第9話 王女の微笑みは崩れない
社交界とは、微笑みの裏で互いの腹を探り合う戦場である。
誰もが礼儀を重んじ、相手を称賛し、友好を口にする。
けれど、その言葉のすべてが真実であると信じる者は、社交界では長く生き残れない。
美しい言葉には思惑が潜み、差し出された手には計算が宿る。
そして、優雅な微笑みの裏には、ときとして抜き身の刃よりも危険な悪意が隠されている。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。ニグルム侯爵閣下」
ヴェルシェリア・ポインセットは、完璧な淑女の礼を取った。
黒髪が肩を滑り、紅玉のような瞳が柔らかく細められる。
身に纏うのは、深い黒を基調とした夜会服。胸元には、薔薇の繊細な刺繍が施されていた。
その隣には、婚約者であるアシュレイン・ボルシギアナが立っている。
銀髪に、鮮やかな翠玉の瞳。
穏やかに微笑む王太子の姿は、まさしく王国の未来を体現するにふさわしいものだった。
「これはこれは、アシュレイン王太子殿下。そして、ポインセット公爵令嬢。遠路お越しいただき、恐悦至極に存じます」
ニグルム侯爵は、恭しく頭を下げた。
その物腰に不自然なところはない。
声の調子も、表情も、王家への敬意を示す仕草も、すべてが申し分なかった。
だからこそ、ヴェルシェリアは微笑みを深めた。
この男は、何かを隠している。
それだけは、疑いようがなかった。
軍用物資の横流し。
教会への寄付金を利用した資金移動。
そして、軍務局の管理番号と一致する輸送記録。
黒百合が集めた証拠は、すでに侯爵の足元を崩し始めている。
にもかかわらず、彼は王家と公爵家を招き、盛大な晩餐会を催した。
罪を知られたことに気づいていないのか。
あるいは、気づいたうえで、なお余裕を装っているのか。
ヴェルシェリアは、目の前の男を静かに観察した。
「侯爵閣下。和平を祝う席に、わたくしたちをお招きくださったこと、心より嬉しく思いますわ」
「ポインセット公爵令嬢にそのようなお言葉をいただけるとは。北方を治める者として、これ以上の喜びはございません」
「まあ。では、北方の民もさぞかし豊かに暮らしているのでしょうね」
侯爵の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬、普通の人間ならば、見逃してしまうほどのわずかな間だった。
けれど、ヴェルシェリアは見逃さなかった。
「……と、おっしゃいますと?」
「先日、王妃教育での書類仕事をしている時に、北方から届いた報告書を拝見しましたの。冬を前にして、穀物の備蓄が不足している地域があるとか。領民の方々が不安を抱えていると聞き、心を痛めておりました」
彼女は悲しげに眉を下げた。
「侯爵閣下ほどの方が治めていらっしゃるのですもの。何か事情がおありなのではないかと思いまして」
責めているわけではない。
心配しているだけだ。
そう受け取れる、慈悲深い言葉だった。
侯爵はすぐに笑顔を取り戻した。
「ご心配には及びません。北方は広大でございますから、一部の地域で物資の到着が遅れることもございます。しかし、必要な支援はすでに手配しております」
「まあ。それは素晴らしいことですわ」
ヴェルシェリアは、感心したように頷いた。
「では、先日、北方軍へ納入された穀物の一部が、侯爵閣下の私設倉庫へ運び込まれたという噂話も、何かの手違いだったのでしょうね」
侯爵の指が、グラスの脚をわずかに強く握った。
アシュレインは何も言わない。
ただ、彼女の隣で穏やかに微笑んでいた。
彼は知っている。
ヴェルシェリアが何を考え、何を見極めようとしているのか。
そして、彼女がどれほど冷徹に相手を追い詰めることができるのかも。
彼女の微笑みが崩れることはない。
それを、アシュレインは誰よりもよく知っていた。
「……そのような話が?」
侯爵は困惑したように眉を寄せた。
「初耳でございますな。軍の物資管理については、軍務局が管轄しております。私が関与することではございません」
