遺作の拒絶
指先が氷のように冷たくなっていくのがわかった。 スマホの画面に表示された「遺作」という文字が、網膜に焼き付いて離れない。
僕は彼女を救いたい一心で「夢を諦めろ」と叫び、最悪の形で電話を切られた。仲直りすらできていない。彼女は僕を拒絶したまま、2019年のあの夜に向かって走り続けている。
僕が彼女に専門学校を教えたからだ。 僕が彼女に「未来の情報」を与え、背中を押したその瞬間に、彼女の死亡診断書が発行されたも同然だった。
僕が、彼女の時計を早めたのか?
デザイナーになんてならなくてもよかった。最優秀賞なんて獲らなくてよかった。 ただ、生きていて欲しかった。
吐き気がした。自分が良かれと思って投げかけた言葉の一つ一つが、彼女を絞め殺すための縄に変わっていくような感覚。僕は、自分の手が震えていることに気づいた。この手で、僕は2016年の彼女の背中を押し、死のルートへと続くレールを敷き直してしまったのだ。
「……違う。まだ、終わらせない」
僕は、震える手でパソコンを閉じ、上着を掴んで部屋を飛び出した。 2026年の夜風が、冷たく僕の頬を叩いた。けれど、その冷たささえ、今の僕には彼女へと繋がる唯一の現実感だった。
翌日。 僕は、都心にあるその専門学校の門を潜っていた。
2026年のその校舎は、ガラス張りの洗練されたビルへと様変わりしていた。エントランスには「創立10周年」を祝う華やかなパネルが飾られている。その華やかさが、僕には犠牲の上に築かれた砂の城のように見えて胸が焼けた。この綺麗な建物の礎には、一人の少女の灰が埋まっているのだ。
自動ドアが開くと、冷房の効いた無機質な空気が僕を包んだ。 受付カウンターには、制服を正しく着こなした女性が、非の打ち所のない営業スマイルで座っている。
僕は、震える手でカウンターを掴んだ。 喉の奥までせり上がってきた吐き気を無理やり飲み込み、枯れ果てた声を絞り出す。
「一ノ瀬葵さんの……当時の事故について、お話を伺いたいんです」
事務的な笑顔を浮かべていた受付の女性の表情が、その名前を出した瞬間に凍りついた。 背後のオフィスで電話を叩いていた職員たちの手が一斉に止まるのがわかる。静まり返ったエントランスに、空調の低い唸りだけが響いた。
「……一ノ瀬さん、ですか。しかし、それはもう何年も前のことですし、本校としては既に解決済みの事案となっております。ご親族の方でもない限り、部外者の方にお話しできることは何もございません」
「解決なんてしてない! 僕は、ただ事実が知りたいだけなんです。あの日、あのアトリエで何が起きたのか、彼女が最期に何を遺そうとしていたのか……」
「お引き取りください。これ以上騒がれるようでしたら、警備員を呼びます」
女性の目が、明らかに僕を「過去を掘り返しに来た不審者」として捉えていた。 僕は食い下がった。カウンターを強く握りしめ、自分でも驚くほど喉を震わせて叫んでいた。
「終わったことになんて、させない……! 彼女は、まだあそこにいるんだ。あのアトリエで、僕との約束を守ろうとして、今も一人で筆を動かしてるんだよ!」
周囲の学生たちが足を止め、遠巻きに僕を眺めている。 冷ややかな視線。場違いな僕の怒声。 「狂ってる」という無言の蔑みが刺さるけれど、今の僕には、彼女を見捨てて立ち去ることの方がよほど狂気じみて思えた。
「彼女をあそこに置き去りにしたまま、この学校の10周年なんて、何の意味があるんですか! 救えたはずなんだ……僕が、ちゃんと伝えていれば……!」
警備員が僕の肩を掴もうと歩み寄ってきた、その時だった。
「よさないか。……見苦しい」
奥の廊下から響いたのは、枯れているが芯の通った、低い声だった。
場が、一瞬で静まり返る。 ゆっくりと歩み寄ってきたのは、仕立てのいいスーツに身を包んだ、白髪混じりの男性だった。鋭い眼差しの奥には、歳月だけでは埋めきれない深い哀愁が淀んでいる。
「……学長。しかし、この者が」
「いい。私が話そう。……君、ついて来なさい」
佐藤学長は受付の職員を制すると、一度も僕と目を合わせることなく、静かに背を向けた。 その背中には、この学校を背負ってきた自負よりも、一つの名前を抱え続けてきた重みのようなものが、べったりと張り付いているように見えた。
学長室の重厚な扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように消えた。 壁一面の書棚と、磨き上げられたデスク。佐藤学長は、僕をソファーに促すこともせず、棚から一冊の黒いポートフォリオを取り出した。
「君が先ほど叫んでいた言葉……『あのアトリエで今も筆を動かしている』、か」
学長は自嘲気味に口角を上げたが、その目は笑っていなかった。 彼はデスクにポートフォリオを広げた。そこには、あの日僕が画面越しに見た、あの鮮やかな色彩のポスターの原画が収められていた。
