『半分このレシート』
:『半分このレシート』
自動ドアが開く音。小銭が落ちる金属音。そして、ガコン、と重い音がして、缶コーヒーが開く「カシャッ」という微かな音が静かな店内に響いた。
(――嘘。そんなわけない)
凛々子の心臓が、痛いほど肋骨の裏を叩き始める。
聞き間違えるはずがない。毎晩、私の擦り切れた神経を無条件に宥めてくれた、世界で一番大好きな「彼の音」だ。
でも、期待してはいけないと理性が必死にブレーキをかける。だってあのコインランドリーはもう閉まって、私たちの『30分』は綺麗に終わったはずだから。またあの「誰かの影」に怯える日々に逆戻りするくらいなら、いっそ人違いであってほしい。顔を上げるのが、怖くてたまらなかった。
ベンチが、小さく軋んで沈む。彼の、あの少し煙草の香りが混じった匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「また会えましたね」
鼓膜を震わせたのは、ずっと夢にまで見た、低くて、少し掠れた、優しい声だった。
視界が、一瞬で歪む。涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら顔を上げると、そこにはいつもの穏やかな、けれど、あの頃のような寂しげな陰のまったくない、眩しいほどの笑顔の彼がいた。
(ああ、本当に、彼だ。幻じゃない。また会えた……!)
胸の奥の、固く閉ざしていた感情のバケツがひっくり返ったみたいに、彼への想いが、愛おしさが、輪郭を失って溢れ出してくる。
名前も知らない。どこに住んでいるかも知らない。それでも、毎晩あなたの隣にいる時間だけが、ボロボロにすり減った私をこの世界に繋ぎ止めてくれていた。あなたに会いたくて、会いたくて、本当は死にそうだったんだ。
にこりと笑った彼は、私の目の前に、あの見慣れた微糖の缶コーヒーを差し出す。
「良かったら、お名前教えて頂けますか?」
その言葉が耳から脳に染み渡った瞬間、頭の奥が真っ白になった。
(名前……? 私の、名前を……?)
震える視界の中で、コーヒーを握る彼の綺麗な指先を見る。そこにはもう、あの古いピンク色の栞はなかった。彼は過去をあの場所に置いて、私という人間を、私自身の名前を、今、真っ直ぐに求めてくれている。
もう私は、誰かの身代わりじゃない。ただの都合のいい読書仲間でも、30分だけの迷子でもない。彼は私を『現実』に連れ出しにきてくれたんだ。
喉の奥が熱くて、上手く声が出ない。
込み上げる涙を手の甲で何度も拭いながら、私は世界で一番大切な宝物を差し出すように、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「――凛々子、です。私の名前は、凛々子っていいます」
差し出された缶コーヒーは、二人の手の熱で、じんわりと温かくなっていく。
静かに回る洗濯機の音。
私たちの、新しい1分目が、今ここから動き出した。
「……凛々子さん、ね。うん、いい名前だ」
彼はそう言って、自分の分の缶コーヒーを小さく掲げた。
「僕は、志賀っていいます。よろしく、凛々子さん」
「志賀、さん……」
初めて口にする彼の名前に、舌の先が少し痺れるような、不思議な気恥ずかしさがあった。
お互いに名前を知った。それはとても特別なことのはずなのに、いざその一線を越えてみると、私たちはどうしていいか分からず、しばらく無言で缶コーヒーをすするしかなかった。
「……あの、志賀さん」
「ん?」
「なんで、ここにいるって分かったんですか?」
凛々子が訊ねると、志賀さんは自販機の横に貼られた『新店オープン』のチラシを指差した。
「あの店が閉まった後、近くで深夜までやってるコインランドリーっていったら、ここくらいだからね。もしかしたら、って思って、毎晩ちょっと覗いてたんだ」
「毎晩……」
その言葉が、凛々子の胸を優しく焦がす。彼もまた、私を探してくれていたのだ。
「でも、驚いたな。凛々子さん、会社じゃあそんなにしっかりした顔してるんだ」
志賀さんの視線が、凛々子の着ているオフィスカジュアルのジャケットに注がれる。これまでは夜、部屋着同然の格好でしか会っていなかったから、こうして『昼の顔』の断片を見せ合うのは、どこか裸を見られているようで耳の裏が熱くなる。
「……これ、戦闘服みたいなものです。会社じゃ、こうしてないと舐められるから。志賀さんこそ、そのネクタイ、すごく似合ってます」
「これ? 普段はもっとラフなんだけど、今日はクライアントに詰められる日だったからさ。おかげで頭がパサパサだよ」
そう言って笑う志賀さんの横顔には、かつて元恋人の影を追っていた時の、あの消え入りそうな脆さは微塵もなかった。
志賀さんは、膝の上に置いていた、あのボロボロの文庫本をそっと開く。
その瞬間、凛々子は彼の指先を凝視して、小さく息を呑んだ。
本の端から覗いていたのは、あの日コインランドリーに置いていかれた、あのおしゃれなピンク色のタッセルの栞ではなかった。
白くて、薄くて、少しクシャッとなった――あきらかに、どこにでもあるお店のレシートだった。
「え……? 嘘、それって……」
「あ、見つかっちゃった?」
志賀さんはバツが悪そうに、でもどこか嬉しそうに頭を掻いた。
凛々子が目を凝らすと、そこには見覚えのあるコンビニのロゴと、『フォンダンショコラ 1点』の文字。それは数日前、あのベンチで「半分こ」して食べた、あの甘くて温かいスイーツのレシートだった。
「なんで、そんなもの挟んでるの……?」
驚きと、込み上げる熱い感情で声を震わせる凛々子に、志賀さんはレシートの端を愛おしそうに指先でなぞりながら、真っ直ぐな目を向けた。
「これね。これからはこの本を開くたびに、あなたと半分こしたあの時間のことを、思い出すために挟んでいるんだ」
綺麗な栞なんかじゃない。財布の底に溜まるような、放っておけば消えてしまうただの感熱紙。でも、彼にとってはそれが、元恋人のどんな高級な栞よりも、世界で一番大切で、残しておきたい『凛々子との宝物』だったのだ。
――もう、彼の心にあの幽霊はいない。
凛々子の胸の奥に燻っていた最後の不安が、その安っぽい、だけど誰よりも重いレシートのおかげで、跡形もなく完全に溶けていく。
「……信じられない。ただのゴミじゃん、それ」
「ゴミって言うなよ。僕たちの、大事な記念碑なんだから」
照れ隠しで笑う凛々子の隣で、志賀さんがふっと真面目な顔になった。
彼はレシートの挟まれた本をベンチに置くと、少し躊躇ってから、でも今度は真っ直ぐに、凛々子の少し冷えた手をそっと包み込んだ。
「もう、30分じゃ足りないんだけど……凛々子さんは、どう?」
乾燥機の回るゴトゴトという音が、今度は二人を祝福するリズムのように響く。
凛々子は、握られた彼の手の熱さを噛み締めながら、今度は逃げずに、その手を強く握り返した。
「……私も、足りないです」
(第1幕・完/第2幕へ続く)




