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十年前の君へ地獄を贈る

スマホの画面をいくら見つめても、葵からの返信はない。「夢を諦めろ」と叫んでしまった自分の声が、呪いのように耳の奥でリフレインしている。


静まり返った部屋の空気は、熱を帯びて淀み、彼女の沈黙そのもののように思えて耐えられなかった。僕は上着を掴み、逃げるように外へ出た。


向かったのは、夜の公園だ。2026年の、肌にまとわりつくような熱風を切りながら、心のどこかで淡い期待を抱いていた。いつものベンチ、あの柱の隙間に、彼女が書いたルーズリーフが届いているんじゃないか。文字を通じてなら、またいつものように「馬鹿ね」と笑って許してくれるんじゃないか。


けれど、公園に着いた僕を待っていたのは、残酷な現実だった。


「……ない」


いつも手紙が収められていた石壁の空洞は、むせ返るような草木の匂いと熱気が溜まるだけの、ただの穴になっていた。僕と彼女の時間を繋いでいたはずの箱は、跡形もなく消えている。


地面には、最近撤去されたばかりのような、真新しい土の跡があるだけだ。街灯に照らされたその乾いた土の色が、2016年と2026年を繋いでいた細い糸がぷつりと切断されたことを物語っていた。


「そんな……。じゃあ、僕はもう、どうやって……」


膝をつきそうになったその時、脳裏に佐藤学長の言葉が蘇った。『あの子はいつも同じ古い木箱を持って、アトリエに籠もっていた』


僕は夜道を走り、閉館間際の専門学校の学長室へと舞い戻った。


「佐藤学長! すみません、もう一度だけ……!」


突然戻ってきた僕に、学長は驚いた顔をしたが、僕の必死な形相を見て静かに席を促した。


「一ノ瀬葵さんの遺品、あるいは彼女が当時使っていたもので、学校に残っているものはありませんか。どんな些細なものでもいいんです」


学長はしばらく黙り込み、やがて重い腰を上げて、部屋の隅にある古いロッカーを開けた。


「……公式な遺品はすべてご遺族に返しました。ただ、事故のあった第3アトリエの備品で、持ち主不明としてこちらで保管していたものが一つだけあります」


学長が取り出したのは、埃を被った古い木箱だった。


「彼女はいつも、これに画材を入れてアトリエに籠もっていました。あの日、扉の前に残されていたものです」


それは、かつて公園の空洞に隠されていたものと全く同じ、パステルカラーのペンギン柄が描かれた箱だった。蓋には、色褪せたマジックで「一ノ瀬」という文字が、彼女の筆跡で残っていた。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


僕は学長に向かって深く頭を下げた。視界が熱く滲む。


再び、夜の公園。僕は、空っぽだった石壁の空洞に、その箱を戻した。2026年の夏の湿気で金具は錆びつき、ペンギンの絵も剥げ落ちている。けれど、元あった場所に収めた瞬間、止まっていた時間が再び動き出したような、不思議な静謐さが辺りを満たした。


僕は震える手で、学長から貰ったUSBのデータをコンビニでプリントアウトし、その紙を箱の中に放り込んだ。


「頼む。届いてくれ……!」


紙はそこにある。けれど、置いた瞬間に表面がわずかに波打った。直後、僕のスマホが狂ったように震え始めた。葵からだ。


「……何、これ。ねえ、何なのこれ!?」


受話器越しの彼女の声は、自分の部屋という安全な場所にいるはずなのに、剥き出しの恐怖に震えていた。


「今、部屋で絵を描こうと思って、足元の箱を開けたの。そうしたら……何もなかったはずなのに、急に、変な紙が……! 2019年、死亡、報告書……? なんで私の名前があるのよ!?」


「葵、落ち着いて聞いてくれ。それは悪戯じゃない」


「落ち着けるわけないでしょ! さっきまで空だったところに、いきなりこんな……こんな気味の悪い……!」


「今、君の手元にある紙の感触を確かめてくれ。それは3年後の未来の記録だ。……葵、君は今、コンテストに出す夕暮れの絵を描こうとしてるだろ。誰にも言わずに温めていた構図だ。僕がそれを知っているのは、今手元にあるUSBのデータに、君がその絵で最優秀賞を獲るはずだったと記されているからなんだ」


葵が息を呑む。


「その輝かしい未来の続きに、あの日が……あの火災が起きる。葵、その紙に写っている扉が、3年後の君を閉じ込める。今から言うことを、どうか忘れないでほしい。3年後、君がその学校に進学しても、第3アトリエだけは絶対に使っちゃいけない。もし使うなら、非常扉の建て付けを毎日確認して。目張りなんて、絶対にしちゃダメだ」


「ハル……さん……」


「嫌われてもいい。狂ってると思われてもいい。でも、その紙に書かれた運命だけは、絶対に拒絶してくれ……!」


僕は石壁に押し当てた箱の縁を強く握りしめた。汗が目に入って痛い。箱の中には、僕が置いた未来の記録がある。そしてその向こう側、2016年の自室では、高校2年生の葵が、同じ紙を握りしめて震えている。


「わかった。わかったから、もう送らないで。……怖いよ、ハルさん」


葵の声が途切れ、通話が終わった。


僕は一人、月明かりの下で、元の場所に戻った箱の前に崩れ落ちた。僕が彼女のプライベートな空間に送り込んだのは、夢へのエールではない。3年後の絶望を回避するための、あまりに過酷な真実という名の呪いだった。


「……はぁ、はぁ……」


肺の奥まで熱く湿った夜気が入り込み、喉が焼けるように痛い。箱に触れていた指先の感覚が、まだじりじりと痺れている。


たった今、僕は2016年の葵から「希望」を奪った。「未来のあなたは天才だ」と褒めそやすと同時に、「3年後に死ぬ」という逃げ場のない恐怖を彼女の部屋に叩きつけたのだ。


スマホの画面は暗いまま、二度と震えることはなかった。通話が切れた後の静寂に、遠くで鳴く夏の虫の声が重なる。その騒がしさが、かえって10年前の葵が一人で抱えることになった孤独を際立たせた。


「これで……いいんだよな」


誰に宛てるでもなく、掠れた声がこぼれた。彼女に嫌われても、頭がおかしくなったと軽蔑されても構わない。ただ、2019年のあの燃え盛るアトリエで、彼女の呼吸が止まることだけは、何があっても阻止しなければならない。


ふと顔を上げると、空には10年前と変わらない月が浮かんでいた。けれど、僕が今しがた箱に置いた「記録」が過去を侵食し、因果の歯車を狂わせ始めているはずだ。


もし未来が変わるなら、この場所にある「錆びついた箱」も消えてしまうのだろうか。あるいは、僕の記憶すらも、彼女を救ったという事実ごと書き換えられてしまうのだろうか。


「葵……生きろ」


祈るように呟き、僕はもう一度、冷たくなったペンギン柄の箱の蓋に手を置いた。マジックで書かれた「一ノ瀬」という文字が、月光に照らされて、消えかかった命の灯火のように淡く光っていた。

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