第11話 怪物は仲間を売らない
第11話 怪物は仲間を売らない
商人にとって、情報は命である。
誰が何を欲し、何を恐れ、何を隠しているのか。
それを知る者は、金を稼ぐことも、権力者を動かすことも、時には国の運命すら変えることができる。
だが、どれほど高値をつけられようとも、売ってはならない情報がある。
仲間の秘密だ。
「……さて。そろそろ、尻尾を出していただきましょうかねえ」
王都の片隅。
表向きは古びた香辛料商の倉庫、その地下にある小さな部屋で、ソクラド・エリトゥーザは一枚の帳簿を眺めていた。
ピーコックブルーの髪を後ろへ流し、シャルトルーズグリーン色の瞳を細める。
机の上には、複数の商会の取引記録、北方から運ばれた物資の輸送票、そして王宮へ出入りする業者の一覧が並んでいた。
どれも一見すれば、何の変哲もない書類だ。
しかし、ソクラドは知っている。
人間は嘘をつく。
帳簿もまた、嘘をつく。
けれど、嘘をつくために書き換えられた記録には、必ずどこかに歪みが生まれる。
金の流れ。
荷物の移動。
人の往来。
一つひとつを照合していけば、隠された繋がりは少しずつ姿を現す。
「侯爵が倉庫の警備を強化したのは、黒百合が動く直前。王太子殿下への悪評が広まり始めたのも、その直後……」
ソクラドは、指先で帳簿を叩いた。
「偶然にしては、ずいぶんと息が合っていらっしゃる」
彼は、ニグルム侯爵の周辺にいる商人たちを洗い直していた。
侯爵と取引する商会。
軍用物資を運ぶ運送業者。
寄付金を受け取った名目上の慈善団体。
それらを繋ぎ合わせていくと、一つの奇妙な事実が浮かび上がった。
侯爵側から支払われた金の一部が、王都の複数の商会を経由して、ある人物の管理する口座へと流れ込んでいたのだ。
しかも、その送金は一度きりではない。
少なくとも半年以上前から、一定の間隔で繰り返されている。
「王宮の高官が、北方の侯爵から定期的に金を受け取っている……ですか」
ソクラドは、手元の記録に視線を落とした。
その人物の名を確認した瞬間、笑みが消えた。
王宮筆頭書記官、セルキス・キネンシス。
王の政務文書を管理し、各省庁からの報告を取りまとめ、王族へ提出される重要書類の流れを把握している男だった。
軍務卿グラディウス公爵ほど目立つ立場ではない。
だが、王宮で何が決まり、誰が何を知り、どの情報がどこへ渡るのか。
その流れを知るうえでは、極めて重要な地位にある。
黒百合の具体的な計画を知り得る者が限られている以上、彼の存在は見過ごせなかった。
「……これは、なかなか大物が釣れたようですねえ」
ソクラドは、帳簿を閉じた。
まだ断定はできない。
金を受け取っていることと、情報を漏らしたことは別問題だ。
侯爵から金を受け取った理由が、賄賂なのか、別の取引なのか、それとも何かを隠すためなのか。
その答えを得るには、本人が何をしているのか確かめる必要があった。
ソクラドは外套を手に取り、立ち上がった。
「さて。商談のお時間です」
いつものように、彼は軽やかに笑った。
ただし、今度の商談では、相手に値段を尋ねるつもりはなかった。
相手が何を隠しているのか。
それを確かめるために、彼は動き始めたのだった。
◇
翌日の夕刻。
ソクラドは、王都の高級商人たちが利用する会員制の酒場を訪れていた。
目的は、セルキス・キネンシスと繋がりのある商人から、金の流れについて話を聞くことだった。
もっとも、真正面から尋ねたところで、まともな答えが返ってくるはずもない。
だからこそ、商人らしく振る舞う。
相手の懐へ入り込み、警戒を解き、何気ない世間話の中から情報を引き出す。
それが、ソクラドのやり方だった。
「いやあ、最近は王宮絡みのお仕事も物騒になりましたねえ」
彼は酒杯を傾けながら、隣に座る男へ話しかけた。
