三、 三十分のモラトリアム
その夜を境に、二人の三十分間には「言葉」が生まれた。
「こんばんは。今日も遅かったですね」
「ええ、ちょっとトラブルがあって。お姉さんこそ、顔色が悪いですよ」
私たちは、お互いの名前をあえて訊かなかった。会社名も、年齢も、どこに住んでいるかも知らない。だから私は彼のことを心の中で「お兄さん」と呼び、彼は私のことを「お姉さん」と呼んだ。ただ、このコインランドリーのベンチに座っているときだけ、私たちは社会の肩書を脱いだ「素の自分」になれた。その匿名性の距離が、どうしようもなく心地よかった。
会話のほとんどは、あの小説のことだった。
「あのシーン、切ないですよね。ヒロインが、自分の気持ちを隠して笑うところ」
「分かります。相手を困らせたくないから、あえて平気なフリをするんですよね。……お姉さんみたいだ」
「からかわないでください。私はあんなに可愛くないです」
お兄さんと話していると、会社で溜まった心の澱が、サーッと引いていくのが分かった。彼は決して私の心に土足で踏み込まず、ただ、温かい缶コーヒーのようにそこに寄り添ってくれた。
しかし、楽しければ楽しいほど、私の胸の奥には、チクチクとした小さな痛みが生まれ始めていた。
(お兄さんは、どうしてこの本を、毎晩読んでいるんだろう)
お兄さんが持つその文庫本には、ある「仕掛け」があった。
彼が本を開くとき、いつも丁寧につまみ上げる栞。それは、少し色褪せたピンク色のタッセルがついた、明らかに女性ものの栞だった。
彼はその栞を、まるで壊れ物を扱うように、壊れてしまった思い出を慈しむように、優しく指先でなぞるのだ。
(あの栞は、誰のもの?)
聞けるはずがなかった。そんなことを聞けば、この心地いい三十分間の関係が、音を立てて崩れてしまう。
だけど、彼が小説のページをめくる横顔が、時折あまりにも痛々しく、今にも泣き出しそうなほど孤独に見えるとき、私は激しい葛藤に襲われた。
(この人は、私を見ているんじゃない。この場所で、あの小説の主人公たちみたいに、誰かとの思い出に浸っているだけなんだ)
私は、彼の寂しさを紛らわせるための、ただの「退屈しのぎの相手」。
自分の好意が大きくなればなるほど、そのピンク色の栞が、冷たい現実として二人の間に立ちはだかった。
触れ合わない、肩と肩の距離。
手を伸ばせば届くのに、彼の心の奥にある「誰かの影」が怖くて、私はいつも缶コーヒーを強く握りしめることしかできなかった。