「あら、そうでしたの」
ヴェルシェリアは、軽く首を傾げた。
「わたくし、侯爵閣下が北方軍への支援を積極的に行っていらっしゃると伺っておりましたので、つい」
「ええ、もちろんです。私は常に王国の安寧を願っております」
「それは心強いことですわ」
彼女は微笑んだまま、言葉を重ねた。
「ところで、先ほど軍務局の管轄だとおっしゃいましたわね?」
「はい」
「では、軍務局の管理番号が記された輸送記録についても、侯爵閣下はご存じない?」
「……何のことでしょうか」
返答が、わずかに遅れた。
ヴェルシェリアは、その沈黙を心の中に刻みつける。
知らないのではない。
知らないふりをしているのだ。
少なくとも、この男は軍用物資の流れについて、何らかの情報を持っている。
だが、まだ断定するには早い。
彼女は、相手の口から出た言葉を一つずつ並べていった。
北方の物資不足は認識している。
支援は手配済みだと主張した。
私設倉庫への物資の搬入は知らないという。
そして、軍務局の管理番号について尋ねられた途端、返答が遅れた。
嘘をつく人間は、すべてを偽る必要はない。
真実の中に、ひとつだけ嘘を混ぜればいい。
だからこそ、嘘を暴くには、相手が語った真実まで見失ってはならないのだ。
「失礼いたしました。わたくしの早合点だったようですわね」
ヴェルシェリアは、優雅に頭を下げた。
「どうか、お気になさらず」
侯爵は安堵したように笑った。
その顔を見ながら、ヴェルシェリアは思った。
──ひとつ、確認できましたわ。
この男は、追及されることを恐れている。
ならば、恐れているものを、もう少し見せてもらおう。
◇
晩餐会が始まると、侯爵は次々と貴族たちを紹介していった。
北方の領主たち。
商業組合の代表者。
軍務局に関係する役人。
そして、王宮にも出入りする高位貴族たち。
誰もが華やかな衣装を纏い、豪奢な食卓を囲み、王家の繁栄と国の平和を讃えていた。
その中に、ヴェルシェリアは見覚えのある顔を見つけた。
軍務卿グラディウス公爵の側近として知られる、文官の男である。
彼は侯爵と短く言葉を交わしたあと、ヴェルシェリアの視線に気づき、慌てて一礼した。
「ああ、これはポインセット公爵令嬢。今宵は実に素晴らしい宴でございますね」
「ええ。侯爵閣下のおもてなしには、感服いたしましたわ」
「北方と王都の友好が、これからも続くことを願っております」
「わたくしも、そう願っております」
ヴェルシェリアは微笑んだ。
「ところで、あなたは軍務卿のもとで働いていらっしゃるのですよね?」
「はい。軍務局にて、物資の管理や輸送に関する書類を扱っております」
「まあ。では、今回の晩餐会についても、軍務卿はご存じなのでしょうか?」
「えっ……」
男の目が泳いだ。
ヴェルシェリアは、柔らかな笑みを浮かべたまま続ける。
「侯爵閣下は、王国と北方の和平を祝うために、この宴を催してくださったのでしょう?軍務局にとっても、喜ばしいことだと思いまして」
「そ、それは……公爵閣下は、こうした社交の場にはあまり関心をお持ちではありませんので」
「あら、そうでしたの?」
彼女は残念そうに目を伏せた。
「せっかくの和平の宴ですのに、軍務卿のお姿がないのは寂しいですわね」
「……申し訳ございません」
「いいえ。あなたが謝ることではありませんわ」
ヴェルシェリアは、相手を責めなかった。
ただ、言葉の端々から、必要な情報だけを拾い上げていく。
この男は、晩餐会の開催を事前に知らなかった。
あるいは、知っていても、軍務卿へ報告していない。
どちらにしても、侯爵と軍務局の連絡経路には、まだ見えていない部分がある。
ヴェルシェリアは、別の話題へ移った。
北方の道路整備について。
冬季の輸送計画について。
軍の補給物資の管理について。
相手が答えやすい質問を選び、話の流れを自然に誘導する。
決して、尋問のようには見せない。
相手が自分から話したくなるように。
自分が何を明かしているのか、気づかないまま口を滑らせるように。