「王太子殿下のご機嫌を損ねれば商売ができなくなる、なんて噂まで流れているそうじゃありませんか」
「おや、エリトゥーザ殿もお聞きになりましたか」
男は周囲を気にするように声を潜めた。
「実は、王宮の中にも殿下を快く思っていない方々がいらっしゃるようでしてね。筆頭書記官殿も、最近はずいぶんとお忙しいとか」
「ほう。筆頭書記官殿が?」
「ええ。何でも、王位継承に関わる重要な文書を整理されているとか」
ソクラドは、笑みを崩さなかった。
しかし、その内側では思考が加速していた。
「王位継承に関わる文書、ですか。そりゃまた、商人には縁遠いお話だ」
「そうでしょうとも。ただ……」
男は、言葉を切った。
「最近、王宮へ運び込まれる荷物の中に、帳簿にも記載されないものがあるという話を耳にしましてね」
「帳簿に記載されない?」
「ええ。誰の命令なのかは知りませんが、王宮の奥へ直接運び込まれるそうです」
ソクラドは酒杯を置いた。
「……それは、いつ頃から?」
「さあ。詳しくは存じませんが、半年ほど前からでしょうか」
半年。
侯爵からの送金が始まった時期と重なる。
ソクラドは、相手に悟られないように微笑んだ。
「なるほど。貴重なお話をありがとうございます。こちらからも、何かお役に立てる情報がありましたら、お知らせいたしましょう」
商談は、そこで終わった。
酒場を出たソクラドは、夜風に吹かれながら考えた。
セルキス・キネンシスは、単に侯爵から金を受け取っているだけではない。
王宮の文書と物資の流れに関わり、王位継承に関する情報を扱っている。
そして、黒百合の作戦が失敗した直後、王太子への中傷が広がった。
すべてが一本の線で繋がっているとは、まだ言えない。
だが、調べる価値は十分にあった。
「……もう少し、奥まで覗いてみますか」
ソクラドは、夜の街へと足を向けた。
その背後で、酒場の窓辺に座っていた男が、静かに立ち上がったことには気づかないまま。
◇
その夜。
ソクラドが次に向かったのは、王都の外れにある古い運送業者の事務所だった。
表向きは廃業したことになっているが、実際には、王宮と北方を繋ぐ秘密の輸送経路として使われているらしい。
彼は、そこに保管されている過去の輸送記録を確かめようとしていた。
扉には鍵がかかっていた。
しかし、商人というものは、鍵のかかった扉を見ただけで諦める生き物ではない。
「失礼いたしますよ、と」
ソクラドは慣れた手つきで錠前を外し、音を立てないように中へ入った。
埃の積もった棚。
使われていない机。
壁際に積まれた木箱。
その奥に、古い帳簿が保管されていた。
ソクラドは一冊ずつ確認していく。
やがて、目的の記録を見つけた。
そこには、通常の輸送票には記載されない荷物の受け渡しが記録されていた。
届け先は王宮の内廷。
受領者の欄には、セルキス・キネンシスの署名。
そして、備考欄には、短い文言が記されていた。
──第一段階、準備完了。
ソクラドの指が止まった。
「第一段階……?」
その下には、別の記録が続いていた。
──第二段階、王太子の信用失墜。
──第三段階、王の御身に関する手配。
最後の記録には、日付が添えられていた。
それは、黒百合がニグルム侯爵の倉庫を調査しようとした日の、数日前だった。
「……これは、ただの賄賂ではありませんね」
ソクラドは、帳簿を閉じた。
王太子の信用を落とすこと。
王に関する何らかの手配。
そして、侯爵との資金のやり取り。
この三つが同じ計画に含まれているのなら、敵の目的は、単なる不正の隠蔽ではない。
王宮そのものを揺るがす何かを企てている。
彼は必要なページを慎重に写し取り、元の位置へ戻そうとした。
そのときだった。
「──そこまでだ」
背後から声がした。
