第10話 王を疑う者
その報せが届いたのは、夜明け前のことだった。
「──作戦が失敗した?」
黒百合の地下会議室に、ヴェルシェリアの静かな声が響いた。
卓上には、北方から届けられた報告書が広げられている。
軍用物資の横流しに関する証拠を押さえるため、黒百合はニグルム侯爵の私設倉庫へ調査員を送り込んでいた。
目的は、倉庫に保管されている物資の記録と輸送台帳を確保すること。
すでにソクラドが商人たちの証言を集め、グロリアが軍の管理記録との照合を進め、リンドウェルが教会への寄付金の流れから資金の一部を追跡していた。
あと一歩で、侯爵の不正を裏付ける決定的な証拠が手に入るはずだった。
「倉庫へ踏み込む直前、侯爵側の兵士に先回りされました。調査員は撤退しましたが、確保できた資料はありません」
ローレンが報告する。
「こちらの動きが、事前に知られていたということですね」
ヴェルシェリアは、卓上の報告書に目を落とした。
「はい。警備の配置も、調査員が接近する時刻も、こちらが計画した内容と一致していたそうです」
「偶然ではありませんわね」
彼女は指先で紙の端をそろえた。
怒りはなかった。
少なくとも、表に出すような怒りは。
作戦が失敗したこと自体は問題ではない。計画が崩れることも、敵に先手を取られることも、情報戦においては起こり得る。
問題は、敵が何を知っていたのかということだ。
調査の目的。
調査員の動き。
そして、倉庫へ踏み込む時刻。
これらすべてが漏れていたのなら、敵は黒百合の計画を相当な精度で把握している。
「情報が漏れた経路を洗い出しましょう」
ヴェルシェリアは顔を上げた。
「商人、調査員の手配に関わった同業者たちを確認してください。彼らが悪意を持って情報を流したと決めつける必要はありません。誰が、いつ、どの情報に触れたのかを調べるのです」
「承知いたしました。人の口に戸は立てられませんが、誰がどこで口を滑らせたかくらいは、商人の伝手で追えるでしょう」
ソクラドは、いつもの軽い笑みを浮かべた。
しかし、その目は笑っていなかった。
「騎士は軍務局の輸送記録を再確認。今回の作戦と接点のある人物がいないか調べてください」
「了解。軍の連中が関わっているなら、あたしが洗い出す」
「司祭は教会を経由した情報の流れを。これまでの調査で、教会の関係者が作戦の詳細に触れていないことは分かっています。だからこそ、別の経路から情報が流れた可能性も含めて確認を」
「かしこまりました」
「お願いしますわ」
ヴェルシェリアは、次にローレンを見た。
「剣。王宮内で、作戦の存在を知り得た人物を確認してください。招待状の受領から、調査の決定、連絡の伝達まで。情報に触れた者を、順番に洗い出してほしいのです」
「承知しました」
「少女は侯爵の私兵と使用人の動きを。今回の作戦を事前に知っていた様子がなかったか、改めて調べてください」
「分かりました」
最後に、ヴェルシェリアはアシュレインへ視線を向けた。
「王、王宮側の情報管理については、わたくしからも調べます。ですが、王のお立場に関わる動きがあれば、すぐにご報告いたしますわ」
「分かった。こちらでも動こう」
アシュレインは静かに頷いた。
そのエメラルドの瞳に、焦りはない。
ヴェルシェリアにも、迷いはなかった。
誰かが情報を漏らした、それは事実だ。
けれど、誰が漏らしたのかは分からない。
ならば、調べる。
疑うのは、証拠が見つかってからでも遅くはない。
七席の誰かが裏切ったのだと、最初から決めつける必要などないのだから。
◇
その日の昼には、王宮の空気が変わり始めていた。
「王太子殿下は、北方の貴族を次々と失脚させているらしい」
「罪を裁いているのではなく、ご自分に都合の悪い者を排除しているのではないか?」
「今回のニグルム侯爵への調査も、王太子殿下が北方の軍事権限を握るための策略だという話だ」
噂は、驚くほどの速さで広がっていた。
誰が最初に口にしたのかは分からない。
王宮の廊下で。
貴族たちの茶会で。
商人たちが集まる酒場で。
人々は声を潜めながら、同じ話を繰り返した。
アシュレイン・ボルシギアナは、粛清を私物化している。
王太子の権限を利用し、反対する貴族を排除している。
罪の有無など、彼にとってはどうでもいいのだ。
自分に従う者だけを残し、王国を意のままに動かそうとしているのだと。
