第6話 騎士が捨てた誓い
忠誠とは、何だろうか。
上官の命令に従うことか。
王に剣を捧げることか。
それとも、国のために命を差し出すことか。
かつてのグロリア・ユリグルは、そのすべてを正しいと信じていた。
だからこそ、彼女は騎士になった。
正義を掲げ、弱き者を守り、王国のために戦う。
その誓いに、嘘など一つもなかった。
──あの日までは。
◇
「第三部隊の物資が、また不足している?」
北方軍の駐屯地。
軍服姿のグロリアは、補給担当官が差し出した帳簿を覗き込んだ。
燃えるような赤髪を後ろで束ね、黄金色の瞳を細める。
「おかしいだろ。帳簿には十分な量が届いたことになってるじゃないか」
「ユリグル卿。軍の物資管理に口を挟むのは、あなたの役目ではありません」
「でも、兵士たちには食料が足りてないんだろ?」
「現場の管理不足でしょう。規則に従って配給は行われています」
「規則、規則って……!」
グロリアは思わず声を荒らげた。
担当官は不快そうに眉をひそめる。
「軍人たるもの、上の決定に従うべきです。あなたも騎士なら、その程度は理解しているでしょう」
その言葉に、グロリアは口を閉ざした。
かつてなら、彼女も同じことを言っていたかもしれない。
規則は国を守るためにある。
命令は秩序を保つためにある。
そう信じていたからだ。
だが、目の前の男が守ろうとしているものは、国でも兵士でもなかった。
自分の立場だ。
「……分かったよ」
グロリアは帳簿を返した。
「今日は引き下がる」
「賢明な判断です」
担当官は満足げに頷いた。
グロリアは背を向け、執務室を出る。
廊下を歩く彼女の拳は、強く握り締められていた。
今日は、引き下がる。
けれど、見なかったことにはしない。
彼女はもう、正義という言葉だけで誰かを信じるほど愚かではなかった。
◇
日が暮れた後。
グロリアは軍の倉庫へ向かった。
昼間に見た帳簿と、実際に保管されている物資の数を照合するためだ。
正規の手続きを踏めば、確認の許可が下りるまで何日もかかる。
その間にも、物資はどこかへ運び出されるかもしれない。
ならば、自分の目で確かめるしかなかった。
倉庫の裏手には、荷馬車の轍がいくつも残っていた。
夜間に使用される搬出口。
帳簿には記載されていない運搬記録。
そして、積み荷を運び出した者たちの足跡。
「……やっぱりな」
グロリアは荷箱の隙間から、封印の剥がされた軍用物資を見つけた。
箱の側面には、北方軍へ納入されたことを示す刻印がある。
しかし、中身は空だった。
その代わり、箱の底には小さな紙片が挟まっていた。
荷物の送り先と、輸送日時。
そして、軍の人間しか知り得ないはずの管理番号。
グロリアは紙片を懐へしまった。
これで、少なくとも物資が帳簿どおりに管理されていないことは証明できる。
だが、その瞬間。
「誰だ!」
背後から声が飛んだ。
振り返ると、武装した男たちが倉庫の出入口を塞いでいた。
「軍の施設に何の用だ、女」
「用ならあるさ。ここで何が行われてるのか、教えてもらおうと思ってね」
「余計な詮索をするな」
「それは、やましいことがあるって意味かい?」
男の顔が歪んだ。
「口の利き方に気をつけろ!」
次の瞬間、男が剣を抜いた。
グロリアも腰の剣へ手を伸ばす。
刃がぶつかり、火花が散った。
1人目の攻撃を弾き返し、2人目の腹へ柄を叩き込む。3人目が背後から迫れば、身を翻してその腕を捻り上げた。
戦いは長く続かなかった。
けれど、相手の数は多かった。
グロリアの腕に刃がかすめ、軍服の袖が裂ける。
彼女は気づかない。
肩を打たれても、足を切られても、動きは鈍らなかった。
痛みが、ほとんど伝わってこないのだ。
それは彼女が生まれつき持っている特異体質だった。
普通の人間なら痛みに怯み、傷を負えば動きを止める。
だが、グロリアは違う。
