↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第1章:山悟荘の不条理 ―― シシュフォスの幸福と茶の間
PR
12/120

第12話「鏡像の深淵と、大志を抱く獣」

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」――フリードリヒ・ニーチェ


ジャングルの密度が増した座敷の隅で、ビリー君は立ち止まっていた。そこには、モンステラの大きな葉に半ば隠された古い姿見がある。以前、彼が「ライバル」だと勘違いして渾身の頭突きをかまし、赤っ恥をかいた因縁の鏡だ。


だが、今のビリー君は違った。


彼は鏡の前で重心を低くすることもなく、ゆっくりと顔を近づけた。鼻先が冷たいガラスに触れる。――ぺた。一拍遅れて、鏡がふわりと白く曇った。


ビリー君は、その曇りを見つめたまま動かない。黄金色の瞳が鏡の中の自分を、数千万年の時を超えて令和の札幌に存在する「ヴェロキラプトル」という種族の孤独を、深く見つめ返しているように見えた。


(自己認識……いや、もっと深い、実存への問いかけか?)


すると、ビリー君はおもむろに右の前肢を上げ、鏡の中の自分に向かって突き出した。三本の指、その鋭い鉤爪を少し広げ、遠くを指差すような絶妙な角度。


……あれは、「クラーク博士」だ。


札幌・羊ヶ丘展望台にある、あの有名な「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ、大志を抱け)」の銅像と完全に一致している。


「……ビリー君、君も『大志』を抱いているのかい?」


私が思わず声をかけたが、ビリー君は指差したポーズのまま固まった。


この有名な言葉の真意は、「立派な紳士(ジェントルマン)になれ」という祈りだったという説がある。ビリー君もまた、鏡の中の自分に「気高き野生を忘れるな」と問いかけているのだろうか。


背後の葉からアダンソン先輩が跳ね、ビリー君の頭のてっぺんに着地した。先輩は鏡の中の「開拓者」を見下ろすと、糸を一本垂らした。


眉間のあたりで揺れる小さな黒い点。ビリー君は動かない。揺れる先輩と鏡の中の自分を交互に見つめるその瞳は、何か重大な決断を下そうとしているかのように鋭く細められた。


世界の真理に触れるのか。それとも、先輩との共存について新たな哲学を見出すのか。


緊張がピークに達した、その時だった。


「……ふわぁ」


ビリー君は、顎が外れるほどの大あくびをした。掲げていた右手もだらりと下がり、私の足元まで歩いてくると、ドサッと横倒しになった。


私は、鏡に残った鼻先の曇り跡を袖で拭った。白く残っていた筋も一緒に消える。


深淵を覗いていると思ったら、ただの昼寝前だったらしい。


そういう日も、ある。


【ビリー君の本心:僕ちゃん脳内翻訳】


「……マジかよ。僕ちゃん、今、猛烈にショックを受けてるんだ。


見てよ、この目の前にある『カガミ』。中に映ってるのは、誰が見ても完璧なハンター、ビリー様さ! でもね、気づいちゃったんだ。


右手の、一番自慢の『鉤爪』の先に、ちっちゃな白い線が入ってるのを。


……これ、ヒビじゃない? 嘘だろ!? 僕ちゃんのアイデンティティなのに!


僕ちゃんはカガミの中の爪をじーっと凝視して固まっちゃった。ヒビの深さをミリ単位で確認して、もはや彫像状態だよ。そしたら後ろからアキラの声が聞こえてきた。


『……ビリー君、お前も『大志』を抱いているのか?』


タイシ? クラーク? 誰だよそいつ、新種の美味い肉か?


アキラがなんか勝手に感動してるみたいだけど、僕ちゃんにはさっぱり意味がわかんないよ。それより見てよこのヒビ! カルシウム不足か!?


僕ちゃんは右手を突き出したポーズのまま、最近あった『激しい戦い』のことを思い出してた。きっと、あの『黒い棒(リモコン)』事件のせいだ。


あそこは僕ちゃんの玉座なのに、アダンソン先輩が陣取ってたんだよ。僕ちゃんが『そこどいてよ、レディ』って顎を乗せようとしたら、パッ! って両手を上げて威嚇してくるんだもん。僕ちゃん、あまりの迫力に秒で引いちゃったよ。あんなに小さいのに、全っ然ビビってないんだぜ?


アキラが『負けてるぞ』なんて外野から言うから、僕ちゃんは精一杯唸ってやったんだ。


『Vamoose(ヴァムース)(そこは僕ちゃんの指定席だぜ、ハニー!)』


でも先輩は動かない。それどころか、僕ちゃんの鼻の上にジャンプしてきたんだ!


顔面近接(フェイスハガー)状態! 寄り目になるし、もうくすぐったくてパニックだよ!


『Vamoose(ヴァムース)……!(うわぁぁ! 降参! くすぐったいのは反則だってばよぉ!)』


鼻息で先輩を吹き飛ばした時に、勢い余って畳を引っ掻いたのが原因かなぁ……。


あ、頭の上に先輩が乗ってきた。眉間のあたりで糸を垂らして遊んでやがる。揺れる先輩を見てたら、なんかもう……全部どうでもよくなってきた。


『……ふわぁぁぁ。Vamoose(ヴァムース)(あー、飽きた。飯食って寝る!)』


あ、アキラが鏡を拭いてる。……なんだ、ただの汚れだったのか?


まあいいや。とりあえず一眠りして、起きたら美味いもんでも要求するとしようぜ


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。