季節の遅れというより、この世界そのものの仕様が書き換わったかのようだ。だが、この家の中のジャングルだけは、今日も着実に勢力を拡大している。
ビリー君は朝から忙しかった。
巨大化したモンステラの葉の状態を確認し、床に落ちていたネジを拾い、「これはまだ使える」と判断したら紙袋に入れて紙袋の上に座る。在庫管理と保守点検。彼なりの通常業務だ。
その時、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
ビリー君の首が、グルンと私の方を向く。黄金の瞳が細くなり、長靴の先から鉤爪がわずかに浮いた。
「……グルル」
彼は短く息を吸い、玄関を睨んだ。「排除するか?」という問いだ。
「違う。今日は点検だ。水道管が凍結したら困るだろう?」
私が説明すると、ビリー君は鉤爪を下ろし、納得したように喉を鳴らした。排除対象ではない。ならば、監視対象だ、と。
玄関を開けると、そこに立っていたのは山悟荘の家主、大家さんだった。
白髪に皺こそ刻まれているが、眼光は鋭く肌ツヤはすこぶる良い。分厚い防寒着と長靴という出で立ちでありながら、どこか「長」としてのただならぬ品格が漂っている。手には年季の入った工具箱を持っていた。
「やあ、アキラさん! いやあ、4月だというのに今日もしばれますねぇ! ちょっと台所の配管、見せてもらいますよ。冬はメンテが命ですからね」
語り口は丁寧だが、身振り手振りが大きく、妙に熱っぽい。
「はい、どうぞ」
私が招き入れたその瞬間――ぬっと、背後の茶の間からビリー君が現れた。
大家さんの視線が止まる。
「……」
大家さんは目を細め、ビリー君の喉元のアンズ色の羽毛や、鋭い鉤爪、そしてその黄金色の瞳をじっくりと観察した。驚くでもなく、怖がるでもなく。まるで建物の基礎のひび割れを確認するかのような、常軌を逸した冷静さだ。
そして、フムフムと深く納得したように頷いた。
「……恐竜、ですね」
「ええ、まあ」
「本物の?」
「本物の、ヴェロキラプトルです。多分」
大家さんは「なるほど」と呟き、防寒着の襟を正した。
「まあ、これだけ冬が長引いてますからね。恐竜の1匹や2匹、湧いてきても不思議ではありませんね」
(異常事態が重なると、人間は論理の飛躍を許容するのだろうか?)
大家さんが台所のシンク下の収納扉を開け、点検作業を始めると、すぐに「現場監督」が動いた。
大家さんがしゃがむたびに、ビリー君の首が同じ角度で傾く。さらに、音もなくハエトリグモのアダンソン先輩が現れ、大家さんが握るレンチの上にピョンと飛び乗った。背後では、シマエナガの毛玉ちゃんがモンステラの葉から身を乗り出して「ジュルッ!」と鋭く鳴く。
ラプトルの監督、クモの監査官、そして野鳥の野次馬。フルメンバーでの現場入りだ。
「……これ、ものすごく見られてます?」
「ええ。作業工程のチェックだそうです。『そのパッキン、本当に耐久性あるのか?』と申しております」
「厳しいなぁ……こりゃあ、手は抜けませんね」
大家さんは苦笑しながらも、ビリー君の視線と、レンチの上の先輩の無言のプレッシャーに急かされるように、鮮やかな手際で古い断熱材を剥がし、配管を交換していった。
「はい、これで完了です。配管周りの余計なゴミも片付けておきましたから」
作業を終えた大家さんに、ビリー君が近づき、その足元を一周して匂いを嗅いだ。そして、玄関の方を向いて言った。
「Vamoose(よし、合格! 僕ちゃんが帰還を許可するよ!)」
「おぉ、もう帰っていいんですかね?」
「はい。検査合格だそうです」
大家さんは「恐竜さんに認められるとは光栄です」と深々と頭を下げ、嵐のように去っていった。
静寂が戻る。
私は、まだ開いたままになっているシンク下の点検口を覗き込んだ。「余計なゴミも片付けておきました」という言葉通り、長年詰め込まれていたボロボロの断熱材が撤去され、床下の空間がすっきりと広がっている。
そのおかげで、今まで隠れていた「奥の壁面」が露わになっていた。
(……なんだ、あれは?)