身体がどれほど傷ついていても、痛みが警告を発してくれない。
そのため、彼女は自分の負傷に気づくのが遅い。
時には、立っていられなくなるまで傷を負っていたことさえあった。
「この女……!なぜ倒れない!」
「さあね!」
グロリアは笑い、男の剣を弾き飛ばした。
「そっちが弱いんじゃないかい?」
最後の一人が逃げ出そうとする。
彼女はその背中を追い、剣を突きつけた。
「待ちな。聞きたいことがある」
「ひっ……!」
「誰の命令で物資を運び出してる?」
「し、知らない!俺たちは命令されたとおりに動いただけだ!」
その言葉に、グロリアの表情が消えた。
「……命令されたとおりに、か」
それは、聞き覚えのある言葉だった。
何度も聞いてきた。
何度も、自分自身に言い聞かせてきた。
そして、その言葉のせいで、彼女は一度、守るべき人々を見捨てたのだ。
◇
かつてのグロリアは、王国騎士団に所属していた。
正義を重んじ、規律を守り、誰よりも真っ直ぐに剣を振るう騎士。
痛覚が鈍いことは、戦場では利点になると考えられていた。
多少の傷では怯まず、恐れず、前へ進める。
上官たちは彼女の体質を称賛し、グロリア自身もそれを誇りに思っていた。
自分は、誰よりも多くの人を守れる。
そう信じていた。
ある日、彼女は辺境の村で起きた暴動の鎮圧を命じられた。
報告書には、反乱分子が武器を持って抵抗していると記されていた。
しかし、現地で彼女が見たのは、痩せ細った人々と、空になった穀物庫だった。
彼らは税を納め、兵士たちへ食料を送り続けていた。
それなのに、村には食べるものがない。
子どもたちは泣き、老人たちは地面に座り込み、若者たちは怒りと絶望を抱えていた。
彼らが求めていたのは、反乱ではなかった。
奪われた食料を返してほしい。
これ以上、家族を飢えさせたくない。
ただ、それだけだった。
「隊長。これは……」
「黙れ、ユリグル」
上官は彼女の言葉を遮った。
「命令は鎮圧だ。民の事情に同情する必要はない」
「ですが、彼らは武器を持っていません!」
「抵抗の意思がある。それだけで十分だ」
上官は冷たく告げた。
「我々は王国の秩序を守る騎士だ。個人の感情で命令を曲げるな」
グロリアは剣の柄を握り締めた。
それでも、剣を抜かなかった。
命令に背けば、騎士団の秩序が乱れる。
自分が勝手な判断をすれば、仲間たちまで処罰されるかもしれない。
彼女はそう考えた。
だから、従った。
村人たちを追い立て、抵抗する者を拘束し、泣き叫ぶ子どもたちから目を逸らした。
その日の夜。
グロリアは、焼け落ちた家の前で立ち尽くしていた。
自分の剣は、誰を守ったのだろう。
王国の秩序か。
上官の地位か。
それとも、何も知らないまま命令に従った自分自身か。
答えは、分かっていた。
彼女は守るべき人々を守らなかった。
正義を掲げながら、正義を必要としていた人々を見捨てたのだ。
数日後、彼女は軍の物資が横領されていた証拠を掴んだ。
村へ送られるはずだった食料も、兵士たちの給与も、上層部の人間によって奪われていた。
そして、村人たちの訴えは、最初から握り潰されていた。
すべてを知ったグロリアは、上官に報告した。
返ってきたのは、感謝でも調査の約束でもなかった。
「余計なことをするな。これは軍の問題だ」
「ですが、民が犠牲になっています!」
「国を守るためには、多少の犠牲も必要だ」
上官は、まるで当然のことのように言った。
「軍人ならば、己の役目を果たせ」
その瞬間、グロリアの中で何かが折れた。
国を守るため。
秩序を保つため。
正義のため。
その言葉は、どれほどの罪を覆い隠せば気が済むのだろう。
「……あたしは」
彼女は、ゆっくりと剣を外した。
「もう、あんたたちの騎士じゃない」
それは、騎士としての誓いを捨てた瞬間だった。
けれど、守ることそのものを諦めたわけではなかった。
