第5話 剣は王と王女のために
王宮で開かれる夜会は、華やかな舞台である。
王族の威光を示し、貴族同士の結びつきを深め、時には政治の行方を左右する。
そして、王宮に集う者たちは皆、己の立場を理解していた。
王太子アシュレイン・ボルシギアナの婚約者であるヴェルシェリア・ポインセットもまた、その例外ではない。
「今夜も、見事な装いだね。ヴェルシェリア」
「ありがとうございます、殿下。殿下こそ、どなたの目にも理想の王太子と映ることでしょう」
「君の目には?」
「さて?わたくしの目には、少々退屈なほど完璧な婚約者に見えておりますわ」
「それは困った。君を退屈させない方法を、後で考えなければならないな」
2人は微笑み合った。
周囲の貴族たちから見れば、睦まじい婚約者同士の他愛ない会話にすぎない。
けれど、互いの瞳に浮かぶものを、2人は正確に理解していた。
今夜もまた、王宮のどこかで何かが動いている。
ニグルム侯爵の不正。
軍務卿グラディウス公爵の名。
そして、王宮の内側に潜む、見えざる手。
黒百合が追い始めた闇は、まだその全貌を現していなかった。
「殿下」
静かな声が2人の会話に割って入る。
黒い礼装に身を包んだ男が、音もなく一礼した。
ローレン・トセラン。
黒百合の第三席にして、アシュレインとヴェルシェリアの直属護衛──「剣」
「会場の警備に異常はありません」
「そうか」
「ただし、東側の回廊で予定外の人員の出入りを確認しました。現在、確認させています」
アシュレインの目がわずかに細くなる。
「予定外の人員?」
「はい。王宮の使用人名簿に該当する者がいません」
「……そう」
ヴェルシェリアは手にした扇をゆっくりと閉じた。
「ローレン。今夜は、いつも以上に殿下のおそばを離れないでちょうだい」
「承知しました」
「あなた自身も、無茶はしないこと」
「必要があれば、いたします」
「ローレン」
「……可能な限り、善処いたします」
ヴェルシェリアは小さく息をついた。
彼は忠実だ。
そして、忠実であるがゆえに、2人の命が脅かされたときには己の命すら勘定に入れない。
それを理解しているからこそ、ヴェルシェリアは彼の無事も願わずにはいられなかった。
「では、参りましょうか。殿下」
「ああ」
3人は、煌びやかな光の中へと歩き出した。
◇
異変は、夜会が始まって間もなく起きた。
アシュレインが貴族たちとの会話を終え、給仕の差し出した杯へ手を伸ばした、その瞬間。
「殿下」
ローレンが低く呼んだ。
伸ばされた手が止まる。
「何だ」
「失礼いたします」
ローレンはアシュレインの前へ進み出ると、給仕の手首を掴んだ。
その動きはあまりにも自然で、周囲の者たちは最初、何が起きたのか理解できなかった。
「なっ……!」
給仕の顔が歪む。
手にしていた銀盆が傾き、杯が床へ落ちた。
甲高い音が響き、透明な液体が絨毯へと広がる。
ローレンは男の手首を捻り上げた。
隠し持っていた細身の刃が、床へ落ちる。
「この者を拘束しろ」
近くにいた近衛兵が、慌てて駆け寄った。
「お、お待ちください!私は何も……!」
「黙れ」
ローレンの声は、驚くほど冷たかった。
男が抵抗しようと身を捩る。
その刹那、ローレンの剣が男の喉元へ突きつけられた。
「次に動けば、斬る」
男の身体が硬直した。
その場にいた貴族たちから、悲鳴とざわめきが広がる。
「殿下、お下がりください!」
「王太子殿下に何を……!」
近衛兵たちがアシュレインを囲む。
しかし、アシュレイン自身は驚くほど落ち着いていた。
彼は床に落ちた杯を見下ろした。
液体の一部が、絨毯の上で不自然な色に変わっている。
「毒か」
「その可能性が高いかと」
ローレンが答える。
「よく気づいたな」
「殿下に差し出された杯を、あの男は一度も見ていませんでした」
「それだけで?」
「いいえ。杯を持つ手が、刃を隠していた側へ不自然に傾いていました。毒を仕込んだうえで、失敗した場合には直接襲うつもりだったのでしょう」
アシュレインはわずかに笑った。
「ほう、よく見ている」
「職務ですので」
そのときだった。
「殿下、伏せて!」
ヴェルシェリアの鋭い声が響いた。
会場の柱の陰から、黒い衣服の男が飛び出した。
狙いは、アシュレイン。
その手には短剣が握られていた。
近衛兵が動くより早く、ローレンは床を蹴った。
剣が閃く。
男の短剣が弾き飛ばされ、乾いた金属音が夜会場に響いた。
だが、襲撃者は一人ではなかった。