懐中電灯で照らす。
新しい塩ビパイプの奥。基礎コンクリートの壁に、古びた金属製の制御盤のような箱が埋め込まれているのが見えた。その中央には、六角形の紋章が刻まれた鍵穴がある。大家さんが今日設置したものではない。この家の基礎の一部として、ずっとここにあったに違いない。
六角形の紋章。どこかで見た記憶がある。
私は茶の間の棚にあるガラクタ入れをひっくり返した。出てきたのは、以前ビリー君がゴミ袋に放り込み、私がゴミステーションで回収した、あの小汚い「真鍮の鍵」だ。あの時はただのゴミだと思ったが、今は手の中で吸い付くような重みを感じる。
ビリー君が、音もなく私の横に並んだ。彼がグルルと喉を鳴らす。それは獲物を前にした時の声ではなく、もっと根源的な、懐かしむような響きだった。
(変数は揃った)
柄にもなく、心拍数が跳ね上がるのを感じる。私はわずかに震える手で、その古びた鍵穴に真鍮の鍵を差し込んだ。吸い込まれるように噛み合う。今まさに、この『山悟荘』の根源的な謎が解き明かされようとしている。
息を止め、鍵を回す。
――カチリ。
硬質な音が響いた、その瞬間。
世界の色相が変わった。
ゴォォォ……という低い音が、床下からではなく、空気そのものから響き渡った。気圧が急激に変化し、耳がツンとする。
次の瞬間、部屋の中を猛烈な「匂い」が満たした。
湿った土。濃密なシダ植物。腐葉土と、むせ返るような花の香り。それは、現代の冬の乾燥した空気ではない。酸素濃度が跳ね上がったのが肌でわかる。肺が焼けるように熱く、そして軽い。
「……これは、暖房なんてレベルじゃない」
室温が上昇していく。だが、エアコンの風ではない。太陽の輻射熱のような、重たくて生命力に満ちた熱だ。モンステラの若葉が、目の前で「バサリ」と音を立ててさらに開いた。
この空間だけが、数千万年の時をロールバックしているかのようだ。
ビリー君は、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
全身のアンズ色の羽毛が、湿った空気を孕んでふわりと逆立つ。その喉から、今まで聞いたことのない、鳥のさえずりを重低音にしたような、長く美しい声が漏れた。
それは「Vamoose」のような借り物の言葉ではない。白亜紀の咆哮。彼の本当の声だ。
アダンソン先輩も濃い酸素を得て、目にも留まらぬ速さで壁を駆け上がっていく。
窓の外を見る。
雪は降り続いている。終わらない冬、氷河期のような白い世界。だが、二重サッシの窓ガラスで隔てたこの部屋の中は、今、紛れもなく「白亜紀」だった。
(まさか。ここはただの古い家ではなく、テラリウムだったとでもいうのか)
ビリー君は満足そうに床に腹をつけ、私を見上げた。その瞳は、もはや迷子ではない。自分の王国の王の目だった。
「Vamoose(……あぁ、ここが僕ちゃんの帰る場所なのかも〜)」
ここは捨てる場所ではない。帰る場所だ。彼はそう告げると、大きくあくびをした。
私は鍵を回したままにして、点検口を閉じた。
大家さんの「恐竜、湧きますよね」という言葉を思い出す。あれは比喩ではなかった。環境が整えば、恐竜が発生するのだ。
私はTシャツ1枚になり、汗ばんだ額を拭って、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出した。輝く星のマーク、サッポロクラシック。
「……悪くない環境設定だと思わないか?ビリー君」
私はビリー君の隣に座り、プシュッと小気味よい音を立てて喉を潤した。
変わってしまうものもあれば、この部屋の空気のように、1億年経っても変わらないものもあるのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




