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毒を啜るなら黒百合(ダークリリィ)と共に  作者: 3色あんこ


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第4話 商人は真実を売らない



 商人にとって、情報とは金になる商品である。


 誰が何を欲しがり、誰が誰を憎み、どの国がいつ戦を始めるのか。

 酒場で交わされる噂話から、王宮の奥深くで交わされる密約まで。金になるのなら、どんな情報にも値段がつく。

 少なくとも、世間はそう信じていた。


「いやあ、これは困りましたねえ」


 北方交易都市の一角。

 色とりどりの商品が並ぶ商館の奥で、ソクラド・エリトゥーザは困ったように眉を下げていた。

 ピーコックブルーの髪を揺らし、シャルトルーズグリーンの瞳を細める。その口元には、人好きのする柔らかな笑みが浮かんでいる。

 目の前に座る男は、そんなソクラドの表情を見て満足げに頷いた。


「貴殿ほどの商人なら、こちらの事情も理解できるだろう。少々、融通を利かせてほしいのだ」

「ええ、ええ。もちろんでございますとも。商人は信用が第一ですからねえ」

「話が早くて助かる」

「ただし、信用を維持するにも費用がかかりまして」

「……何?」

「こちらの品物をお譲りするのでしたら、当然ながら相応の対価をいただきませんと。ああ、ご心配なく。お客様のお名前に傷がつかないよう、特別にお安くしておきますよ」


 ソクラドは、にこにこと笑いながら帳簿を差し出した。

 そこに記された金額を見た男の頬が引きつる。


「馬鹿な。これは相場の3倍ではないか!」

「おや、そうでしたか?」

「ふざけるな!」

「いやあ、申し訳ありません。最近は北方の情勢が不安定なものでして。輸送費も、護衛費も、保険料も、軒並み値上がりしているのですよ」


 ソクラドは両手を合わせ、心にもない謝罪を口にした。


「それに、危険な取引ほど高くなる。商人の世界では常識でございます」


 男はしばらく彼を睨みつけていたが、やがて乱暴に金貨の袋を机へ置いた。


「……次はないぞ」

「ええ、ええ。毎度ありがとうございます!」


 男が商館を出ていくと、ソクラドは笑顔のまま扉を閉めた。

 そして、机に積まれた金貨を見下ろす。


「3倍でも安いくらいなんですがねえ」


 彼は懐から小さな紙片を取り出した。

 そこには、たった一行の報告が記されていた。


──ニグルム侯爵の使者、今夜、東門より出立。行き先は隣国の国境都市。


 ソクラドのシャルトルーズグリーンの瞳から、先ほどまでの愛想のよさがすっと消えた。


「さてと、そろそろ本題に入りましょうか」


 彼は紙片をマッチにかけた。

 燃え上がった炎が、文字を黒い灰へと変えていく。


 商人は金を稼ぐ。

 情報を集め、商品を売り、利益を積み上げる。

 けれど、彼が本当に値踏みしているものは、金貨の数だけではなかった。


 誰が情報を欲しがっているのか。

 誰が情報を流しているのか。

 そして、その情報によって誰が得をするのか。

 その三つを見誤れば、どれほど金を積んだところで、商人は生き残れない。



◇


 ニグルム侯爵の領地は、王都から馬車で数日ほど北上した場所にある。


 雪深い山々に囲まれたその土地は、隣国との交易路を押さえる重要な要衝だった。

 王国の北方軍が駐屯する砦も近く、軍需物資の輸送には欠かせない地域である。

 その地で、ソクラドは長年にわたり商売を続けていた。


 香辛料、織物、薬草、宝石。


 扱う商品は多岐にわたり、彼の商隊は王国だけでなく、隣国の都市にも出入りしている。

 その商売の広さこそ、彼の最大の武器だった。


「ソクラドさん、例の荷物が届きましたよ」

「おや、早かったですねえ」


 商館の裏口から入ってきた若い男が、小さな木箱を差し出した。

 ソクラドは蓋を開け、中身を確認する。

 中に入っていたのは、上等な葡萄酒の瓶が2本。それから、商人なら誰でも持っていそうな、ごくありふれた納品書だった。