ただ、命令に従うだけの自分では、誰も守れないと知ったのだ。
◇
「……おい。聞いてるのか?」
倉庫で捕らえた男の声に、グロリアは我に返った。
男は床に膝をつき、怯えた目で彼女を見上げている。
「お、俺たちは上から言われたとおりにしただけだ! 責任は上の連中にある!」
グロリアはしばらく男を見つめていた。
そして、剣を下ろす。
「そうかい」
「ほ、本当だ!俺たちは……!」
「なら、その上の連中の名前を教えな」
彼女は男の襟首を掴んだ。
「命令されたからって理由で、罪が消えるわけじゃない。あんたたちが何をしたのか、全部話してもらうよ」
男の顔が青ざめる。
グロリアは倉庫の中を見回した。
空になった物資箱。
不正に使われた輸送記録。
兵士たちに届かなかった食料。
ここにも、かつての村と同じ現実があった。
そして、同じ言い訳があった。
命令されたから。
規則だから。
仕方がなかったから。
「……ふざけるんじゃないよ」
その声は、怒りに震えていた。
「仕方がなかったで済ませていいのは、被害を受けた側じゃない。あんたたちが勝手に奪ったものを、苦しんでる連中が我慢しなきゃならない理由なんてないだろ!」
男は、何も言い返せなかった。
グロリアは証拠を集め、捕らえた者たちを拘束した。
そして、王都へ戻ると、黒百合へ報告を送った。
◇
数日後。
王宮地下の秘密の会合場所。
グロリアは机の上に書類を広げていた。
「北方軍の補給物資が、帳簿上の数量と一致していない。倉庫から運び出された荷の一部は、ヴァルク侯爵の私設倉庫へ送られていたよ」
ソクラドが眉を上げる。
「おや。私の調査とも一致していますねえ」
「それだけじゃない。輸送記録には、軍務局の管理番号が使われていた。軍の上層部が関与している可能性は高い」
アシュレインは書類に目を通した。
「よく調べたな」
「まだ全部じゃないさ。けど、これだけあれば、少なくとも現場の兵士たちが勝手に物資を失ったわけじゃないと証明できる」
グロリアは拳を机に置いた。
「兵士たちも被害者だ。食料を奪われ、装備を減らされ、それでも国境を守れって言われてる。上にいる連中は、安全な場所で椅子に座ってるくせにね」
ヴェルシェリアは、彼女の言葉を静かに聞いていた。
「騎士。あなたは、どうしたいの?」
「決まってるだろ」
彼女は即座に答えた。
「不正に関わった連中を引きずり出す。奪われた物資を取り戻す。そして、同じことが二度と起きないようにする」
「それは、黒百合の命令だから?」
グロリアは一瞬、目を見開いた。
やがて、力強く笑った。
「違うね」
彼女は自分の胸を指で叩いた。
「あたしが、そうしたいからだ」
ヴェルシェリアの赤い瞳が、わずかに和らいだ。
「……そう。ならば、あなたに任せるわ」
「任せときな!」
グロリアは、いつもの豪快な笑みを浮かべた。
その瞬間、彼女の袖から血が滴り落ちた。
床に小さな赤い染みが広がる。
「……騎士様?」
リンドウェルが立ち上がった。
「あなた、怪我をしていますよ」
「ん?ああ、昨日の戦いでちょっとね」
「ちょっと、という量ではありません」
彼は彼女の腕を取り、袖を捲った。
そこには、深く裂けた傷があった。
グロリア自身は、ようやく自分の腕を見下ろした。
「あれ。こんなに切れてたのか」
「……まったく」
ヴェルシェリアの声が低くなる。
「あなた、まさか気づいていなかったの?」
「いやあ、痛くなかったからさ!」
「笑い事ではありません」
珍しく厳しい声だった。
リンドウェルは傷口を確かめながら、静かに告げる。
「あなたは痛みを感じにくい。だからといって、傷が軽くなるわけではありませんよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「……分かってる、つもり」
