四、 残酷なカウントダウン
別れは、ある日突然、無機質な紙切れ一枚で告げられた。
いつものように深夜、店に向かった私は、自動ドアのガラスに貼られた一枚の白い紙を見て、足がすくんだ。
『閉店のお知らせ――ビルの取り壊しに伴い、今月末をもちまして当店舗は営業を終了いたします』
頭をガツンと殴られたような衝撃だった。
閉店。それは、この場所がなくなるということであり、お互いの連絡先も知らない二人の関係が、強制的に、そして永遠に終わることを意味していた。
「……見ちゃいましたか」
後ろから声がして振り返ると、お兄さんが立っていた。彼はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていたけれど、その瞳の奥には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
「なくなるんですね、ここ」
「みたいだね。……寂しくなるな」
二人はそれ以上、閉店の話題には触れなかった。
言葉にしてしまえば、残された数日間が、砂時計の砂のようにサラサラと崩れ落ちてしまいそうだったから。
そして、ついにその夜がやってきた。コインランドリーの、最後の営業日。
外は、冷たい雨が降っていた。
店内には、私とお兄さんの二人しかいない。
私は最後の洗濯物を乾燥機に入れ、百円玉を投入した。
ガコン。
デジタル表示が「30:00」を刻み、ゆっくりと、最後のカウントダウンを始める。
二人は並んでベンチに座った。お兄さんはいつも通り、あの文庫本を開いている。
けれど、今日だけは缶コーヒーの自販機の音も、洗濯機が回る音も、すべてが「さようなら」と言っているように聞こえて、私は胸が締め付けられるように苦しかった。
「お姉さん」
お兄さんが、静かに本を閉じた。まだ、時間は十分以上残っているのに。
「……はい」
「僕が、毎晩ここにいた理由、本当は気づいてたでしょう」
心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
お兄さんはベンチの上に本を置くと、その表紙を悲しげに見つめた。
「この小説の結末、元恋人が大好きだったんだ。『私たちも、この主人公たちみたいに、綺麗に別れましょう』って、そのピンクの栞を僕に渡して、このコインランドリーで僕を置いていった」
お兄さんの口から語られる真実に、私の視界が歪みそうになる。やっぱり、そうだったんだ。私の予想は、一番最悪な形で当たっていた。
「僕は、あの日、格好つけて引き止めなかったことをずっと後悔してた。だから、奇跡が起きて、あいつがもう一度ここに来てくれたら、今度こそ引き止めようって……そんな未練がましい気持ちで、毎晩ここにいたんだ」
お兄さんの声が、微かに震えている。
私は、胸が張り裂けそうだった。傷ついた。私はやっぱり、彼女の身代わりだったんだ。彼の孤独を埋めるための、ただの背景だったんだ。
(だったら、もう行かなくちゃ。こんな苦しい場所、今すぐ飛び出せばいい)
頭ではそう分かっているのに、私の体は一歩も動かなかった。
だって、目の前で過去の告白をしているお兄さんの横顔が、あまりにも脆くて、今にも消えてしまいそうに孤独だったから。
(私は、身代わりでもよかった。傷ついても、苦しくても、この三十分間、あなたの寂しさを少しでも減らせたなら、私はあなたの隣にいたかったんだよ……!)
叫び出したい心を必死で抑え、私は温くなりかけた缶コーヒーをぎゅっと抱きしめた。
ピー、ピー、ピー。
無情にも、乾燥機の終了を告げるブザーが響き渡った。
「00:00」。私たちの時間が、終わった。
お兄さんは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、彼は自分の本を開くと、ページの間に挟まれていた、あの古いピンク色の栞を、ゆっくりと引き抜いた。
「お兄さん、……」
呼びかける名前さえ、私にはない。
彼はその栞を、自分のポケットにしまうのではなかった。
二人の間の、冷たいプラスチックのベンチの上に、ぽつんと置き去りにしたのだ。
「……ありがとうございました、お姉さん」
お兄さんは、今までで一番優しい、そしてすべてを吹っ切ったような、綺麗な笑顔で私を見つめた。
「あなたのおかげで、僕の三十分間は、いつも温かかった。あいつの幻じゃなくて、目の前にいるあなたの言葉に、僕は救われていたんだ」
それは、彼の時間がやっと動き出したという、決別の証だった。
彼は過去への執着(栞)をここに捨て、前を向いて歩き出そうとしている。
だけど、彼は私の手を取ることはしなかった。名前も知らない、この場所だけの関係。それをここで綺麗に終わらせることが、彼のなりの、私への誠実さだった。
「お元気で、お姉さん」
「……っ」
声が出なかった。行かないで、と叫びたかった。
だけど、ここで彼を引き止めたら、彼の綺麗な決意を汚してしまうような気がして、私はただ、溢れ出る涙を堪えながら、コクンと首を振ることしかできなかった。
自動ドアが開く。冷たい雨の匂いと共に、お兄さんの背中が、夜の闇へと消えていく。
ガラガラと、閉まるドア。
後に残されたのは、急に静まり返った店内の空気と、ベンチの上に残された、一本のピンク色の栞だけだった。
「う、うあ……っ」
堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
私はベンチに崩れ落ち、その温もりも残っていない栞を、壊れ物を扱うように両手でぎゅっと抱きしめた。
胸が痛くて、苦しくて、息ができないほどの失恋だった。
だけど、涙の向こう側で、私の心には、確かに温かい何かが残っていた。
彼は、過去をここに置いていった。私の存在が、彼の凍りついた時間を溶かしたのだ。
連絡先も知らない。お互いの名前すら知らない。もう二度と会えない。
だけど、人生のほんの一瞬、私たちは確かに、この世界の片隅で救い合っていた。
カチリ、と店内の照明が半分消える。閉店の時間だ。
私は涙を拭い、彼が残した栞をバッグの奥に大切に仕舞い込んだ。
重い洗濯カゴを抱え、自動ドアの向こうへ一歩を踏み込む。
夜空を見上げると、雨はいつの間にか止み、雲の隙間からかすかな光が差し込んでいた。
私の、名前も知らないお兄さんとの、三十分間の永遠が、静かに幕を閉じた。