 しかし、ソクラドの目は納品書の隅に押された印章を見逃さなかった。


「……なるほど」

「何か分かったんですか?」

「ええ。葡萄酒は偽物ですねえ」

「は?」

「この印章、王都の軍務局が使っているものですよ。酒瓶の納品書に押されるはずがないでしょう?」


 若い男が目を丸くする。

 ソクラドは葡萄酒の瓶を持ち上げ、光に透かした。


「中身は普通の葡萄酒。瓶も普通。けれど、納品書に記されている輸送番号は、北方軍の補給物資に割り当てられたものです」

「それって……」

「ええ。軍の物資が、別の名目で運び出されているのでしょうねえ」


 彼は納品書を裏返した。

 裏面には、ごく小さな文字で別の番号が記されていた。

 その番号を帳簿と照合すると、ある事実が浮かび上がる。

 北方軍へ送られるはずだった食糧と武器の一部が、帳簿上では受領済みになっている。


 だが、実際には砦へ届いていない。

 消えた物資の行き先は、ニグルム侯爵領内にある私設倉庫。

 そして、その倉庫から運び出された荷は、国境を越えて隣国へ渡っていた。


「侯爵は軍の物資を横流ししていた、ということですか?」

「それだけなら、まだ単純な話なのですがねえ」


 ソクラドは納品書を机へ置いた。


「問題は、どうして隣国が軍の物資を受け取っているのか、ということです」


 隣国が購入していたのは、食糧や武器だけではなかった。

 北方軍の兵員配置。

 砦の警備交代時刻。

 巡回路の変更予定。

 そして、王宮で検討されていた国境警備の再編計画。


 それらはすべて、本来なら外部へ漏れてはならない情報である。

 ニグルム侯爵が軍務に関する機密を手に入れている。

 それだけでも問題だ。

 だが、彼が情報を得るためには、王国の内側に協力者がいなければならない。


「さてさて。侯爵閣下は、どちらから情報を仕入れていらっしゃるのでしょうねえ」


 ソクラドは頬杖をついた。

 いつもの笑みは消えていない。

 ただ、その目だけが冷静に事実を拾い上げていた。



◇


 その夜。

 ソクラドは、国境に近い交易都市の酒場を訪れていた。


 商人、傭兵、旅人、兵士。


 さまざまな人間が集う酒場は、情報を集めるにはうってつけの場所である。


「おやおや、皆さん。今夜はずいぶんと景気がよろしいようで」


 ソクラドが酒樽を一つ差し入れると、男たちの顔がぱっと明るくなった。


「おお、エリトゥーザさん!さすがは太っ腹だな!」

「いやいや、私の懐はいつだって北風が吹いておりますよ。皆さんが気前よく買い物をしてくだされば、春も来るというものです」


 軽口を叩きながら、彼は空いている席へ腰を下ろす。

 誰かが笑い、誰かが杯を掲げる。

 その輪の中へ自然に溶け込みながら、ソクラドは人々の話に耳を傾けていた。


 北方軍の兵士は、配給が減っていると嘆いていた。

 荷運び人は、最近になって軍の倉庫から夜中に荷車が出入りするようになったと話した。

 傭兵は、隣国の国境都市で妙な金回りの男を見かけたと証言した。


 そして、最後に。


「そういや、先週、妙な客が来ていたな」


 酔った男が、思い出したように口を開いた。


「妙な客?」

「王都から来た貴族だよ。名前は知らねえが、護衛がやたらと立派でな。ニグルム侯爵の使いと、奥の個室で話していた」

「ほう。それは興味深いですねえ」

「しかも、その貴族様、帰り際に落とし物をしていったんだ」


 男は懐から小さな金属片を取り出した。


「拾ったのは俺じゃないが、知り合いから譲ってもらってな。ほら、貴族の持ち物ってのは高く売れるだろ?」

「なるほど。商人としては見逃せないお話です」


 ソクラドは金貨を一枚、男の前に滑らせた。

 男は目を輝かせる。


「おお、話が分かるじゃねえか!」

「ええ。ただし、こちらも商売ですからね。もし偽物だったら返金していただきますよ?」

「ははっ、抜かせ!」


 ソクラドは金属片を手に取った。

 それは、装飾の施された小さな留め具だった。

 表面には王家の紋章。