グロリアは気まずそうに頬を掻いた。
その様子に、ローレンが小さく息をつく。
「護衛対象を守る者が、自分の状態を把握していないのは問題だ」
「うっ。剣に言われると説得力があるねえ」
「冗談ではない」
「はいはい、分かったよ。次からは気をつける」
「次から、ではなく今からです」
リンドウェルは有無を言わせず彼女を椅子へ座らせた。
「手当てが終わるまで動いてはいけません」
「……はーい」
グロリアは珍しく素直に返事をした。
その光景を眺めていたアシュレインが、ふと口を開く。
「お前は騎士団所属だったな」
「……ああ。昔の話だけどね」
「なぜ、黒百合に加わった?」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、金色の瞳を上げる。
「正義を掲げる連中が、守るべき人間を踏みつけてたからさ」
声には、もう怒りだけではなく、深い悔恨が滲んでいた。
「昔のあたしは、命令に従うことが正しいと思ってた。規則を守れば、国は正しく動くって信じてた。でも、違ったんだよ」
彼女は、包帯を巻かれていく自分の腕を見つめた。
「規則を利用して悪事を働く奴もいる。正義を掲げて、罪のない人間を犠牲にする奴もいる。そういう連中に従うことが忠誠なら……あたしは、そんな忠誠はいらない」
彼女は顔を上げた。
「だから、自分で選ぶことにしたんだ。誰を守るのか。何のために剣を振るうのか」
アシュレインは、静かに彼女を見つめていた。
やがて、口元に微かな笑みを浮かべる。
「ならば、お前の剣は誰のためにある?」
グロリアは迷わなかった。
「守るべき者のために」
そして、少しだけ照れくさそうに笑う。
「今は、あんたたちと……あんたたちが守ろうとしてる連中のためにね」
ヴェルシェリアは目を細めた。
「あなたらしい答えね」
「そうかい?」
「ええ。だからこそ、あなたを騎士の席に迎えたのよ」
グロリアは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
騎士の誓いを捨てた自分が、再び「騎士」と呼ばれている。
かつての自分なら、その矛盾に苦しんだかもしれない。
けれど、今は違う。
彼女はもう、過去の肩書きに縛られてはいなかった。
自分が何者であるかは、自分の行動で決める。それでいいのだ。
◇
会合の後。
グロリアは一人、王宮の庭園に立っていた。
夜風が赤い髪を揺らす。
彼女は包帯の巻かれた腕を見下ろし、ゆっくりと拳を握った。
痛みは、ほとんどない。
それは彼女の弱点であり、時には武器にもなる。
だからこそ、彼女は自分の身体を過信してはならない。
守るために戦うのなら、自分自身も守らなければならない。
「……まったく。リンドウェルには敵わないねえ」
彼女は苦笑した。
そして、空を見上げる。
かつて捨てた誓いは、もう戻らない。
けれど、剣を振るう理由まで失ったわけではなかった。
正義を掲げる者が、必ずしも正しいとは限らない。
忠誠を誓う者が、必ずしも誰かを守れるとは限らない。
だからこそ、グロリアは自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の意志で剣を振るう。
命令だからではない。
規則だからでもない。
守りたいと願ったから。
彼女が選んだ道だから。
「……今度こそ、間違えないさ」
グロリアは腰の剣に手を添えた。
その剣に、かつての騎士団の紋章はない。
代わりに、小さな黒百合の意匠が刻まれていた。
騎士が捨てたのは、忠誠ではない。
誰かに与えられた正義を、疑いもせず信じる自分自身だった。
そして彼女は今、自分の意志で誓い直す。
守るべき者を守り抜く。
たとえ、そのために王国の闇へ剣を向けることになろうとも。
黒百合の騎士は、もう二度と、命令を理由に目を逸らさない。