「葵くんは、奇妙な学生でした。類稀なる才能を持っていたが、それ以上に、何かに急かされているようだった」
原画の端には、何度も描き直された跡がある。筆の運びから、彼女の焦燥と熱量が伝わってきて、胸が締め付けられた。
「彼女はよく、独り言を言っていましたよ。『もっと描かなきゃ、彼に気づいてもらえない』と。……私は、てっきり恋人のことかと思っていましたがね。彼女は否定しました。『恋人じゃない。まだ会ったこともないけれど、私を信じて導いてくれた、未来にいる人なんだ』と」
学長が、僕の目を射抜くように見つめた。
「未来にいる、正体もわからない誰か。葵くんはその幻想に認められるためだけに、寝食を忘れてこの絵を完成させようとしていた。……君は、心当たりがあるのかね?」
僕は、声が出なかった。 「凄いね」「楽しみだよ」。僕が2016年の彼女に投げかけた、安っぽい感嘆。それが、彼女にとっては未来からの絶対的な予言となり、彼女を深夜のアトリエに縛り付ける鎖になっていたんだ。
「……あの夜、何があったんですか。なぜ、彼女は逃げなかったんですか?」
学長は深くため息をつき、視線を窓の外へ向けた。
「火災の原因は、老朽化した配線からの漏電です。……実は、火の手に気づいた警備員がすぐに駆けつけていたんですよ。アトリエの窓から漏れる煙を見て、外から必死に声をかけ、扉をこじ開けようとした」
学長の苦渋に満ちた表情が、当時の絶望を物語っていた。
「ですが、扉が開かなかった。当時は改修工事の直前で、非常扉の建て付けが最悪だったんです。おまけに彼女は作品を汚したくない一心で、内側から目張りまでしていた。警備員が外から扉を叩き、叫び続けても、彼女は……。火の回りが早すぎた。結局、消防が到着して鎮火した後に発見された彼女は、扉の前ではなく、キャンバスの前で倒れていました」
「キャンバスの、前で……」
「最期まで筆を離さなかったそうです。……君、これが彼女が命と引き換えに遺した答えだ」
原画の中の、眩しいほどの青。 それは、僕の言葉を信じて、逃げることさえ忘れて描き続けた彼女の執念そのものだった。
「……さて。私は、君の知りたかった事実をすべて話した」
学長はポートフォリオを閉じ、組んだ両手の上に顎を乗せた。その鋭い眼光が、僕の心の奥底まで暴こうとするかのように突き刺さる。
「次は君が答える番だ。君は、一体何者だね?」
僕は喉の奥が引き攣るのを感じた。
「一ノ瀬葵という学生の死は、公式には不慮の事故として処理されている。それを掘り返しに来る者は、これまでにもいた。遺族、野次馬、ジャーナリスト。だが、君のような反応をした者は初めてだ。……君は、なぜあのアトリエの状況を、あたかも今そこで起きていることのように確信していた?」
「それは……」
「『彼女はまだあそこにいる』。受付で君が叫んだ言葉だ。そして、避難できなかった理由を聞いた時の、その絶望に満ちた顔。……まるで、自分のせいで扉が閉ざされたとでも言いたげな顔だ」
学長がゆっくりと立ち上がり、僕との距離を詰める。
「君は、葵くんが言っていた『未来の誰か』なんだろう? 根拠はない。だが、そうでなければ、今の君の震えに説明がつかない」
僕は何も答えられず、ただ拳を握りしめていた。否定すれば、彼女との唯一の繋がりを否定することになる。けれど肯定すれば、狂人だと思われるだろう。
「……あの子の時間は、あの夜で止まった。だが、君は動いている。そして、あの子を連れ戻すと言ったな」
「……わかりません」
僕は掠れた声で、けれどはっきりと答えた。
「でも、原因がわかったなら、やるべきことは一つです。あの日、あの扉が開かなかったのなら……開くようにすればいい。僕のせいで彼女がそこにいたのなら、僕の言葉で、彼女を外へ連れ出す」
学長は長い沈黙の後、深く、深く息を吐き出した。
「狂っている。……だが、もし君があの子の見た『未来』そのものだというのなら。その狂気だけが、彼女を救えるのかもしれない」
学長はデスクの引き出しから、古びたUSBメモリを取り出した。
「当時の現場検証の記録、アトリエの間取り、そして消防の報告書のコピーだ。公式には出していない詳細なデータも入っている。……好きに使いなさい。もし、本当にあの子を連れ戻せるなら、私は一生、詐欺師に騙されたふりをしてやる」
「……ありがとうございます」
僕はそれを受け取り、学長室を飛び出した。 重い扉が閉まる音。それが、僕にとっての作戦開始の合図だった。
僕は駅への道を走りながら、スマホを握りしめた。 2016年の夜へと繋がる、たった一つの回線。 絶交だと言われようと、着信を拒否されようと、僕は彼女の耳元で叫び続ける。
今すぐ、筆を置け。その扉を開けろ。 僕が君の未来を奪ったのなら、僕が君に、本当の明日を見せてやる。
閉ざされた扉をこじ開け、彼女の時計を再び動かすためのカウントダウンが、僕の脳内で静かに始まっていた。