やがて、文官はぽつりと漏らした。
「……今年は、北方への輸送経路を一部変更したのです。軍務卿のご指示で」
「まあ。どのような理由で?」
「それは……機密に関わることですので」
「もちろんですわ。無理にお尋ねするつもりはございません」
ヴェルシェリアは、あっさりと引き下がった。
その態度に、文官は安堵したようだった。
けれど、彼女がすでに、ひとつの手掛かりを得ていることに彼は気づいてない。
輸送経路が変更された時期。
軍務卿の指示。
そして、ニグルム侯爵の私設倉庫に物資が運び込まれた時期。
それらを照合すれば、軍務局の関与を調べる足掛かりになる。
ただし、経路変更の指示だけで公爵の罪が証明されるわけではない。
軍務卿として正当な理由があった可能性もある。
必要なのは、その変更によって誰が利益を得たのかという証拠だ。
ヴェルシェリアは、胸の内で静かに結論を下した。
──まだ、足りませんわね。
彼女はグラスを口元へ運び、優雅に微笑んだ。
その笑みを見た文官は、ようやく話題が変わったことに安堵したようだった。
だが、ヴェルシェリアにとっては、これもまた一つの成果だった。
人は、自分が嘘をついているときよりも、嘘を見抜かれていないと思ったときのほうが、よく喋る。
そして彼女は、相手が安心した瞬間にこそ、次の問いを用意する。
◇
「ポインセット公爵令嬢」
宴も半ばを過ぎた頃、ニグルム侯爵が再び彼女の前へ現れた。
「今宵は、ずいぶんと多くの方々とお話しされているようですな」
「ええ。皆様、興味深いお話を聞かせてくださいますもの」
「さようでございますか」
侯爵は、笑みを深めた。
「公爵令嬢は、昔から人の話を聞くのがお好きなのですか?」
「そうですわね。人の言葉には、その方が何を大切にしているのかが表れますから」
「なるほど。では、言葉にしないものについては、いかがでしょう?」
ヴェルシェリアの微笑みは変わらなかった。
「言葉にしないもの、ですか?」
「ええ。人は誰しも、胸の内に他人へ見せたくないものを抱えている。欲望、恐怖、憎しみ……あるいは、本人でさえ認めたくないほど醜いものを」
侯爵は、まるで世間話でもするように語った。
「令嬢ほど聡明な方ならば、そうしたものにもお気づきになるのでしょうな」
「どうでしょう。わたくしは、皆様が思うほど人の心を見通せるわけではありませんわ」
「ご謙遜を」
侯爵の目が、彼女の顔をじっと見つめた。
「ですが、人の心の醜さを知ることと、それを理解することは違う。ましてや、ご自身の心に巣食うものとなれば……」
そこで、彼は一度言葉を切った。
周囲では、弦楽器の音色が優雅に流れている。
貴族たちの笑い声。
食器の触れ合う音。
誰かが語る、他愛もない噂話。
そのすべてが、何事もない夜会の一部として続いていた。
侯爵の次の言葉だけが、ヴェルシェリアの耳に静かに届いた。
「──ご令嬢は、ご自身の中にいる怪物を、どこまで愛していらっしゃるのでしょうな?」
ヴェルシェリアは、微笑んだままだった。
驚きはない。
恐怖もない。
ただ、目の前の男が、どこまで知っているのかを測るために、意識がほんの少しだけ研ぎ澄まされた。
怪物。
その言葉を、彼女は否定しなかった。
自分の中に怪物がいることなど、とうの昔に知っている。
慈悲深い公爵令嬢の仮面の下に、冷酷な王女があることも。
正義を掲げながら、必要とあらば人の人生を容赦なく切り捨てられることも。
誰かの罪を暴くことに、ためらいを覚えなくなったことも。
すべて、自分自身の一部だった。
だが、それを知っているからといって、他人に踏み込まれることを許すつもりはない。
「まあ」
ヴェルシェリアは、鈴を転がすように笑った。
「侯爵閣下は、ずいぶんと面白いことをおっしゃるのですね」
「おや。お気に障りましたかな?」
「いいえ。むしろ、感心しておりますの」
彼女は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「人の心の中に怪物を見つけるのは、簡単なことではありませんもの。ましてや、その怪物が何を愛し、何を恐れ、何を許さないのかまで理解するとなれば……相当な観察眼が必要でしょうね」