ソクラドは、動きを止めた。
振り返ると、扉の前に男が二人立っていた。
どちらも見覚えのない顔だった。
だが、その手に握られた武器と、無駄のない立ち姿を見れば、ただの用心棒ではないことは分かる。
「いやはや。閉店したお店に、随分と熱心な従業員がいらっしゃる」
ソクラドは、帳簿を懐へしまいながら微笑んだ。
「商談なら、明日にしていただけませんかね?」
「その帳簿を渡せ」
「おや。こちらの商品にご興味がおありで?」
「ふざけるな」
男の一人が距離を詰めた。
「誰に頼まれた。何を調べている?」
「それをお教えしたら、買ってくださるんですか?」
次の瞬間、男がソクラドの腹部を殴った。
息が詰まる。
身体が折れ、壁へ叩きつけられた。
「もう一度聞く。誰の指示だ」
「……いやあ、乱暴な接客ですねえ」
ソクラドは、苦痛に顔を歪めながらも笑った。
「これでは、お客様の評判が落ちてしまいますよ」
男の拳が、再び振るわれた。
頬に衝撃が走る。
口の中に鉄の味が広がった。
それでも、ソクラドは口を開かなかった。
黒百合の名を。
王と王女の名を。
仲間たちがどこで何をしているのかを。
彼は、ただの一言も漏らさなかった。
「……お前が何を守っているのかは知らん。だが、命が惜しければ話せ」
「命、ですか」
ソクラドは、ゆっくりと顔を上げた。
シャルトルーズグリーンの瞳が、男たちを見据える。
「それは、なかなか魅力的なお誘いですねえ」
「ならば──」
「ですが」
ソクラドは、笑った。
「私には、命より高い値をつけているものがあるのですよ」
男の表情が変わった。
再び拳が振るわれる。
今度は、倒れたソクラドの肩を踏みつけ、懐を探ろうとした。
だが、彼はすでに帳簿の写しを別の場所へ移していた。
ここで捕まっても、すべてが失われるわけではない。
そのために、彼は幾重にも手を打っていたのだ。
商人は、一つの倉庫にすべての商品を保管したりしない。
ましてや、それが命を左右する情報ならば、なおさらだ。
「帳簿はどこだ!」
「さて……どこでしょうねえ」
「殺されたいのか!」
「まさか。私はまだまだ、長生きする予定なのです」
ソクラドは、痛みに震える指で床を押した。
立ち上がることはできない。
身体のあちこちが悲鳴を上げている。
それでも、彼は男たちを見上げた。
「ただし……」
口元から血が滴る。
「私の仲間を売るくらいなら、死んだほうがましだ」
男が顔を歪めた。
その手が、腰の短剣へ伸びる。
ソクラドは、目を逸らさなかった。
どれほど危険な状況に陥ろうとも、彼が守るべきものは変わらない。
王と王女。
剣と少女。
騎士と司祭。
それぞれが、それぞれの場所で戦っている。
その仲間たちが積み上げてきたものを、自分の命惜しさに売り渡すことなどできるはずがなかった。
そのとき外から、複数の足音が聞こえた。
「──こちらです!」
扉が激しく開かれた。
駆け込んできたのは、ソクラドが事前に手配していた協力者たちだった。
男たちは舌打ちし、裏口から逃走する。
追跡する者たちの足音が遠ざかる中、ソクラドは床に座り込んだまま、深く息を吐いた。
「……ああ、まったく。安売りは性に合わないのですがねえ」
いつもの軽口だった。
しかし、その声は掠れていた。
彼は懐に手を入れ、帳簿の写しが残っていることを確認した。
そして、目を閉じた。
証拠は守った。
仲間の秘密も守った。
ならば、次にすべきことは一つだ。
「……我が王に、ご報告しなければ」
ソクラドは、血の滲む口元を拭った。
「これは、思っていたよりも……大きな商談になりそうです」
◇
翌朝。
王宮地下の会議室に、黒百合の七席が集まっていた。
「……商人?」
ヴェルシェリアは、入室してきた商人の姿を見て、わずかに目を細めた。