もう一人の男が、混乱に乗じてヴェルシェリアへと迫っていた。
彼女は逃げなかった。
肩にかけていたストールを投げつけ、男の視界を遮る。
ほんの一瞬、男の足が止まる。
ヴェルシェリアはその隙に身を翻し、壁際へと退く。
しかし、男はすぐさま態勢を立て直し、彼女へ刃を向けた。
「ヴェルシェリア様!」
誰かの叫びと同時に、刃が振り下ろされる。
その刃がヴェルシェリアへ届くことはなかった。
ローレンが、男と彼女の間へ割り込んだからだ。
剣が刃を受け止め、火花が散った。
ローレンは一歩も退かなかった。
「……貴様」
男が歯を剥く。
「邪魔をするな!」
「断る」
ローレンは短く答えた。
男が力任せに刃を押し込む。
ローレンはそれを受け流し、相手の懐へ踏み込んだ。
柄で顎を打ち、体勢を崩す。
そして、次の瞬間には男の腕を捻り上げ、床へ叩き伏せていた。
剣先が、男の首筋へ触れる。
「終わりだ」
ローレンの声には、何の感情もなかった。
ただ、そこにあるのは確実な殺意だけだった。
◇
夜会場は騒然としていた。
近衛兵たちが襲撃者を取り囲み、貴族たちは別室へ誘導されている。
アシュレインとヴェルシェリアは、警備の者たちに囲まれながらも、互いに傷がないことを確かめていた。
「怪我は?」
アシュレインが尋ねる。
「ございませんわ。殿下は?」
「私も問題ない」
その言葉を聞いて、ヴェルシェリアは微かに目を伏せた。
ほんの一瞬だけ、公の場では決して見せない、安堵の色が赤い瞳をよぎる。
「……よかった」
それは、誰にも聞こえないほど小さな声だった。
アシュレインは彼女を見つめ、そっと手を差し出した。
ヴェルシェリアは、その手に自分の指先を重ねる。
周囲から見れば、危機を乗り越えた婚約者同士の仕草にすぎない。
だが、その手に込められた意味を、2人は知っていた。
お前が無事でよかった。
お前を失わずに済んだ。
その二つの想いだけは、どれほど取り繕っても隠しきれない。
「殿下」
ローレンが戻ってきた。
礼装の袖には、わずかに血が滲んでいた。
「襲撃者は3名。給仕に扮した男が1名、直接襲撃を試みた者が2名です。全員、拘束しました」
「お前の怪我は?」
「問題ありません」
「そうか」
アシュレインは、ローレンの袖に目を向けた。
「……後で手当てを受けろ」
「必要ありません」
「命令だ」
ローレンは一瞬だけ沈黙した。
「……承知しました」
ヴェルシェリアが、わずかに眉を下げる。
「あなたは、いつもそうね」
「何がでしょうか」
「自分の傷を、問題ないの一言で片づけるところよ」
「護衛にとって、多少の負傷は想定内です」
「あなたが倒れたら、誰がわたくしたちを守るの?」
「……」
ローレンは答えなかった。
ヴェルシェリアは、彼を真っ直ぐに見つめる。
「あなたも、わたくしたちにとって大切な人なのよ。忘れないでちょうだい」
ローレンの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
けれど、彼はすぐにいつもの無表情へ戻る。
「肝に銘じます」
「本当に?」
「……可能な限り」
「ローレン」
「善処いたします」
アシュレインが、思わず小さく笑った。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに和らぐ。
しかし、それも長くは続かなかった。
「殿下。襲撃者の1人が、妙なことを申しております」
ローレンの言葉にアシュレインとヴェルシェリアは拘束された男の元へ向かった。
騎士に拘束された男の顔には殴打の痕があり、口元から血が流れている。
それでも、その瞳には不気味な笑みが浮かんでいた。
「……王太子」
男は、アシュレインを見上げた。
「お前たちは、あの方が何を望んでいるのか知らない」
その言葉に、アシュレインの表情が変わった。
ヴェルシェリアもまた、静かに男を見つめる。
「……あの方、とは?」
彼女が尋ねた。
男は答えなかった。
ただ、血に濡れた唇を歪め、笑った。
「お前たちは、何も知らない。王宮の中で何が起きているのかも……この国が、どこへ向かおうとしているのかも」
「誰の命令だ」
アシュレインの声は低かった。
「誰がお前たちを動かしている?」
男は、ゆっくりと首を振った。
「教えるものか」
その瞬間、男の肩が不自然に動いた。
袖口から、小さな刃が滑り落ちる。
男はそれを掴み、ヴェルシェリアへ向かって身を乗り出した。