 裏面には、軍務局の高官にのみ与えられる識別刻印が刻まれている。


 ソクラドは一瞬だけ目を細めた。

 王家の紋章を持つ者が、軍務局の機密に触れられる立場にいる。

 そして、ニグルム侯爵と密会していた。

 これは偶然ではない。


「……いやはや」


 彼は留め具を懐へしまい、再び柔らかな笑みを浮かべた。


「ずいぶんと高価な落とし物を拾われたものですねえ」



◇


 翌朝。

 ソクラドは宿の一室で、複数の帳簿と報告書を並べていた。


 商人仲間から集めた証言。

 荷馬車の移動記録。

 隣国の商館に残された取引記録。

 そして、王家の紋章が刻まれた留め具。


 それらを一つずつ照らし合わせていく。

 やがて、彼の指が一枚の書類の上で止まった。

 そこに記されていたのは、軍務局の物資輸送を監督する高官の名前だった。


──グラディウス公爵。


 王国軍務卿。王宮において軍の編成と補給を統括し、国境警備の再編計画にも関与する人物。


 ニグルム侯爵が軍の情報を得られる理由。

 隣国へ物資が流れていた理由。

 そして、王宮でしか知られていないはずの情報が漏れていた理由。

 すべてが、一本の線でつながった。


「……これは、困りましたねえ」


 ソクラドは椅子の背にもたれた。

 侯爵一人を処罰するだけなら、証拠を揃えて王宮へ届ければ済む。


 だが、相手が軍務卿となれば話は別だ。

 王国の軍事機密に触れられる立場にあり、北方軍の物資輸送を動かせる人物。

 その者が隣国と通じているのなら、単なる横領事件では終わらない。

 王国そのものを揺るがす大問題だ。


 そして、何より。

 この情報が正しいと証明するためには、グラディウス公爵とニグルム侯爵の双方を結びつける、決定的な証拠が必要だった。


「さてさて……どうしましょうかねえ」


 ソクラドは金貨を一枚、指先で弾いた。

 軽い音が部屋に響く。

 金貨はくるくると回り、やがて机の上に倒れた。


「……やっぱり、金だけでは買えないものもあるようで」


 彼は立ち上がり、窓の外を眺めた。

 北方の空は重たい雲に覆われている。

 このまま放置すれば、いずれ兵士たちが犠牲になる。

 国境の砦が襲われるかもしれない。

 その結果、罪のない民が巻き込まれることだってあるだろう。


 ソクラドは商人だ。

 世界を救いたいなどという大それた理想は持ち合わせていない。

 儲かる商売が好きだ。

 美味しい食事が好きだ。

 珍しい品物を見ると、つい仕入れたくなる。

 そして、自分が苦労して築き上げた商売を、勝手な権力争いで台無しにされるのは大嫌いだった。


「まったく。お偉い方々は、どうしてこうも商売の邪魔がお上手なんでしょうねえ」


 ぼやきながらも、彼の手はすでに動いていた。

 証拠を複製し、原本を別々の場所へ保管する。

 商隊の行き先を変更し、信頼できる者にだけ暗号化した伝言を託す。

 もし自分が捕らえられても、すべての証拠が一度に失われないように。

 そして最後に、彼は小さな封筒を取り出した。


 宛名は、王太子アシュレイン・ボルシギアナ。


 封蝋には、黒百合の紋章。


「我が王。どうやら、ずいぶんと高価な商品が見つかりましたよ」


 ソクラドは封筒を閉じた。


「ただし、今回ばかりはお代をいただくわけにはまいりません」



◇


 数日後。

 王宮の地下にある、黒百合の秘密の会合場所。

 ソクラドは、いつもの調子で一礼した。


「お待たせいたしました。いやあ、北方は寒いですねえ。おかげで懐まで冷え切ってしまいました」

「あなたの場合、懐が冷えるのは無駄遣いのせいではなくて?」


 ヴェルシェリアが静かに尋ねる。


「これは手厳しい。王女、商人にも付き合いというものがございまして」

「その付き合いで、酒場に酒樽を3つも差し入れたと聞いたわ」

「……情報が早いですねえ」

「あなたが買い与えた酒の銘柄まで報告に上がっているわよ」

「おや。次からはもっと安い酒にいたしましょう」

「そこは改めるべきところではないと思うのだけれど」


