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一、夜の避難所


その日も、世界は理不尽に満ちていた。

「凛々子、これ明日の一朝イチまでに修正しといて。頼むよ、しっかり者のお姉さん」

上司から押し付けられた分厚いファイルと、投げつけられた「しっかり者」という都合のいいレッテル。会社という檻の中で、凛々子は今日も笑顔の仮面を貼り付け、頭を下げ続けた。他人のミスを被り、理不尽な叱責を愛おしい愛想笑いで受け流す。そうしてすり減った精神の残りカスが、今の自分だった。

時計の針は深夜の一時を回っている。

ワンルームの冷え切った部屋に帰っても、待っているのは静寂と、洗濯カゴから溢れそうな一週間分の衣類だけ。部屋の洗濯機を回す気力すら湧かず、凛々子は重い足取りで、アパートの近くにある二十四時間営業のコインランドリーへと逃げ込んだ。

自動ドアが開くと、温い洗剤の匂いと、冷たい蛍光灯の光が凛々子を迎えた。

ガタガタ、ゴトゴト、と無機質な音を立てて回る洗濯機たち。そこは、社会から切り離された、まるで夜の底にある避難所のようだった。

「……はぁ」

大きな乾燥機に衣類を放り込み、百円玉を数枚投入する。液晶画面に「30:00」という赤いデジタル数字が浮かび上がり、ゆっくりとカウントダウンを始めた。

三十分。それが、私が私に戻るために許されたモラトリアム。

疲れ果てた体をプラスチックの硬いベンチに預け、泥のように眠ってしまおうとした時だった。

カシャッ。

静かな店内に、微かな、けれど小気味いい音が響いた。

ハッとして視線を巡らせると、数つ隣のベンチに、先客の男が座っていることに気づいた。

男は、ネクタイを緩めただけのスーツ姿だった。髪は少し乱れ、肩の線には凛々子と同じような、あるいはそれ以上の深い疲労が滲んでいる。彼の前にある丸い乾燥機は、小気味いい音を立てて回っていた。

男の手元には、一本の缶コーヒー。微糖の、どこにでもあるやつだ。

そしてもう片方の手には、一冊の文庫本が開かれていた。

(……本、読んでる)

男は凛々子の視線に気づく風でもなく、ただ静かに、淡々と小説のページをめくっている。コインランドリーの薄暗い蛍光灯の下で、彼の横顔だけが、まるで古い映画のワンシーンのように静謐で、綺麗に見えた。

不思議な人だった。スマホの画面を虚ろに見つめる現代人の中で、その男だけは、時が止まったように本の世界に没頭している。

ゴトゴトと回る洗濯機の音と、男がページをめくる、カサリ、という微かな紙の音。

張り詰めていた凛々子の耳の奥に、その二つの音が奇妙に心地よく染み込んでいく。気がつけば、会社での悔しさも、上司の嫌味も、その音の波にかき消されていた。

(ただの、風景の一部)

そう自分に言い聞かせながら、凛々子は自販機で彼と同じ微糖の缶コーヒーを買い、少し離れたベンチで、ゆっくりと口に含んだ。

それが、すべての始まりだった。


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