近衛兵が動く。
だが、それよりも早くローレンの剣が走った。
一閃。
男の身体が、力を失って床へ崩れ落ち、刃が石床を転がった。
静寂が落ちた。
ローレンは剣を収め、倒れた男を見下ろした。
その顔には、怒りも、恐怖も、後悔もなかった。
ただ、冷たい静けさだけがあった。
「……我が主に刃を向けた」
彼は低く呟いた。
「それだけで、十分だ」
◇
夜会の後、王宮の一室。
アシュレインとヴェルシェリアは、ローレンから襲撃者たちの所持品について報告を受けていた。
「身元を示すものは?」
「ほとんどありません。偽造された通行証が数枚。王宮の使用人の制服。毒物の入った小瓶。そして、こちらです」
ローレンは、小さな黒い金属片を机へ置いた。
表面には、見慣れない紋章が刻まれている。
円環の内側に、二つの翼。
その中心には、細い剣のような意匠があった。
「これは?」
「襲撃者の一人が持っていました。所属を示すものかもしれません」
ヴェルシェリアは金属片を手に取った。
指先で裏返す。
そこには、細い文字で一文が刻まれていた。
──願いは、王の死によって成就する。
彼女の瞳が細くなる。
「……王の死?」
「王太子殿下を狙った者が、殿下の死を願っている。あるいは、王太子殿下の暗殺が、何か別の目的に繋がっているのかもしれません」
ローレンが答えた。
アシュレインは、金属片を見つめたまま黙っていた。
やがて、口元に笑みが浮かぶ。
「なるほど。私を殺すことそのものが目的ではない、ということか」
「その可能性は高いでしょうね」
ヴェルシェリアが静かに応じる。
「わたくしたちを排除したあと、誰が何を得るのか。それを考える必要がありますわ」
「そして、あの男が口にした『あの方』」
「ええ」
2人の視線が交わる。
そこにあるのは、恐怖ではなかった。
新しい獲物を見つけた者の、冷たい好奇心だった。
「ローレン」
アシュレインが呼ぶ。
「今夜の警備記録をすべて回収しろ。襲撃者たちの侵入経路、使用人名簿、通行証の発行記録。関係者を一人も逃がすな」
「承知しました」
「ただし、今回の件は表向きには公表しない。王宮の警備を見直すための一時的な措置として処理する」
「かしこまりました」
ローレンは一礼した。
扉へ向かいかけた彼を、ヴェルシェリアが呼び止める。
「ローレン」
「かしこまりました」
「……ありがとう」
彼は足を止めた。
ヴェルシェリアは、いつもの気品ある微笑みを浮かべていた。
「あなたがいてくれて、よかったわ」
ローレンはしばらく黙っていた。
それから、静かに膝を折り、頭を垂れる。
「剣は、王と王女のためにあります」
その声に、迷いはなかった。
「お二方の命を脅かす者がいる限り、私は剣を置きません」
アシュレインは彼を見つめた。
「……お前は、いつからそこまで頑固になった?」
「最初からです」
「そうだったな」
アシュレインは笑った。
ヴェルシェリアもまた、微かに口元を緩めた。
ローレンは再び一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
残された2人は、しばらく黙っていた。
やがて、ヴェルシェリアが口を開く。
「殿下。わたくしたちの敵は、思っていた以上に近くにいるようですわね」
「ああ」
アシュレインは、黒い金属片を指先で転がした。
「だが、近くにいるのなら好都合だ」
その瞳に、冷たい光が宿る。
「見つけ出し、引きずり出し、望みを聞いてやろうではないか」
「そして、その望みが王国を脅かすものであれば?」
「そのときは──」
アシュレインは微笑んだ。
「私が、裁く」
ヴェルシェリアは、その横顔を見つめた。
彼女が愛した男。
誰よりも美しく、誰よりも冷酷な王となる男。
その隣に立つことを、彼女は一度たりとも後悔したことがない。
「……ええ。わたくしも、お手伝いいたしますわ」
2人の手が、机の下でそっと重なる。
公の場では、決して許されないほど深い愛情。
けれど、その愛情こそが、2人を怪物たらしめる理由の一つだった。
王宮の夜は、まだ終わらない。
暗殺者が残した言葉。
謎の紋章。
そして、王宮の奥に潜む「あの方」。
黒百合は、まだ知らない。
この暗殺未遂事件が、やがて王国そのものを揺るがす大きな陰謀へと繋がっていくことを。
ただ一つ確かなのは。
王と王女に刃を向ける者がいる限り、彼らを守る剣は、決して折れないということだった。




