二、 置き去りの言葉
それからというもの、凛々子は毎晩、同じ時間にコインランドリーに通うようになった。
奇妙なことに、彼も毎日、全く同じ時間にそこにいた。
彼はいつも同じ微糖の缶コーヒーを飲み、いつも同じ、少し端の擦り切れた文庫本を開いていた。
二人の間に会話はなかった。ただ、三十分間、同じ空間で洗濯物が乾くのを待つだけの他人。
(今日も、いる)
それだけで、凛々子の胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。
会社でどれだけボボロになっても、「あの場所へ行けば、あの人が同じように本を読んでいる」という事実が、凛々子にとっての目に見えない命綱になっていた。名前も知らない。何をしている人も知らない。けれど、世界で一番、素の自分を見せられる「他人の距離」が心地よかった。
しかし、その静かな均衡は、ある夜、突然に崩れた。
ピー、ピー、ピー。
男の前にある乾燥機が、終了を告げる無機質なブザーを鳴らした。
男はいつものように、ふぅ、と小さく息を吐いて立ち上がり、乾いた洗濯物をカゴにまとめる。凛々子はなんとなく、その無駄のない背中をぼんやりと見送っていた。
「じゃあ、お先に」とでも言うように、男が軽く会釈をして自動ドアの向こうへ去っていく。
その背中が見えなくなったとき、凛々子は、彼が座っていたベンチの上に「それ」があるのを見つけた。
「あ……」
ぽつんと取り残された、茶色い表紙の文庫本。
彼は、いつも読んでいた大切な本を、うっかり置き忘れてしまったのだ。
「すみません……!」
考えるより先に、凛々子は立ち上がっていた。本をひったくるように掴み、自動ドアを飛び出す。
夜の冷たい空気が肌を刺す。街灯の下、数メートル先を歩いていた男の背中に向かって、凛々子は声を張り上げた。
「あの、忘れてます……!」
男が足を止め、怪訝そうに振り返る。凛々子は息を切らせながら駆け寄り、差し出すように本を突き出した。
「これ、ベンチに……」
「あ……ありがとうございます。うっかりしていました。大事な本なのに」
男は心底ほっとしたように眉を下げ、苦笑いした。その温かい声が、すぐ近くで鼓膜を揺らす。
手渡そうとしたその瞬間、凛々子の視線が、文庫本のタイトルに吸い寄せられた。
『君の洗濯物が乾くまで』
心臓が、跳ねた。
それは、実家の本棚にも、今の自分の擦り切れた部屋にも置いてある、凛々子が何度も何度も読み返した、大好きな作家の恋愛小説だった。
「これ……」
言葉が、勝手に口から溢れていた。
「これ、私もすごく好きなんです。何度も、読み返しました」
男が一瞬、驚いたように目を見張った。
それから、今まで凛々子が見たこともないような、少し寂しげで、だけど狂おしいほど優しい笑みを浮かべた。
「……奇遇ですね。僕も、この本が一番好きなんです」
街灯のオレンジ色の光の中で、二人の視線が重なる。
ただの風景だった男が、一瞬にして、自分と同じ感性を持つ「一人の人間」へと変わった瞬間だった。




