第112話「甘露の裏切りとバイオの脅威」
ビリー君専用の居住区画、『白亜紀ジオ・フロント』が騒がしい。
オリビンサンドやブラックシリカ、ゼオライトなどの鉱物を床に敷き詰めた「白亜紀ブレンド」のおかげで、いつもなら清浄な空気が保たれているはずのその部屋で、ビリー君が悲痛な声を上げていた。
「Namoose……( くぅ〜……裏切り者め…… )」
彼が大切に育てている「ザクロの木」――隣人の佐藤さんに実をプレゼントするために育てている希望の木――の幹に、黒い行列ができていた。
クロオオアリたちだ。
普段は地下の『清掃部隊』として働き、ご褒美の栄養ドリンクで共存関係にある彼らが、今日は目の色を変えてザクロの枝に殺到している。
それを阻止しようと、アダンソン先輩の子孫である『101匹部隊』のハエトリグモたちが必死に防衛線を張っているが、多勢に無勢だ。
原因はすぐに分かった。
枝にびっしりと張り付いた白い小さなドーム状の虫――カイガラムシだ。
こいつらが排泄する甘いおしっこ、「甘露」に、アリたちが完全に依存してしまっているのだ。
ビリー君が「Vamoose!( そこをどけってんだ! )」と威嚇しても、アリたちは甘露に夢中で、主の言葉すら届かない「カンロ中毒」に陥っている。
「ビリー君、下がっていてくれるかい? ……これより『手術』を始めます」
私は道具箱から、1本の小瓶と、仕事道具である極細の面相筆を取り出した。
小瓶の中身は「ニームオイル」。独特の香気を持つ天然の虫除けだ。
筆にオイルを含ませ、ザクロの前に立つ。
深呼吸を1つ。
スゥッ……と息を吸い込み、止める。
その瞬間、世界が変わった。
私の脳内でスイッチが切り替わる。ゾーンに入った私の、精密画家としての「目」が発動したのだ。
肉眼では芥子粒ほどにしか見えないカイガラムシの姿が、今の私には、岩肌にへばりつく巨大な白いトーチカのように見えている。0.1mmの隙間が、1cmの穴に見えるほどの解像度だ。
鷹が獲物を狙う時と同じ、絶対的な集中領域。そこに言葉はいらない。
スッ……スッ……
私の手は、傍目には残像が見えるほどの速度で動いているはずだが、筆先はミクロの狂いもなく標的を捉えていく。
カイガラムシの気門を、オイルの膜で正確に塞いでいく。余計な液垂れは1滴もない。
1匹、また1匹。
ザクロの枝を埋め尽くす数百の敵を、私は無言のまま、ただ機械的に、しかし慈悲深く葬り去っていった。
「……ふぅー」
全ての処理を終え、私は大きく息を吐いて筆を置いた。
極限の集中状態、いわゆるゾーンが解け、世界が等倍速に戻る。
窒息したカイガラムシたちが、ポロポロと枝から落ちていく。完璧だ。
だが、その直後だった。
遮断していた嗅覚が、暴力的に復活したのは。
「……うっぷ! くっっさ!!」
私はたまらず鼻をつまんだ。
そこはもう、白亜紀ジオ・フロントではなかった。腐った玉ねぎと硫黄を煮詰めて、さらにニンニクを焦がしたような、ニームオイル特有の悪臭が充満する地獄の窯だった。
「Namoose……!!( 目が、目がぁ……!! )」
ビリー君が、偏光ゴーグルをかけているにも関わらず涙目でのたうち回っている。
甘露中毒だったアリたちも、あまりの臭気に正気に戻ったのか、右往左往してパニックに陥っていた。
「おやまあ、派手にやりましたねぇ」
そんな地獄絵図の中に、優しい笑顔の大家さんが現れた。
手には、飾り気のない無骨な業務用のスプレーボトルが握られている。
「あぁ、大家さん……換気ファン全開でも、匂いが全然抜けなくて……」
「でしょうね。ニームの成分はしつこいですから。……そこで、これの出番です」
大家さんは、愛しげにボトルを撫でた。
「正式名称『バクテリア・バスター・ゼロ』。……ですが、ホームセンター向けに予定している販売名は『パクパクバイオくん』です」
「パクパク……バイオくん……?」
私が間の抜けた名前を復唱すると、大家さんは穏やかな口調で言った。
「ええ。中身は以前、あの『悪魔のラッパ花』を処理したコンポストの菌……あれをさらに品種改良したものです」
その言葉を聞いた瞬間、ビリー君の動きが凍りついた。
彼の脳裏に、かつての恐怖映像がフラッシュバックする。
――『ヒグマを丸ごと入れたとしても、24時間後には骨も残さず土になる』
――『君の手も、一瞬でバクテリアのご飯になっちゃうからね?』
「あ、あの時の……まさか、それを空中に?」
私が引きつった顔で聞くと、大家さんは楽しそうに頷いた。
「心配ありませんよ、改良型ですからね。有機物の分解速度が桁違いなんです。悪臭の元となる粒子を、空中で『パクパク』と捕食して、瞬時に分解した後はただの水になります」
大家さんが、シュッと試し吹きをする動作を見せた。
ビリー君の顔から、サーッと血の気が引いていく。
彼にとってそれは「消臭剤」ではない。「見えない肉食獣の群れ」を空中に解き放つ兵器に見えているのだ。
「それでは、行きますよ。パクパクバイオくん、ランチタイムだ」
大家さんがトリガーを引いた。
プシュッ、プシュッ……
微細なミストが、部屋に舞う。
その効果は、魔法どころの騒ぎではなかった。
鼻が曲がりそうだったニームの激臭が、ミストに触れた端から「無」になっていく。匂いが薄まるのではない。匂いの存在そのものが、空間から食い尽くされて消滅していくのだ。
「……(絶句)」
私が感嘆のあまり言葉を失っていると、背後で「ドサッ」と音がした。
振り返ると、ビリー君が床に仰向けになり、四肢をだらりと投げ出していた。
お腹を完全に上に見せ、首を横に向ける完全服従のポーズ。
「Namoose……( 降参だ……僕ちゃんは美味しくないぜ…… )」
ビリー君は、空中に漂う(と彼が思っている)バクテリアたちに対し、全力で「僕ちゃんは美味しくないですアピール」をしていた。
その横では、現場監督の巨大アリ「ビッグ・ジョー(仮)」率いる清掃部隊も、整列して「気をつけ」の姿勢で固まっている。どうやら昆虫の本能レベルで「ヤバい」と察知したらしい。
「ふふ、これで空気も綺麗になりましたね」
大家さんは満足げにボトルをポンと叩くと、「五勝手屋羊羹、1本いただきますね」と言い残して去っていった。
完全な無臭となった部屋で、私と101匹部隊だけが、呆気にとられて立ち尽くしていた。
今年1年、山悟荘とこの地下帝国の平和は(恐怖と科学によって)守られたのであった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話も、山悟荘でお待ちしております。