侯爵の目が、わずかに細められた。
「では、公爵令嬢にも、許せないものがおありなのですか?」
「もちろんですわ」
ヴェルシェリアは、ためらいなく答えた。
「誰にでもあるでしょう?」
「たとえば?」
「そうですね……」
彼女は、考えるふりをした。
そして、柔らかく微笑む。
「大切なものを、身勝手な理由で傷つける方でしょうか」
侯爵の笑みが、ほんのわずかに強張った。
「……それは、誰にとっても許し難いことでしょうな」
「ええ。ですが何を大切だと思うかは、人によって違いますもの」
ヴェルシェリアは、グラスを置いた。
「わたくしにとって大切なものを、他の方が同じように大切にしてくださるとは限りません。だからこそ、わたくしは自分の大切なものを、自分で守りたいのですわ」
その言葉に、侯爵はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……なるほど。実に、貴女らしいお答えです」
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
ヴェルシェリアは、再び礼儀正しく微笑んだ。
その胸の内に、動揺はなかった。
アシュレインが自分をどう思っているのか。
彼が自分のどこを愛しているのか。
そんなことを、今さら疑う必要などない。
彼は彼女の優しさを知っている。
冷酷さも、残虐性も、心の奥底にある醜い欲望も知っている。
そして、そのすべてを見たうえで、彼女の手を取っている。
彼の愛情に、一片の疑いもなかった。
だからこそ、侯爵の言葉に怯える理由はない。
彼女の秘密を知っていることが、彼女を傷つける武器になると思っているのなら。
それは、相手の見当違いというものだ。
ヴェルシェリアは、侯爵の顔をまっすぐに見つめた。
「侯爵閣下。ひとつ、わたくしからもお尋ねしてよろしいでしょうか?」
「ええ。もちろんです」
「閣下は、先ほどから人の心の醜さについて、ずいぶんとお詳しいご様子ですわね」
「……そうでしょうか」
「ええ。まるで、ご自身も同じものを抱えていらっしゃるかのように」
侯爵の目が、止まった。
ヴェルシェリアは、笑みを崩さない。
「人は、自分がよく知っているものほど、他人の中にも見つけやすいと申しますでしょう?」
静かな一言だった。
けれど、それは侯爵が彼女へ投げた言葉を、そのまま返すものだった。
「……公爵令嬢は、私を疑っていらっしゃるのですか?」
「まさか」
ヴェルシェリアは、すぐに首を振った。
「わたくしは、お話をしているだけですわ」
そして、優雅に一礼した。
「ただ、今宵の晩餐会を楽しんでいるだけですの」
彼女は侯爵の返事を待たず、静かにその場を離れた。
背後から視線を感じる。
けれど、振り返らなかった。
相手に自分の言葉を考えさせる時間も、社交の駆け引きの一部なのだから。
◇
人目の少ない回廊へ出たところで、ヴェルシェリアは足を止めた。
窓の外には、夜の庭園が広がっている。
月明かりの下、白い花々が風に揺れていた。
「……ヴェルシェリア公爵令嬢」
少し離れた場所から、ローレンが姿を現した。
彼は晩餐会の間、護衛として彼女の動向を見守っていた。
「侯爵との会話は?」
「興味深いものでしたわ」
「何か、問題が?」
「問題というより……新しい疑問が増えましたわね」
ヴェルシェリアは、先ほどの会話を簡潔に伝えた。
ローレンの表情が険しくなる。
「あなたの内面を知っているような発言をした、と」
「ええ。けれど、どこまで知っているのかは分かりません。黒百合の存在を知っているのか。それとも、わたくし個人について何か調べたのか。あるいは、ただの挑発か」
「いずれにせよ、警戒を強める必要があります」
「そうね。けれど、今夜の会話だけで、侯爵が黒百合の秘密を把握していると決めつけるのは早いわ」
ヴェルシェリアは、窓の外を眺めた。