 ヴェルシェリアの呆れた視線にも、ソクラドは涼しい顔で笑っていた。

 そのやり取りを眺めていたアシュレインが、机の上へ指を置く。


「報告を聞こう」

「かしこまりました」


 ソクラドの表情が変わった。

 笑みはそのまま。

 けれど、声から余計な軽さが消える。


「ニグルム侯爵は、北方軍の補給物資を横流ししております。隣国との取引記録も複数確認しました。さらに、軍の配置や警備交代時刻などの機密情報を渡していた形跡もございます」

「証拠は?」


 アシュレインの問いに、ソクラドは複数の書類を差し出した。


「こちらが輸送記録。こちらが取引帳簿。そして、こちらが隣国の商館から入手した記録でございます」


 アシュレインは一枚ずつ目を通した。

 ヴェルシェリアも隣から書類を確認し、ある箇所で指を止める。


「……この輸送番号。王宮の軍務局で管理されているものね」

「はい。侯爵だけでは入手できません」

「つまり、王宮の内側に協力者がいる」

「その通りでございます」


 ソクラドは、最後の書類を机に置いた。

 そこには、軍務卿グラディウス公爵の名が記されていた。

 地下室の空気が、わずかに張り詰める。

 グロリアが眉をひそめ、ローレンは無言のまま書類へ視線を落とした。

 リンドウェルは静かに祈るように目を伏せる。


「軍務卿……ですか」


 ヴェルシェリアの声は、いつもと変わらなかった。

 だが、赤い瞳の奥には冷たい光が宿っていた。


「王国の軍を預かる者が、隣国へ情報を流していたというのね」

「現時点では、侯爵との密約を裏づける証拠が揃いつつある段階でございます。ただし、軍務卿本人がどこまで関与しているのかは、まだ断定できません」


 ソクラドは慎重に言葉を選んだ。


「私が売るのは、確認できた情報だけです。推測まで商品に混ぜては、商人の信用に関わりますので」

「珍しく真面目なことを言うのね」

「私はいつだって真面目ですよ王女。金勘定に関しては特に」


 軽口を挟みながらも、ソクラドは一枚の小さな金属片を差し出した。

 王家の紋章が刻まれた留め具。

 その裏面には、軍務局の高官を示す識別刻印がある。


「こちらは、侯爵の使者と密会していた貴族が落としたものです。刻印から見て、軍務卿に近い人物の持ち物と考えられます」


 アシュレインは留め具を手に取り、裏面を確かめた。

 それから、ゆっくりと目を細める。


「……そうか」


 その声に怒りはなかった。

 ただ、獲物の姿を見定めた捕食者のような静けさがあった。


「ニグルム侯爵を切り捨てれば済むと思っていたが、どうやら根は深いらしい」

「ええ。侯爵は誰かの指示を受けて動いている可能性がございます」


 ソクラドは微笑んだ。


「そして、その誰かは、王国の軍事機密を自由に扱える立場にいる」


 ヴェルシェリアは書類を閉じた。


「ならば、侯爵を追い詰めるだけでは足りないわね。軍務卿が何を知り、誰と通じているのか。そこまで明らかにする必要がある」

「調査は続けましょう。ただし、軍務卿が相手となれば、こちらの動きにも気づかれる可能性がございます」


 ソクラドは肩をすくめた。


「商人としては、もう少し安全で儲かる仕事が好みなのですがねえ」

「降りるつもりか?」


 グロリアの問いに、ソクラドは目を丸くした。


「まさか。せっかくここまで調べたのですよ?途中で手を引いて、情報を横取りされでもしたら大損です」


 彼はにっこりと笑う。


「それに、仲間が困っているのに、知らぬ顔をして商売を続けるほど薄情ではございませんので」


 一瞬、誰も言葉を発さなかった。

 ソクラドはすぐに、いつもの調子で付け加える。


「もちろん、経費は別途請求させていただきますが」

「……あなたらしいですわね」


 ヴェルシェリアが小さく息をついた。

 その表情には、ほんのわずかな安堵が浮かんでいた。

 アシュレインは留め具を机へ置く。


「商人、引き続き、ニグルム侯爵と軍務卿の繋がりを調べろ。騎士は北方軍の状況を確認。剣は王宮内の警備を強化しろ。司祭は教会を通じて、北方の民と兵士の状況を探ってくれ」