もちろん、噂を裏付ける確かな証拠はなかった。
だが、人々は証拠のない話ほど、都合よく膨らませる。
過去に失脚した貴族の中には、実際に罪を犯した者もいれば、処罰の妥当性に疑問が残る者もいた。
黒百合が集めた証拠のすべてを、公にすることはできない。
情報源を明かせば、調査協力者の命が危険にさらされる。
まだ捜査の途中にある案件を公表すれば、敵に証拠隠滅の機会を与えることにもなる。
アシュレインは、王国を守るために裁きを下してきた。
しかし、その判断の過程を知らない者たちから見れば、彼の行動は一方的な粛清にも映る。
そして、敵はその隙を見逃さなかった。
「王太子殿下には、説明責任がおありになるのでは?」
王宮で開かれた政務会議。
一人の高位貴族が、慎重な口調で問いかけた。
「近頃、殿下が関与された貴族の処分について、さまざまな噂が流れております。王太子というお立場を考えれば、国民の不安を払拭するためにも、説明をなさるべきかと」
「説明、か」
アシュレインは、穏やかな表情で相手を見た。
「私が裁きを下した者たちについて、何を説明すればよい?」
「それは……処分の根拠についてでございます」
「根拠はある」
短い答えだった。
貴族は一瞬、言葉に詰まった。
「では、その証拠を公表していただければ」
「捜査に協力した者の名を明かし、今も調査中の案件を敵に知らせ、証拠を隠滅する機会を与えろと?」
「い、いえ。そういう意味では……」
「ならば、何を求めている?」
アシュレインは微笑んだまま、問い返した。
声を荒らげることはない。
相手を威圧するために、机を叩くこともしない。
ただ、逃げ道のない問いを、静かに差し出す。
「私が正当な裁きを下したと証明するために、今後の捜査を危険にさらすべきだと?それとも、噂が流れたという理由だけで、すべての処分を取り消すべきだと?」
「そのようなことは申し上げておりません」
「では、何を申し上げたいのか、明確にしていただこう」
会議室が静まり返った。
アシュレインは、決して無実の人間を処罰しているわけではない。
少なくとも、彼自身はそう判断している。
しかし、彼の裁きが常に万人の納得を得られるわけではないことも、彼は理解していた。
だからこそ、彼は証拠を求める。
だからこそ、ヴェルシェリアが集めた情報を精査し、最後の判断を自ら下す。
その過程を公にできないことが、今は弱点になっていた。
「殿下」
別の貴族が口を開いた。
「今回の騒動は、王位継承にも関わる問題です。陛下がご健在であるとはいえ、王太子殿下への信頼が損なわれれば、王国の安定そのものが揺らぎかねません」
「……そうだな」
アシュレインは頷いた。
「だからこそ、根拠のない噂に惑わされず、事実を確かめる必要がある」
その言葉に、反論はなかった。
けれど、沈黙は納得を意味しない。
貴族たちの目には、疑念が残っていた。
そして、アシュレインは理解していた。
敵が狙っているのは、単に自分の評判を傷つけることではない。
王太子としての正当性を揺るがし、王宮の内部に軋轢を生じさせることだ。
黒百合の情報を漏らし、作戦を失敗させた。
そのうえで、王太子が粛清を私物化しているという噂を広める。
ふたつの出来事が偶然に重なったとは考えにくい。
誰かが、意図的に盤面を動かしている。
そして、その人物は王宮の事情をよく知っている。
◇
夕刻。
黒百合の地下会議室には、再び七つの席が集まっていた。
だが、いつもと同じ光景でありながら、空気は明らかに違っていた。
作戦の失敗。
王太子への中傷。
そして、敵がこちらの情報を把握しているという事実。
それらが重なり、誰もが慎重になっていた。
「王宮の噂は、ずいぶんと手際よく広がっていますね」
ソクラドが報告書を卓上に置いた。
「最初に確認されたのは、王都の商人が集まる酒場です。そこから複数の貴族の屋敷へ伝わり、今では王宮に出入りする者たちの間でも話題になっています」
「誰が最初に広めたの?」
ライラが尋ねた。
「それが、まだ分かりません。酒場で話していた男は、どこかの商会に所属しているようですが、身元を確かめる前に姿を消しました」
「逃げたの?」
「ええ。まるで、自分が疑われることを最初から知っていたかのように」
ソクラドは、手元の資料をめくった。
「ただし、彼が噂の発信源だとは限りません。最初に確認できた人物と、実際に噂を作った人物は別かもしれないですから」