「彼は、わたくしの反応を見ていました。言葉そのものよりも、わたくしが何に反応するかを確かめたかったのでしょう」
「……公爵令嬢は、反応をお見せになりませんでしたが」
「そうかしら?」
彼女は微笑んだ。
「わたくしは、彼の言葉を聞いていましたもの。聞いた以上、何かしらの反応はあったはずですわ」
ローレンは黙って彼女を見た。
「ただ、彼が期待した反応ではなかったのでしょうね」
ヴェルシェリアは、静かに続けた。
「わたくしが自分の心を恥じていると思ったのかもしれないわ。あるいは、殿下に知られることを恐れていると考えたのかも」
「……その可能性はありますね」
「でも、どちらも間違いですわ」
その声には、揺るぎない確信があった。
「わたくしは、自分の中にいるものを知っています。殿下も、それをご存じです。わたくしが何を考え、どれほど冷酷な判断を下せる人間なのか、あの方はすべて理解したうえで、わたくしを愛してくださっている」
ヴェルシェリアは、胸元に手を添えた。
「その愛情を、他人の言葉ひとつで疑うことなどありませんわ」
ローレンは、静かに頭を下げた。
「……失礼いたしました。疑っていたわけではありません」
「分かっていますわ。あなたは、わたくしを案じてくれているのでしょう?」
「はい」
「ありがとう、ローレン」
ヴェルシェリアは、柔らかく微笑んだ。
「でも、心配はいりません。わたくしは、自分の心を誰かに決めてもらうつもりはありませんもの」
彼女は再び、晩餐会の会場へ視線を向けた。
「それに、黒百合の皆を疑う理由もありませんわ」
「……招待状の暗号について、ですか」
「ええ」
── 七つの花のうち、一輪はすでに枯れている。
あの暗号は、黒百合の内部に裏切り者がいると示唆していた。
けれど、ヴェルシェリアは一度も、仲間の誰かを疑わなかった。
7人の信頼は、証拠のない言葉ひとつで崩れるほど脆いものではない。
彼らは、それぞれ異なる理由で黒百合に加わった。
それぞれが、異なる過去を持っている。
けれど、誰かに命じられたからではなく、自分の意志でここにいる。
その選択を、ヴェルシェリアは尊重していた。
「もし本当に裏切り者がいるのなら、その事実が明らかになったときに向き合えばいい。けれど、敵が仕掛けた疑念に踊らされて、わたくしから仲間を疑うことはありませんわ」
ローレンは、静かに頷いた。
「承知しました」
「それに……」
ヴェルシェリアは、ほんの少しだけ笑みを深めた。
「黒百合の誰かが、わたくしたちを裏切ったのなら。その理由も、目的も、すべて明らかにしてみせます。信頼しているからといって、罪を見逃すつもりはありませんもの」
信頼と盲信は違う。
彼女は仲間を信じている。
だからこそ、事実を確かめることを恐れない。
もし誰かが本当に罪を犯したのなら、その者の罪を正しく見極める。
そうでないのなら、疑念を仕掛けた者の思惑を暴く。
どちらに転んでも、ヴェルシェリアの進む道は変わらなかった。
彼女は、静かに息を吐いた。
「さて。そろそろ戻りましょうか。せっかくの晩餐会ですもの。侯爵閣下には、もう少しお話を聞かせていただきませんと」
「……まだ続けるおつもりですか」
「もちろんですわ」
ヴェルシェリアは、花が咲くように微笑んだ。
「わたくし、嘘をつく方のお話を聞くのは嫌いではありませんの。どこまで本当のことを隠していられるのか、興味がありますもの」
その言葉に、ローレンはわずかに目を伏せた。
彼女の微笑みは、いつもどおり美しかった。
けれど、その奥にあるものを知る彼には分かっていた。
ヴェルシェリアは、もう相手を逃がすつもりなどない。
◇
晩餐会が終わり、王宮へ戻る馬車の中。
ヴェルシェリアは、窓の外を眺めていた。
隣に座るアシュレインが、穏やかな声で尋ねる。
「侯爵とは、ずいぶんと楽しそうに話していたね」
「ええ。とても興味深い方でしたわ」
「そうか。では、何を聞き出せた?」
彼女は、今夜の会話から得た情報を順に伝えた。
北方の物資不足を認識していたこと。