「承知した」

「かしこまりました」


 それぞれが応じる。

 会合が終わり、仲間たちが部屋を出ていく中、ソクラドだけが一歩遅れて足を止めた。


「我が王」

「何だ」

「ひとつだけ、申し上げておきたいことがございます」


 ソクラドは笑っていなかった。


「今回、私のところへ情報を持ち込んできた者たちの中に、ニグルム侯爵の悪事を知りながら、口を閉ざしていた者が何人もおりました」

「脅されていたのか?」

「それもあるでしょう。ですが、全員がそうとは限りません。中には、侯爵が失脚すれば自分たちが利益を得られると考え、あえて見て見ぬふりをしていた者もいるようです」


 アシュレインは黙って続きを促した。


「人は、悪事を働く者だけで世の中を腐らせるわけではございません。悪事を知りながら、得になるからと黙っている者もいる」


 ソクラドは、懐からもう一枚の書類を取り出した。


「ですから、侯爵を処罰して終わりにしてはいけません。彼が何をしたのかだけでなく、誰がそれを許していたのか。そこまで暴かなければ、同じことが繰り返されます」


 アシュレインは書類を受け取った。

 そして、静かに笑った。


「よく分かっているではないか」


「商人ですからねえ。損失の原因を取り除かずに商売を続けるほど、愚かではございません」

「ならば、最後まで見届けろ。お前が拾い上げた真実の価値を、私が決めてやる」

「おやおや。それは高く買い取っていただけそうですねえ」


 ソクラドは深々と一礼した。


「王よ、どうぞ、ご期待くださいませ」



◇


 その夜。

 ソクラドは王宮を出る前に、地下回廊の隅で足を止めた。

 懐から取り出したのは、小さな革張りの手帳だった。

 そこには、これまでに集めた情報が細かく書き込まれている。


 取引先の名前。

 各地の商館の所在地。

 密約に関わった者たちの記録。

 そして、一番最後の頁には、黒百合の七席の名が並んでいた。


 王。

 王女。

 剣。

 少女。

 商人。

 騎士。

 司祭。


 ソクラドは、その頁をしばらく眺めていた。

 やがて、指先で手帳の端を軽く叩く。


「……さて。どこまで隠し通せますかねえ」


 彼は手帳を閉じた。

 商人は情報を売る。

 真実を売り、嘘を売り、時には人の欲望さえ商品にする。

 だが、どれほど金を積まれても、決して売らないものがある。

 それは、彼自身が選んだ仲間の名だった。

 黒百合の誰かを売れば、もっと大きな利益を得られるかもしれない。

 命の危険から逃れられるかもしれない。


 けれど、それだけはしない。

 なぜなら、彼らはソクラドにとって、単なる取引相手ではないのだから。


「真実には値段がつきます。けれど、仲間を売る値段だけは……どこにもございませんよ」


 誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。

 その顔には、いつもの人懐こい笑みが戻っていた。


 そして翌朝。

 北方の交易都市に、一通の手紙が届く。

 差出人の名はなく、封蝋に刻まれていたのは、黒百合ではなく──王家の紋章だった。


 手紙の中には、短い一文だけが記されていた。


──商人殿。あなたが探している真実は、王宮の中にある。


 ソクラドは手紙を読み終えると、ゆっくりと目を細めた。


「……おやおや」


 笑みが深まる。


「これはまた、随分と面白い商談になりそうですねえ」


 北方の風が、窓の隙間から吹き込んだ。

 黒百合が追うべき敵は、もはや一人の侯爵ではない。

 王宮の奥深くに潜む、見えざる手。

 その手が誰のものであるのか、ソクラドはまだ知らない。


 ただ一つ確かなことがある。

 彼が手に入れた真実は、これから王国の闇を暴くための、最初の一枚にすぎなかった。

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