第104話「しょっぱい海と、北欧の風」
秋分の日が過ぎて、秋の気配にちらほら気づき始める今日この頃。
私たちは札幌を抜け、日本海沿いを北上するルート、通称「オロロンライン」をドライブしていた。
目指すは石狩市の最北端、浜益地区だ。平成の大合併で石狩市に編入されたが、我々50代以上の道民にとっては、今でも「浜益村」と呼んだ方がしっくりくる、海と山に挟まれた自然豊かな漁師町である。
今日はここで開催される『浜益ふるさと祭り』で秋の味覚(主に鮭)を堪能し、温泉に浸かって帰るという、完璧な休日のスケジュールだ。
だがその前に、私たちは少し寄り道をして『北欧の風 道の駅 とうべつ』に立ち寄った。
スウェーデンのダーラナ州と姉妹都市である当別町の、その名の通り北欧の空気が漂うお洒落な道の駅だ。館内には美しい北欧雑貨や木工品がズラリと並んでいる。
私はそこで、スウェーデンの伝統的な木彫りの馬『ダーラヘスト(ダーラナホース)』にすっかり心を奪われてしまった。木の手触りと、シンプルながらも力強い造形。私の50代の木工魂が激しく揺さぶられるのを感じながら、後ろ髪を引かれる思いで再び車を走らせた( スキンヘッドだけど )。
祭りの会場へ向かう前、私たちは綺麗に整備されたピリカビーチの手前にある、昔ながらの自然な浜辺に車を停めた。
潮の香りが鼻をくすぐる。背後には険しい山々がそびえている。若い頃、あの山道をマウンテンバイクで息を切らしながら登った記憶がふふと蘇り、私は五十肩を無意識にさすった。あの頃の体力はもうないが、代わりに今の私には、とんでもない相棒がいる。
「Vamoose!!( なんだこの巨大な水たまりは!! )」
後部座席から飛び出したビリー君が、果てしなく広がる海を見て大興奮している。海は初めてではないだろうに。
彼は白亜紀のハンターのステップで砂浜を駆け抜け、そのままの勢いでザバーッ! と波打ち際に飛び込んだ。
「あっ、こらビリー君! お盆を過ぎた海はクラゲが出るから泳ぐなって……!」
私の制止など聞こえない。ビリー君は波と戯れ、テンションの赴くままに海水をガブ飲みした。
ピタッ。
ビリー君の動きがフリーズした。
「……Namoose!?( しょっぺえ!? )」
彼は顔をしかめ、ブルブルブルッ! と全身の羽毛を激しく震わせた。恐竜の味覚に、塩分濃度3%の海水はあまりにも刺激的すぎたらしい。
口の中の強烈なしょっぱさをどうにかしようと、ビリー君は慌てて「口を洗うための水」を探し――あろうことか、目の前にある海水を再びすくい上げて飲んだ。
「……Namooseェェェ!?( もっとしょっぺえ!? )」
ブルブルブルブルッ!!
しょっぱい! → 洗わなきゃ! → 海水を飲む → もっとしょっぱい!
見事な無限ループである。私は腹を抱えて笑いながら、車からミネラルウォーター(い・ろ・は・す)のペットボトルを持って彼を救出しに向かった。
口直しも兼ねて向かった『浜益ふるさと祭り』の会場は、大勢の人で賑わっていた。
目玉はなんといっても、巨大な鍋で作られる鮭の「千人鍋」だ。ホカホカの鮭と野菜の旨味が溶け出した極上の汁をすすり、ビリー君もご機嫌を取り戻した。羽毛についた海水も、秋の海風と太陽であっという間に乾いていく。
腹を満たした後は、少し内陸へ入ったところにある『浜益温泉』へ。
ここの醍醐味は、なんといっても開放的な露天風呂だ。しかも、外にも洗い場がある。
大自然の真っ只中、外で真っ裸になって体を洗うというのは、最初は少しこっ恥ずかしい気もするが、慣れるとこの上なく気分がいい。圧倒的な開放感だ。
「極楽、極楽……」
私が50代の疲れた体を伸ばしている横で、ビリー君も「Vamoose……( 極楽だぜ…… )」と目を細めてお湯を堪能している。
だが、大自然の恩恵には代償が伴う。
プ〜ン……。
秋口とはいえ、山の温泉には凶悪なヤブ蚊が潜んでいるのだ。私は背中を2箇所、ビリー君も鼻先を刺され、風呂上がりにお互いムヒを塗り合う羽目になった。
帰り道は、海沿いではなく内陸の山間部を抜ける「道民の森」ルート(国道451号線)を選択した。
うねるようなカーブが続く山道。すっかり日も傾きかけた頃、車の前に思わぬ「通行止め」が現れた。
立派な角を持ったオスの1頭の『エゾシカ』だ。
道路のど真ん中に陣取り、こちらのヘッドライトを睨みつけて1歩も動こうとしない。
「Vamoose!!( やい!どけないと僕ちゃんが食っちまうぞ!! )」
助手席でビリー君が窓を開け、白亜紀の頂点捕食者としての威嚇の唸り声を上げようとした、その時だ。
シカの頭上、山間の空を埋め尽くすような無数の「赤い影」が舞った。
秋茜(赤とんぼ)の大群だ。
夕日に照らされて黄金色に輝く無数のトンボたちが、シカと私たちの車を包み込むように飛んでいく。温泉で我々を苦しめたヤブ蚊などの小さな虫を捕食しながら、冬に向けて山を下りていくのだ。
「……すごいな」
ビリー君も威嚇を忘れ、ポカンと口を開けてその幻想的な光景を見上げていた。
エゾシカも、トンボの群れが通り過ぎるのを見届けると、ふいっと向きを変えて静かに森の奥へと消えていった。
しょっぱい海、ヤブ蚊のいる温泉、そして道を塞ぐシカと赤とんぼの群れ。洗練された未来の「時空ニレ」も悪くないが、むせ返るような命の気配に満ちたこの北海道の泥臭い大自然も、やっぱり最高だ。
その夜。
山悟荘に帰宅した私は、さっそく茶の間に新聞紙を広げ、愛用の小刀と木材の切れ端を握りしめていた。
道の駅ですっかり北欧の風にあてられた私は、見よう見まねで自作の『ダーラヘスト』を彫り始めていたのだ。
シュッ……シュッ……。
温泉で刺されたヤブ蚊の痒みと格闘しながらも、刃先が木を削る小気味よい音が、秋の夜長に静かに響く。ビリー君が不思議そうに「Namoose?( なんだそれ? 食えるのか? )」と覗き込んでくるが、この木工への没入感だけは誰にも邪魔させない。
いつの間にか、私の隣ではビリー君が自慢のハンド・クローで木彫りを堪能している。こころなしか、日高で出会ったサラブレッドのワイルド・アバランチに似ているような気がしないでもない。わざわざ首を傾げて歯をむき出した馬を彫らなくてもいいんだよ、ビリー君。
昭和の風情漂う山悟荘の茶の間に、スウェーデンの風が吹く。
不格好ながらも少しずつ馬の形に近づいていく私のダーラヘストと、隣のワイルドすぎる木彫りを交互に眺めながら、私は秋の夜の静寂を心ゆくまで堪能していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話も、山悟荘でお待ちしております。