私設倉庫への物資搬入について、明確な説明を避けたこと。
軍務局の文官から得た、輸送経路変更に関する情報。
そして、侯爵が彼女自身の内面を知っているかのような発言をしたこと。
アシュレインは、最後まで黙って聞いていた。
「……なるほど」
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「侯爵が黒百合の存在を知っている可能性は、依然としてある。だが、今夜の発言だけでは、どこまで知っているのかは分からないな」
「ええ。わたくしも、そう考えておりますわ」
「それにしても、自分の中にいる怪物、か」
アシュレインは、窓の外へ目を向けた。
「随分と、思わせぶりなことを言う男だ」
「そうですわね」
ヴェルシェリアは微笑んだ。
「けれど、あの方はひとつ、勘違いをしていらっしゃるようでした」
「ほう。何を?」
「わたくしが、自分の中にいる怪物を恐れていると思っていることです」
アシュレインの翠玉の瞳が、彼女へ向けられた。
ヴェルシェリアは、その視線をまっすぐに受け止めた。
「わたくしは、自分の中にいるものを知っています。どれほど残酷なことを考えられるのか。何を守るためなら、どこまで冷酷になれるのか。自分自身を美化するつもりはありませんわ」
「……ああ」
「そして、あなたもご存じです」
彼女は、彼の手にそっと指を重ねた。
「それでもあなたは、わたくしを愛してくださる。わたくしも、あなたの中にあるものを知ったうえで、あなたを愛しておりますわ」
アシュレインは、彼女の手を握り返した。
「当然だろう。今さら、君の何を疑う必要がある?」
その言葉に、ヴェルシェリアの胸が静かに満たされる。
疑いようがない。
彼の愛は、いつだって彼女の手の届く場所にある。
彼女が何者であろうと。
どれほど醜い感情を抱えていようと。
彼は彼女を選び、彼女もまた彼を選ぶ。
その事実は、誰にも覆せない。
「……ふふ。そうですわね」
ヴェルシェリアは、幸せそうに微笑んだ。
「ですから、侯爵閣下にはお気の毒ですが、わたくしを揺さぶるには相手が悪かったようですわ」
「まったくだ」
アシュレインもまた、楽しげに笑った。
「では、次は何をする?」
「まずは、侯爵の発言の出所を調べます。誰かがわたくしについて情報を集めたのか。それとも、あの方は別の何かを知っているのか」
「黒百合にも共有しておこう」
「ええ。ですが、疑念を煽る必要はありませんわ。わたくしは、皆を信じていますもの」
アシュレインは、彼女の手の甲へそっと口づけた。
「ならば、その信頼を前提に動けばいい。誰が何を知っているのか、ひとつずつ確かめていこう」
「はい、殿下」
馬車の外では、王都の灯りが流れていく。
ヴェルシェリアは、再び窓の外へ目を向けた。
侯爵は、彼女の心に巣食う怪物を知っているかのように語った。
それが真実なのか。
それとも、彼女を揺さぶるための虚言なのか。
まだ、答えは出ていない。
けれど、彼女は恐れていなかった。
アシュレインの愛情に疑いはない。
黒百合の仲間たちへの信頼にも、揺らぎはない。
ならば、残る問題はひとつだけだ。
誰が、何のために、自分の心の奥へ手を伸ばそうとしているのか。
その答えを見つけ出すこと。
そして、彼女の大切なものに触れようとした者がいるのなら、その手が何を求めているのかを、最後まで見極めること。
ヴェルシェリアは、夜の闇に映る自分の姿を見つめた。
黒い髪。
紅い瞳。
そして、誰からも美しいと称えられる微笑み。
その奥にいる怪物は、今夜も静かに目を開けていた。
けれど、怪物は怯えてなどいない。
自分が何者であるかを知り、愛する者に受け入れられ、守るべきものを自分の意志で選んでいる。
それは、誰かに暴かれたところで変わるものではなかった。
ヴェルシェリアは、もう一度、優雅に微笑んだ。
公爵令嬢の微笑みは、崩れない。
その微笑みの奥に、どれほど深い毒が潜んでいようとも。
彼女の愛も、信頼も、そして怪物も。
誰かの言葉ひとつで、揺らぐことはないのだから。