「そうね。情報を流す者と、情報を作る者が同じとは限らないわ」
ヴェルシェリアは頷いた。
「騎士、軍務局の状況は?」
「輸送経路の変更記録を再確認したが、今回の作戦を直接知っていた者は、記録上では限られている。ただし、物資の移動予定から倉庫の警備が強化される時期を推測することはできる。軍務局の内部情報が漏れた可能性はあるが、そこから黒百合の具体的な計画まで把握できたかは分からない」
「つまり、軍務局だけが情報源とは限らないということね」
「そうだ。別の情報と組み合わせれば、敵が推測できた可能性もある」
「司祭は?」
「教会を経由した寄付金の調査について、外部へ情報が漏れた形跡は今のところありません。ただし、教会の記録に接触した者だけでなく、寄付金の移動を扱った運送業者や会計担当者にも確認が必要でしょう」
「分かりました。剣は?」
「王宮内の記録を確認しました。今回の調査について、正式な命令書は発行されていません。情報を知っていたのは、口頭で指示を受けた者と、連絡の伝達に関わった者です。現時点で、特定の人物が不自然に動いた形跡はありません」
「そう、少女は?」
「侯爵の屋敷では、作戦が失敗した直後から警備が強化されています。でも、使用人たちの様子に、急に報酬を受け取ったとか、逃げ出そうとしたとか、そういう変化は見つかっていません」
報告を聞き終えたヴェルシェリアは、静かに目を閉じた。
情報は漏れている。
だが、漏洩経路は特定できない。
黒百合の内部から直接漏れた可能性もある。
外部の協力者が情報を売った可能性もある。
あるいは、敵が複数の断片をつなぎ合わせ、こちらの計画を推測したのかもしれない。
今の段階では、どれも否定できなかった。
「……少し、厄介だな」
グロリアが腕を組んだ。
「黒百合の中に裏切り者がいる可能性は?」
その問いに、室内の空気がわずかに張り詰めた。
誰もが、同じことを考えていたのだ。
だが、誰も口にしなかった。
ヴェルシェリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「可能性だけなら、否定はできませんわ」
彼女は、誰の顔も避けなかった。
「けれど、可能性があることと、事実であることは違います。今の段階で、わたくしたちの誰かを疑う根拠はありません」
「しかし、王女……」
「分かっています。情報が漏れた以上、調べる必要はあります。七席全員について、情報に触れた範囲と時期を確認しましょう」
彼女の声は穏やかだった。
「ただし、調査は全員に同じ基準で行います。誰か一人だけを特別に疑うことも、特定の人物だけを調査から外すこともしません」
ソクラドが、ゆっくりと頷いた。
「公平に調べる、ということですね」
「ええ。わたくしは、皆を信じていますもの」
ヴェルシェリアは、はっきりと言った。
「だからこそ、根拠のない疑いで誰かを傷つけたくはありません。それに、本当に裏切り者がいるのなら、信頼しているからという理由で見逃すつもりもありませんわ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
信頼とは、目を閉じることではない。
相手を信じているからこそ、事実を確かめることを恐れない。
それが、ヴェルシェリアの考えだった。
「もうひとつ」
彼女は、卓上の資料を一枚取り上げた。
「今回の作戦が失敗したことと、王太子殿下への中傷が広がっていること。このふたつは、同じ人物が仕掛けた可能性があります」
「王太子殿下の信用を落とし、黒百合の活動を制限するためでしょうか」
リンドウェルが尋ねた。
「ええ。殿下が王太子としての立場を失えば、黒百合が裁きを下すための基盤も揺らぎます。逆に、黒百合の存在が露見すれば、殿下の判断はさらに疑われることになる」
「どちらに転んでも、王と王女を追い詰める構図ですね」
ソクラドが呟いた。
「けれど、目的がそれだけとは限りませんわ」
ヴェルシェリアは、報告書を見つめた。
「わたくしたちに疑念を抱かせ、仲間同士で疑い合うよう仕向けることも、敵の狙いかもしれません」
ライラが、小さく眉を寄せた。
「……仲間を疑わせるために?」
「ええ。7人が互いを疑えば、情報の共有が滞ります。報告を隠し、相談を避け、誰かが独断で動くようになる。そうなれば、敵はわざわざ黒百合を壊す必要すらありません。わたくしたちが、自分たちで組織を崩してしまうのですから」