頬には腫れがあり、唇の端は切れている。
歩き方も、いつもより明らかにぎこちなかった。
「まあ。随分と派手にやられたものね」
「おや、王女。私の新しい流行をご理解いただけるとは、光栄です」
「冗談を言っている場合ではありません」
リンドウェルがすぐに立ち上がった。
「こちらへ。傷を確認します」
「いえいえ、司祭殿。先にご報告を──」
「報告は逃げません。今は手当が先です」
穏やかな声だった。
けれど、そこには逆らいがたい強さがあった。
ソクラドは一瞬だけ困ったように笑い、椅子へ腰を下ろした。
リンドウェルが傷の状態を確かめる間、グロリアが腕を組んで彼を睨んだ。
「一体、何をやったんだい」
「少々、商品の仕入れ先と意見が食い違いまして」
「それで殴られたの?」
「商談というものは、時に身体を張る必要があるのですよ」
「身体を張るにも限度があるだろ!」
グロリアの声が響く。
ライラも、心配そうにソクラドを見つめていた。
「……痛い?」
「ええ、まあ。正直に申し上げれば、かなり」
「なら、無理しないで」
「ありがとうございます、少女殿」
ソクラドは、いつもの笑みを浮かべた。
「ですが、ご安心を。私は、ちゃんと持ち帰りましたよ」
彼は懐から、折り畳まれた書類を取り出した。
ヴェルシェリアが受け取り、目を通す。
数行読んだところで、その表情が変わった。
「……セルキス・キネンシス」
アシュレインが、彼女の手元を覗き込む。
「筆頭書記官か」
「ええ。侯爵からの資金を複数の商会経由で受け取り、王宮へ帳簿に記載されない荷物を運び込ませていたようです」
ヴェルシェリアは、書類を読み進めた。
「そして、この記録……」
彼女の指が、ある一文の上で止まる。
──第一段階、準備完了。
──第二段階、王太子の信用失墜。
──第三段階、王の御身に関する手配。
会議室の空気が、一変した。
「……王の御身に関する手配、ですって?」
グロリアが低く呟いた。
「つまり、陛下を狙っているということか」
ローレンの声は、いつも以上に冷たかった。
アシュレインは、しばらく無言で書類を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「商人。この記録は、確かなものか?」
「はい。原本の保管場所と、受領者の署名を確認しております。原本そのものは持ち出していませんが、写しは複数の記録と照合済みです」
「襲撃者は?」
「私が誰のために動いているのか、何を調べているのかを聞き出そうとしていました。少なくとも、私が王宮の高官を追っていることは察していたようです」
「黒百合については?」
「一言も話しておりません」
ソクラドは、微笑んだ。
「ご安心ください。我々の名前も、役割も、誰が何を担当しているかも。あの者たちには、何一つお渡ししていませんよ」
その言葉に、ヴェルシェリアは静かに目を伏せた。
「……ありがとう、商人」
「もったいないお言葉です」
「あなたが命を危険にさらしてまで守ってくれたものを、わたくしは無駄にしません」
彼女は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「必ず、この証拠を真実へ繋げますわ」
ソクラドは一瞬、目を丸くした。
そして、いつもの人好きのする笑顔を浮かべる。
「ええ。どうかよろしくお願いいたします、我が王女」
その様子を見て、アシュレインが口を開いた。
「商人」
「はい、我が王」
「よく戻った」
たった一言。
しかし、王太子の翠玉の瞳には、確かな感謝があった。
ソクラドは、少しだけ表情を和らげた。
「……恐れ入ります」
「傷が癒えるまでは、無理に動くな。今後の調査は、他の者と連携して進める」
「承知いたしました」
ソクラドは素直に頷いた。
