第12話「鏡像の深淵と、大志を抱く獣」
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」――フリードリヒ・ニーチェ
ジャングルの密度が増した座敷の隅で、ビリー君は立ち止まっていた。そこには、モンステラの大きな葉に半ば隠された、古い姿見がある。以前、彼が「ライバル」だと勘違いして渾身の頭突きをかまし、赤っ恥をかいた因縁の鏡だ。
だが、今のビリー君は違った。
彼は鏡の前で重心を低くすることもなく、ゆっくりと顔を近づけた。鼻先が冷たいガラスに触れる。――ぺた。一拍遅れて、鏡がふわりと白く曇った。
ビリー君は、その曇りを見つめたまま動かない。黄金色の瞳が、鏡の中の自分を――数千万年の時を超えて、令和の札幌に存在する「ヴェロキラプトル」という種族の孤独を、深く見つめ返しているように見えた。
(自己認識……いや、もっと深い、実存への問いかけか?)
すると、ビリー君はおもむろに右の前肢を上げ、鏡の中の自分に向かって突き出した。三本の指、その鋭い鉤爪を少し広げ、遠くを指差すような絶妙な角度。
……あれは、「クラーク博士」だ。
札幌・羊ヶ丘展望台にある、あの有名な「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ、大志を抱け)」の銅像と完全に一致している。
「……ビリー君、君も『大志』を抱いているのかい?」
私は思わず声をかけたが、ビリー君は指差したポーズで固まったままだ。
この有名な言葉の真意は、「立派な紳士( ジェントルマン)になれ」という祈りだったという説がある。ビリー君もまた、鏡の中の自分に「気高き野生を忘れるな」と問いかけているのだろうか。
背後の葉から、アダンソン先輩が跳ね、ビリー君の頭のてっぺんに着地した。先輩は鏡の中の「開拓者」を見下ろすと、糸を一本垂らした 。眉間のあたりで揺れる小さな黒い点。ビリー君は動かない。揺れる先輩と鏡の中の自分を交互に見つめるその瞳は、何か重大な決断を下そうとしているかのように鋭く細められた。
世界の真理に触れるのか。それとも、先輩との共存について新たな哲学を見出すのか。緊張がピークに達した、その時だった。
「……ふわぁ」
ビリー君は、顎が外れるほどの大あくびをした。掲げていた右手もだらりと下がり、彼は私の足元まで歩いてくると、ドサッと横倒しになった。
私は、鏡に残った鼻先の曇り跡を袖で拭った。深淵を覗いていると思ったら、ただの昼寝前だったらしい。そういう日も、ある。
【ビリー君の脳内翻訳】
「……マジかよ。僕ちゃん、今、猛烈にショックを受けてるんだ。
見てよ、この目の前にある『カガミ』。中に映ってるのは、誰が見ても完璧なハンター、ビリー様さ! でもね、気づいちゃったんだ。右手の、一番自慢の『鉤爪』の先に、ちっちゃな白い線が入ってるのを。
……これ、ヒビじゃない? 嘘だろ!? 僕ちゃんのアイデンティティなのに!
僕ちゃんはカガミの中の爪をじーっと凝視して固まっちゃった。ヒビの深さをミリ単位で確認して、もはや彫像状態だよ。そしたら後ろからアキラの声が聞こえてきた。
『……ビリー君、お前も『大志』を抱いているのか?』
タイシ? クラーク? 誰だよそいつ、新種の美味い肉か?
アキラがなんか勝手に感動してるみたいだけど、僕ちゃんにはさっぱり意味がわかんないよ。それより見てよこのヒビ! カルシウム不足か!?
僕ちゃんは右手を突き出したポーズのまま、最近あった『激しい戦い』のことを思い出してた。きっと、あの『黒い棒』事件のせいだ。
あそこは僕ちゃんの玉座なのに、アダンソン先輩が陣取ってたんだよ。僕ちゃんが『そこどいてよ、レディ』って顎を乗せようとしたら、パッ! って両手を上げて威嚇してくるんだもん。僕ちゃん、あまりの迫力に秒で引いちゃったよ。あんなに小さいのに、全っ然ビビってないんだぜ?
アキラが『負けてるぞ』なんて外野から言うから、僕ちゃんは精一杯唸ってやったんだ。
『Vamoose(そこは僕ちゃんの指定席だぜ、ハニー!)』
でも先輩は動かない。それどころか、僕ちゃんの鼻の上にジャンプしてきたんだ! 顔面近接状態! 寄り目になるし、もうくすぐったくてパニックだよ!
『Vamoose……!(うわぁぁ! 降参! くすぐったいのは反則だってばよぉ!)』
鼻息で先輩を吹き飛ばした時に、勢い余って畳を引っ掻いたのが原因かなぁ……。
あ、頭の上に先輩が乗ってきた。眉間のあたりで糸を垂らして遊んでやがる。揺れる先輩を見てたら、なんかもう……全部どうでもよくなってきた。
『……ふわぁぁぁ。Vamoose(あー、飽きた。飯食って寝る!)』
あ、アキラが鏡を拭いてる。……なんだ、ただの汚れだったのか?
まあいいや。とりあえず一眠りして、起きたら美味いもんでも要求するとしようぜ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて、第1章「山悟荘の系譜 ― 永劫回帰する茶の間」は完結となります。
50代のおっさんと、白亜紀のラプトル、そして小さな先輩たちが織りなす冬の物語にお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。
まだまだ北海道の冬は続きます。
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第2章でも、また皆様とお会いできるのを楽しみにしております。




