灰の中から君を探す
葵との電話が切れてから、三日が過ぎた。 スマホは沈黙を保ったままだ。こちらからかけ直しても、呼び出し音の先に彼女が戻ってくる気配はない。
僕は、部屋の隅で膝を抱えていた。 「優しさ」のつもりだった。彼女の命を救いたいという一心だった。 けれど、結果として僕は彼女から「夢」という生きる意味を奪おうとし、最も頼りにしていたはずの僕という存在への信頼を粉砕したのだ。
「……ごめん、葵」
呟いた言葉は、重く湿った空気に吸い込まれて消える。 2026年の現実は何も変わっていない。彼女はこの世界のどこにもいない。 ただ、スマホの中に残る『一ノ瀬葵、急逝』という冷淡な文字だけが、僕を嘲笑うように光っている。
僕は、重い体を動かしてパソコンに向かった。 感情に振り回されて拒絶しても、運命は変えられない。なら、やるべきことは一つだ。 感情ではなく、事実を。 彼女の時計が止まったのは、一体いつなのか。
「葵は今、高校二年生……2016年だ」
予測を裏付けるように、画面には過去のアーカイブが次々と浮かび上がる。検索バーに打ち込む文字が、現実を侵食していく。
一ノ瀬葵 2019年 美術学校 死亡
検索結果の最上部、数年前のニュースの見出しが、僕の推測を残酷な確信へと変えた。
専門学校アトリエで女子学生の遺体発見。 日付は2019年3月。今から7年前。彼女が専門学校の卒業制作に取り組んでいた、まさにその最中だった。
記事を読み進めるごとに、指先が凍りついていく。死因は火災による一酸化炭素中毒。だが、そこには単なる事故では片付けられない、悲しい背景が記されていた。
火災が発生したのは、閉館後の深夜。彼女は一人、鍵のかかったアトリエに残り続けていた。 事件性はなく、過度の過労による不注意が招いた出火とされていたが、さらに深く調べると、当時の友人が残した痛切なネット上のメモを見つけてしまう。
『葵は、ずっと誰かを待っているみたいだった。自分の絵を見せたい相手が未来にいるんだって、わけのわからないことを言って。もっと凄い絵を描けば、その人に自分の存在を気づいてもらえる、もっと喜んでもらえるって……。あの日も、一睡もせずにキャンバスに向かっていたんだ』
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。 「凄いね」「楽しみだよ」――。僕が2016年の彼女に投げかけた無責任な感嘆や期待が、彼女にとっては唯一の光であり、同時に逃げられない監獄になっていた。
僕が彼女を追い詰めたんだ。 僕に「もっと」見てほしいという健気な願いが、彼女を深夜のアトリエに縛り付け、迫り来る煙にすら気づかせないほど彼女の神経を麻痺させてしまった。
僕に気づいてほしくて、僕に喜んでほしくて、彼女は命を燃やしてしまったんだ。
「……僕が、殺したんだ」
絶望が冷たい水のように心を満たしていく。だが、その底で、鋭い光が走った。
今の僕がすべきことは、彼女を否定することじゃない。 2019年3月、閉館後のアトリエ。 もし、僕がもう一度彼女と繋がることができれば。絵の完成なんて関係なく、僕はもう君を十分に見ているのだと、その痛いくらい純粋な想いを受け止めてあげられるかもしれない。
僕は机に散らばったルーズリーフを、一枚、また一枚と丁寧に揃え始めた。 彼女を救うためのピースは揃った。あとは、どうやって彼女の信頼を取り戻し、この2019年の悲劇を書き換えるかだ。
僕は、パソコンのモニターいっぱいに2019年の火災に関する記事を広げた。 当時のニュースサイト、事故を検証する個人ブログ、そして遺族のインタビュー。それらは数年経った今でもネットの海に色濃く残っている。それほど、将来を嘱望された若き才能が失われたあの火災は、当時「美大・専門学校における安全管理の欠如」を問う大きな社会問題として世間を騒がせた事件だった。
原因は老朽化した配線からの漏電。そして、乾燥した冬の空気を切り裂くように燃え広がった、画材用ヒーターの過熱。深夜のアトリエという密閉された空間が、最悪の条件を揃えていた。
「……場所も、時間も、原因も、こんなに鮮明に残っているのに」
当時は遠い世界の悲劇として聞き流していたかもしれないニュースが、今は僕の喉元を切り裂く刃になっている。
あとは、どうやって2016年にいる彼女に、それを「納得」させるかだ。 さっきまでの僕は、ただ闇雲に『行くな』と叫ぶだけだった。それではダメだ。彼女にとってあの道は、僕が肯定し、彼女自身が見つけた希望の光なのだから。力ずくで消そうとすれば、彼女はもっと頑なにその光にしがみつくだろう。
僕はモニターの横に置いたルーズリーフの余白に、殴り書きで戦略を練り始める。
「まず、仲直りしなきゃいけない。……いや、そんな生ぬるい言葉じゃ足りないな」
彼女の信頼を取り戻し、かつ、彼女が「未来の僕に褒められること」を目的化しないように導かなければならない。僕が見るべきなのは、彼女が描き上げた結果ではなく、今、迷いながら筆を動かしている彼女の時間そのものだったはずなのに。
彼女の信頼を取り戻し、かつ、彼女が「未来の僕に褒められること」を目的化しないように導かなければならない。僕が見るべきなのは、彼女が描き上げた結果ではなく、今、迷いながら筆を動かしている彼女の時間そのものだったはずなのに。
「2019年3月の火災を防ぐには、二つの方法がある」
一つは、彼女に別の進路を選ばせること。だが、これはさっき失敗した。彼女の魂とも言える情熱を否定することは、彼女の存在そのものを否定することに近い。 もう一つは、彼女がその学校に進んだ上で、あの日のアトリエにいないようにすること。あるいは、あの場所の危険を事前に排除すること。
「……予言者としてじゃなく、パートナーとして、彼女の横に立ち続けるんだ」
僕はスマホを手に取った。 指が震える。拒絶された恐怖が、心臓を冷たく締め上げる。 けれど、何もしなければ、彼女はまたあのアトリエで、僕の影を追いかけながら煙に巻かれてしまう。
僕が彼女を追い詰めたのなら、僕がその手を引いて連れ戻すだけだ。
「……それにまだ、勝負はついてない」
僕は自分に言い聞かせるように、震える指を強く握りしめた。
「27歳の君を見つけ出すって、言ったから」
2026年の、どこにもいない君。 けれど、僕がこの「2019年の悲劇」を書き換えたその瞬間に、僕の知らない新しい歴史が動き出すはずだ。そこには、筆を置いていない、笑顔で絵を語る27歳の君がきっといる。
その未来を勝ち取るまでは、僕は何度でも泥を啜ってでも、過去の君に語りかけよう。
「待ってろ、葵。」
僕は、2016年の彼女へと繋がるたった一つの窓口、非通知設定の着信履歴を見つめた。 今はまだ、電話をかけても彼女は拒絶するだろう。感情でぶつかり合っても、また同じ決裂を繰り返すだけだ。
有名な事件として記録されている具体的な火災の情報。それを、いつ、どんな形で彼女の元へ届けるか。彼女の情熱を傷つけず、けれど死の淵から物理的に引き剥がすための、最も確実な一手。
僕は、ルーズリーフに大きく「2019年3月・火災」と書き込み、その横に彼女の横顔を思い浮かべた。 2026年の夜の静寂の中、僕の指先はもう迷っていなかった。 一分一秒、彼女へと近づくための、新しい未来への地図を描き始めた。