今度ばかりは、軽口を返さなかった。
◇
会議は、すぐに再開された。
ヴェルシェリアは、ソクラドが持ち帰った記録を一枚ずつ整理していく。
「まず、確かなことを確認しましょう」
彼女は静かに告げた。
「セルキス・キネンシスは、ニグルム侯爵から金を受け取っている。そして、王宮に記録されていない荷物を受領していた。さらに、その輸送記録には、王太子殿下の信用失墜と、陛下に関する手配が記されている」
「ええ。ここまでは、記録で裏付けられています」
ソクラドが頷く。
「ただし、陛下に何をするつもりなのかまでは、まだ分かりません」
「そうね」
ヴェルシェリアは、別の資料を取り出した。
「先日の襲撃事件で回収した黒い金属の徽章。あの刻印を覚えているかしら」
ローレンが頷く。
「円の内側に二つの翼。中央には剣のような意匠。裏面には『願いは、王の死によって成就する』と記されていました」
「今回の記録と、無関係とは考えにくいですね」
リンドウェルが静かに言った。
「ただし、同じ計画の一部であると断定するには、もう少し証拠が必要です」
「そのとおりですわ」
ヴェルシェリアは頷いた。
「徽章の持ち主と、セルキス・キネンシスの関係を調べる必要があります。そして、彼が侯爵と手を組んだ理由も」
グロリアが机を叩いた。
「王を狙う理由なんて、王位が欲しいからじゃないのかい?」
「それなら、王太子殿下の信用を失墜させるだけでは不十分です」
ヴェルシェリアは、冷静に答えた。
「王が崩御されたとしても、王太子殿下が次の王として即位なされば、継承そのものは成立します。殿下を失脚させるだけでなく、陛下に関する手配まで進めているのなら、敵はもっと別の何かを望んでいるはずです」
「……王太子殿下を、王位から遠ざけること自体が目的ではない?」
ライラが尋ねた。
「ええ。あるいは、王位継承の仕組みそのものを変えるつもりなのかもしれません」
沈黙が落ちた。
王の死。
王太子の信用失墜。
王宮の高官と北方の侯爵。
それらを組み合わせれば、見えてくる可能性は一つではない。
しかし、どれもまだ仮説だった。
証拠のない推測だけで、人を裁くことはできない。
彼ら自身が、その原則を誰よりも理解している。
「……王」
ヴェルシェリアが、アシュレインを見た。
「セルキス・キネンシスは、王宮の重要文書を扱う立場にあります。今すぐ拘束すれば、彼を警戒していることを敵に知らせることになるかもしれません」
「そうだな。背後にいる者がいるなら、証拠を消し、計画を早める可能性もある」
アシュレインは、指を組んだ。
「だが、陛下の安全を最優先にしなければならない。剣」
「はっ」
「王宮内の警備を見直せ。特に、陛下の居室、食事、薬品、政務文書の受け渡し経路を確認する。誰にも不必要な騒ぎを起こさせるな」
「承知しました」
「騎士は、軍務局の記録から王宮へ運び込まれた物資を調べろ。ソクラドの記録と照合して、荷物の正体を突き止める」
「任せてくれ」
「司祭は、侯爵と高官の資金の流れを別の記録から確認してほしい。告解の内容ではなく、正式な帳簿と取引記録を使って」
「承知しました。信頼できる記録を積み重ねてまいります」
「少女は、セルキス・キネンシスの周辺を探って。使用人や私的な付き合い、屋敷への出入りを確認してほしい。ただし、危険を感じたらすぐに退くこと」
「分かりました」
最後に、アシュレインはソクラドへ視線を向けた。
「君は、情報の流れを追ってくれ。無理はするな。必要なら協力者を使え」
「かしこまりました。次は、もう少し穏便な商談にしたいものですねえ」
「……本当に反省しているのかい?」
グロリアが呆れたように言う。
「もちろんですとも。次回は殴られる前に値段交渉を済ませたいと思っております」