沈黙が落ちた。
その可能性を、誰も否定できなかった。
けれど、ヴェルシェリアは微笑んだ。
「ですから、敵の思惑どおりにはさせません」
彼女は7人を見渡した。
「わたくしたちは、これまでどおり報告を共有します。疑問があれば尋ねる。違和感があれば伝える。ひとりで抱え込まず、勝手に結論を出さない。それを徹底しましょう」
「了解」
グロリアが力強く答えた。
「もちろんですとも」
ソクラドも頷く。
「承知しました」
リンドウェルは静かに祈りの言葉を口にした。
ライラは、ヴェルシェリアの隣に立ったまま、まっすぐに彼女を見つめている。
ローレンは、何も言わずに一礼した。
アシュレインは、その様子を見届けてから口を開いた。
「敵は、私を疑わせたいらしい」
エメラルドの瞳が、冷たく光る。
「ならば、私は事実を示そう。噂に対して感情的に反応するつもりはない。私が裁いた者たちの罪も、これから裁く者たちの罪も、必要な時に、必要な形で明らかにする」
彼は、ヴェルシェリアへ視線を向けた。
「それまでは、黒百合の調査を続けてくれ。私の立場を守るためではない。王国の真実を明らかにするために」
「承知しました、我が王」
ヴェルシェリアは、深く頭を下げた。
そして、静かに付け加える。
「ですが、殿下のお立場を傷つける者を、放置するつもりもありませんわ」
アシュレインは、わずかに笑った。
「頼もしいな」
「当然ですわ。わたくしは、あなたの婚約者ですもの」
そのやり取りに、ほんのわずかに空気が和らいだ。
だが、誰も忘れてはいなかった。
黒百合の情報が、敵に渡り作戦は失敗した。
王太子への疑念は、王宮の内外に広がり始めている。
そして、誰が情報を漏らしたのかは、まだ分からない。
敵は、確実に一歩先を進んでいる。
だからこそ、黒百合は立ち止まるわけにはいかなかった。
◇
深夜。
ポインセット公爵家のヴェルシェリアの自室で、情報網の記録を広げていた。
机の上には、今回の作戦に関わった人物の一覧。
連絡が行われた日時。
報告書の閲覧記録。
商人を介した情報の伝達経路。
そして、これまでの調査で判明した資金の流れ。
それらを、一つずつ照合していく。
誰が何を知っていたのか。
どの時点で、情報が外部へ渡り得たのか。
誰が意図的に漏らしたのか。
あるいは、誰かの不注意によって流出したのか。
ヴェルシェリアは、記録に目を通しながら、ひとつの事実を確認していた。
敵は、単に情報を手に入れただけではない。
こちらの動きを先回りし、その情報を王太子への中傷に結びつけている。
つまり、情報を利用するための準備ができているのだ。
偶然に得た情報を、思いつきで使ったわけではない。
最初から、王太子の信用を損なうことまで計画に含まれていた可能性が高い。
「……随分と、手の込んだことをなさるのね」
ヴェルシェリアは、誰もいない部屋で呟いた。
敵は、単に情報を手に入れただけではない。
こちらの動きを先回りし、その情報を王太子への中傷に結びつけている。
ならば、ニグルム侯爵だけを追っていても、全貌には届かないのかもしれない。
侯爵が黒幕なのか。
それとも、誰かに利用されているのか。
まだ、決定的な証拠はない。
ヴェルシェリアは、机の上に広げた資料へ視線を戻した。
彼女はアシュレインの愛を疑わない。
黒百合の仲間たちへの信頼にも、揺らぎはない。
だからこそ、真実を探す。
信じることと、事実を確かめることは、決して相反しないのだから。
「必ず見つけてみせますわ。誰が情報を漏らしたのか。誰が殿下の名を汚そうとしているのか。そして、その者が何を望んでいるのか」
紅い瞳に、迷いはなかった。
たとえ、どれほど深い闇の中に隠れていようとも。
噂は真実ではない。
疑いは証拠ではない。
そして、敵がどれほど巧妙に罠を張り巡らせようとも、真実そのものを永遠に隠し通すことはできない。
彼女は、机の上の資料を一枚ずつ重ねた。
王女の微笑みは、崩れない。
その奥にある冷静な知性も、愛する者への揺るぎない想いも、黒百合への信頼も。
誰かの悪意によって、失われることはない。
──たとえ、王を疑う声が王国中に満ちようとも。
彼女は必ず、その声の発生源を突き止める。
そして、王を疑わせた者が何を隠しているのか。
そのすべてを、暴き出すのだ。




