表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

二、 置き去りの言葉


それからというもの、凛々子は毎晩、同じ時間にコインランドリーに通うようになった。

奇妙なことに、彼も毎日、全く同じ時間にそこにいた。

彼はいつも同じ微糖の缶コーヒーを飲み、いつも同じ、少し端の擦り切れた文庫本を開いていた。

二人の間に会話はなかった。ただ、三十分間、同じ空間で洗濯物が乾くのを待つだけの他人。

(今日も、いる)

それだけで、凛々子の胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。

会社でどれだけボボロになっても、「あの場所へ行けば、あの人が同じように本を読んでいる」という事実が、凛々子にとっての目に見えない命綱になっていた。名前も知らない。何をしている人も知らない。けれど、世界で一番、素の自分を見せられる「他人の距離」が心地よかった。

しかし、その静かな均衡は、ある夜、突然に崩れた。

ピー、ピー、ピー。

男の前にある乾燥機が、終了を告げる無機質なブザーを鳴らした。

男はいつものように、ふぅ、と小さく息を吐いて立ち上がり、乾いた洗濯物をカゴにまとめる。凛々子はなんとなく、その無駄のない背中をぼんやりと見送っていた。

「じゃあ、お先に」とでも言うように、男が軽く会釈をして自動ドアの向こうへ去っていく。

その背中が見えなくなったとき、凛々子は、彼が座っていたベンチの上に「それ」があるのを見つけた。

「あ……」

ぽつんと取り残された、茶色い表紙の文庫本。

彼は、いつも読んでいた大切な本を、うっかり置き忘れてしまったのだ。

「すみません……!」

考えるより先に、凛々子は立ち上がっていた。本をひったくるように掴み、自動ドアを飛び出す。

夜の冷たい空気が肌を刺す。街灯の下、数メートル先を歩いていた男の背中に向かって、凛々子は声を張り上げた。

「あの、忘れてます……!」

男が足を止め、怪訝そうに振り返る。凛々子は息を切らせながら駆け寄り、差し出すように本を突き出した。

「これ、ベンチに……」

「あ……ありがとうございます。うっかりしていました。大事な本なのに」

男は心底ほっとしたように眉を下げ、苦笑いした。その温かい声が、すぐ近くで鼓膜を揺らす。

手渡そうとしたその瞬間、凛々子の視線が、文庫本のタイトルに吸い寄せられた。

『君の洗濯物が乾くまで』

心臓が、跳ねた。

それは、実家の本棚にも、今の自分の擦り切れた部屋にも置いてある、凛々子が何度も何度も読み返した、大好きな作家の恋愛小説だった。

「これ……」

言葉が、勝手に口から溢れていた。

「これ、私もすごく好きなんです。何度も、読み返しました」

男が一瞬、驚いたように目を見張った。

それから、今まで凛々子が見たこともないような、少し寂しげで、だけど狂おしいほど優しい笑みを浮かべた。

「……奇遇ですね。僕も、この本が一番好きなんです」

街灯のオレンジ色の光の中で、二人の視線が重なる。

ただの風景だった男が、一瞬にして、自分と同じ感性を持つ「一人の人間」へと変わった瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