「そういう問題じゃないんだが」
グロリアの声が会議室に響いた。
ほんの一瞬、張り詰めていた空気が緩む。
だが、ヴェルシェリアはすぐに表情を引き締めた。
「皆、気をつけて。敵は黒百合の存在を知っているだけでなく、王宮の内側に手を伸ばしています。これまで以上に慎重に動きましょう」
7人が頷く。
仲間を疑う必要はない。
だが、敵を甘く見るつもりもなかった。
黒百合は、7人の信頼によって成り立っている。
その信頼を壊そうとする者がいるのなら、彼らは互いを疑うのではなく、互いを守りながら真実を追えばいい。
そのためにこそ、7人は集められたのだから。
◇
その夜。
王宮の奥深く、普段は限られた者しか立ち入れない執務室で、一人の男が書類を燃やしていた。
セルキス・キネンシス。
王宮筆頭書記官。
王の政務を支え、王太子の執務を補佐し、王宮のあらゆる情報が集まる場所を管理する男である。
彼は暖炉の炎へ、数枚の紙を投げ入れた。
紙の端が黒く縮れ、文字が赤い火の中へ沈んでいく。
「……商人め。余計なところへ首を突っ込んでくれた」
低い声だった。
彼の机の上には、黒い金属の徽章が置かれていた。
円の内側に二つの翼。
中央に、剣を思わせる意匠。
それは、先日の襲撃者が持っていたものと同じ紋章だった。
セルキスは徽章を手に取り、指先でなぞった。
「もう少しだったというのに……」
彼は、壁際に置かれた小さな箱へ視線を向けた。
箱の中には、古い王家の系譜と、封印された文書が収められていた。
その文書には、現在の王位継承に関わる重大な秘密が記されている。
王宮の大半の者は、その存在すら知らない。
王太子アシュレインも。
その婚約者ヴェルシェリアも。
まだ、真実の全貌には届いていなかった。
「陛下が生きておられる限り、計画は完成しない」
セルキスは、呟いた。
「そして、あの王太子が玉座に就けば、すべてが水の泡だ」
彼の瞳に、憎悪とも恐怖ともつかない色が浮かぶ。
ニグルム侯爵は、彼にとって計画を進めるための駒にすぎなかった。
軍務卿グラディウス公爵もまた、必要な権力と資金を確保するための協力者にすぎない。
彼らが何を望んでいるのか、セルキスはすべてを話してはいない。
侯爵は自らの領地と権力を守りたい。
公爵は軍を掌握し、王宮での影響力を強めたい。
だが、セルキスが望んでいるものは、そのどちらとも違っていた。
彼が求めるのは、王国の頂点に立つ者を、あるべき血筋へ戻すこと。
そのためには、今の王が死ななければならない。
そして、王太子は玉座に就いてはならない。
「……もう、後戻りはできん」
彼は、箱の蓋を閉じた。
そのとき、扉の向こうから声がした。
「筆頭書記官殿。お客様がお見えです」
セルキスの手が止まった。
「……誰だ」
「お名前は、伺っておりません。ただ、こちらをお預かりしております」
扉の隙間から差し出されたのは、小さな封筒だった。
封蝋には、見覚えのある紋章が刻まれている。
セルキスは、それを受け取った。
中には、短い文が一つだけ記されていた。
──商人が動いた。計画を前倒しせよ。
セルキスの顔から、血の気が引いた。
「……馬鹿な。まだ、準備が整っていない」
彼は文面を握り潰した。
しかし、指先の震えは止まらない。
黒百合は、すでに動き始めている。
商人が証拠を持ち帰った以上、いつ自分の名が表に出てもおかしくない。
ならば、迷っている時間はなかった。
セルキスは机の引き出しから、もう一通の書状を取り出した。
宛名は、王宮の外にいる何者か。
その人物の名は、記されていない。
ただ、最後の一文だけが、はっきりと書かれていた。
──王が死すれば、すべての願いは成就する。
彼は蝋燭の火を吹き消した。
暗闇の中で、黒い徽章だけが、かすかに光を反射していた。




