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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第10章 銀世界の灯火
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112/120

第112話「甘露の裏切りとバイオの脅威」

 ビリー君専用の居住区画、『白亜紀ジオ・フロント』が騒がしい。


 オリビンサンドやブラックシリカ、ゼオライトなどの鉱物を床に敷き詰めた「白亜紀ブレンド」のおかげで、いつもなら清浄な空気が保たれているはずのその部屋で、ビリー君が悲痛な声を上げていた。


Namoose(ナムース)……( くぅ〜……裏切り者め…… )」


 彼が大切に育てている「ザクロの木」――隣人の佐藤さんに実をプレゼントするために育てている希望の木――の幹に、黒い行列ができていた。


 クロオオアリたちだ。

 普段は地下の『清掃部隊』として働き、ご褒美の栄養ドリンクで共存関係にある彼らが、今日は目の色を変えてザクロの枝に殺到している。

 それを阻止しようと、アダンソン先輩の子孫である『101匹部隊』のハエトリグモたちが必死に防衛線を張っているが、多勢に無勢だ。


 原因はすぐに分かった。

 枝にびっしりと張り付いた白い小さなドーム状の虫――カイガラムシだ。

 こいつらが排泄する甘いおしっこ、「甘露(かんろ)」に、アリたちが完全に依存してしまっているのだ。


 ビリー君が「Vamoose(ヴァムース)!( そこをどけってんだ! )」と威嚇しても、アリたちは甘露に夢中で、主の言葉すら届かない「カンロ中毒」に陥っている。


「ビリー君、下がっていてくれるかい? ……これより『手術』を始めます」


 私は道具箱から、1本の小瓶と、仕事道具である極細の面相筆を取り出した。

 小瓶の中身は「ニームオイル」。独特の香気を持つ天然の虫除けだ。


 筆にオイルを含ませ、ザクロの前に立つ。

 深呼吸を1つ。



 スゥッ……と息を吸い込み、止める。



 その瞬間、世界が変わった。

 私の脳内でスイッチが切り替わる。ゾーンに入った私の、精密画家としての「目」が発動したのだ。


 肉眼では芥子粒(けしつぶ)ほどにしか見えないカイガラムシの姿が、今の私には、岩肌にへばりつく巨大な白いトーチカのように見えている。0.1mmの隙間が、1cmの穴に見えるほどの解像度だ。


 鷹が獲物を狙う時と同じ、絶対的な集中領域。そこに言葉はいらない。


 スッ……スッ……


 私の手は、傍目には残像が見えるほどの速度で動いているはずだが、筆先はミクロの狂いもなく標的を捉えていく。

 カイガラムシの気門を、オイルの膜で正確に塞いでいく。余計な液垂れは1滴もない。


 1匹、また1匹。

 ザクロの枝を埋め尽くす数百の敵を、私は無言のまま、ただ機械的に、しかし慈悲深く葬り去っていった。


「……ふぅー」


 全ての処理を終え、私は大きく息を吐いて筆を置いた。

 極限の集中状態、いわゆるゾーンが解け、世界が等倍速に戻る。

 窒息したカイガラムシたちが、ポロポロと枝から落ちていく。完璧だ。


 だが、その直後だった。

 遮断していた嗅覚が、暴力的に復活したのは。


「……うっぷ! くっっさ!!」


 私はたまらず鼻をつまんだ。

 そこはもう、白亜紀ジオ・フロントではなかった。腐った玉ねぎと硫黄を煮詰めて、さらにニンニクを焦がしたような、ニームオイル特有の悪臭が充満する地獄の窯だった。


Namoose(ナムース)……!!( 目が、目がぁ……!! )」


 ビリー君が、偏光ゴーグルをかけているにも関わらず涙目でのたうち回っている。

 甘露中毒だったアリたちも、あまりの臭気に正気に戻ったのか、右往左往してパニックに陥っていた。


「おやまあ、派手にやりましたねぇ」


 そんな地獄絵図の中に、優しい笑顔の大家さんが現れた。

 手には、飾り気のない無骨な業務用のスプレーボトルが握られている。


「あぁ、大家さん……換気ファン全開でも、匂いが全然抜けなくて……」

「でしょうね。ニームの成分はしつこいですから。……そこで、これの出番です」


 大家さんは、愛しげにボトルを撫でた。


「正式名称『バクテリア・バスター・ゼロ』。……ですが、ホームセンター向けに予定している販売名は『パクパクバイオくん』です」

「パクパク……バイオくん……?」


 私が間の抜けた名前を復唱すると、大家さんは穏やかな口調で言った。


「ええ。中身は以前、あの『悪魔のラッパ花』を処理したコンポストの菌……あれをさらに品種改良したものです」


 その言葉を聞いた瞬間、ビリー君の動きが凍りついた。

 彼の脳裏に、かつての恐怖映像がフラッシュバックする。


 ――『ヒグマを丸ごと入れたとしても、24時間後には骨も残さず土になる』

 ――『君の手も、一瞬でバクテリアのご飯になっちゃうからね?』


「あ、あの時の……まさか、それを空中に?」


 私が引きつった顔で聞くと、大家さんは楽しそうに頷いた。


「心配ありませんよ、改良型ですからね。有機物の分解速度が桁違いなんです。悪臭の元となる粒子を、空中で『パクパク』と捕食して、瞬時に分解した後はただの水になります」


 大家さんが、シュッと試し吹きをする動作を見せた。

 ビリー君の顔から、サーッと血の気が引いていく。


 彼にとってそれは「消臭剤」ではない。「見えない肉食獣の群れ」を空中に解き放つ兵器に見えているのだ。


「それでは、行きますよ。パクパクバイオくん、ランチタイムだ」


 大家さんがトリガーを引いた。



 プシュッ、プシュッ……



 微細なミストが、部屋に舞う。

 その効果は、魔法どころの騒ぎではなかった。

 鼻が曲がりそうだったニームの激臭が、ミストに触れた端から「無」になっていく。匂いが薄まるのではない。匂いの存在そのものが、空間から食い尽くされて消滅していくのだ。


「……(絶句)」


 私が感嘆のあまり言葉を失っていると、背後で「ドサッ」と音がした。

 振り返ると、ビリー君が床に仰向けになり、四肢をだらりと投げ出していた。

 お腹を完全に上に見せ、首を横に向ける完全服従のポーズ。


Namoose(ナムース)……( 降参だ……僕ちゃんは美味しくないぜ…… )」


 ビリー君は、空中に漂う(と彼が思っている)バクテリアたちに対し、全力で「僕ちゃんは美味しくないですアピール」をしていた。

 その横では、現場監督の巨大アリ「ビッグ・ジョー(仮)」率いる清掃部隊も、整列して「気をつけ」の姿勢で固まっている。どうやら昆虫の本能レベルで「ヤバい」と察知したらしい。


「ふふ、これで空気も綺麗になりましたね」


 大家さんは満足げにボトルをポンと叩くと、「五勝手屋(ごかってや)羊羹、1本いただきますね」と言い残して去っていった。


 完全な無臭となった部屋で、私と101匹部隊だけが、呆気にとられて立ち尽くしていた。

 今年1年、山悟荘(さんごそう)とこの地下帝国の平和は(恐怖と科学によって)守られたのであった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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