表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/10

優しさの毒

一ノ瀬葵、急逝。 スマホの画面に刻まれたその五文字が、網膜に焼き付いて離れない。


昨日、この画面を見るまでは、僕たちは「未来」の話をしていたはずだった。 2026年なったらハルに会いに行く。彼女がそう宣言してくれた、あの震えるほど嬉しい約束を交わしたばかりだったのに。 たった一晩。そのわずかな時間の間に、僕にとっての葵は「いつか再会できるパートナー」から「数前にこの世を去った故人」へと、残酷に塗り替えられてしまった。


僕は昨日から、廃人のように部屋に引きこもっていた。 机の上に積み上がったルーズリーフの山。それは10年前の彼女が、未来を信じて僕に送ってくれた「生」の証だ。けれど、今の僕にはそれが、一枚一枚が彼女の命を削り取って作られた、薄っぺらな遺書のように見えていた。


もしも、このまま電話に出なければ。 このまま2016年との通信を断ち切ってしまえば、彼女の運命は止まり、死は訪れないのではないか。 そんな子供じみた妄想が頭をよぎる。けれど、時間は残酷に、一方通行で流れている。僕が立ち止まっても、あちら側の彼女の時計は、一秒ごとに、あの「卒業制作」という名の終着駅へと彼女を運び続けているのだ。


深夜。暗闇の中でスマホが震えた。 表示される『非通知設定』の文字。 一度、二度……コールが続くたびに、心臓を直接掴まれているような痛みが走る。 五度目のコールの途中で、僕は耐えきれずに通話ボタンを押し、受話器を耳に押し当てた。


「……ハル!? やっと出た。もう、何回かけたと思ってるの?」


瑞々しい声が、静寂を突き破る。 葵は怒っているはずなのに、その声には「次は出るはず」という確信めいた信頼と、隠しきれない高揚感が混じっていた。


「ずっと繋がらなかったから、寝ちゃったのかと思ったよ。……ねえ、聞いてよハル! 学校のパンフレット、今日届いたんだ。特待生制度もあるみたいで、私、本気で狙ってみようと思って――」


受話器から漏れる葵の声は、昨日の絶望が嘘のように弾んでいる。 だが、その明るさが今の僕には、鋭利な刃物のように突き刺さる。


「……やめろよ」


僕の声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。 葵の言葉がピタリと止まる。


「え……? 何が?」


「その学校に行くの、やめろって言ってるんだ。……別の道を探せよ。地元で就職するとか、もっと別の、安全な……」


「何を、言ってるの?」


葵の声から戸惑いが消え、代わりに硬い拒絶の色が混じり始める。 当然だ。数日前まで、誰よりも熱心に僕が勧めていた道なのだから。


ハルが勧めたんじゃん! 私の話を聞いて、もっと広い世界を見たほうがいいって。私のやりたいことを、初めて肯定してくれたのはハルでしょ?」


「それは……そうだけど。でも、やっぱり気が変わったんだ。あそこは、良くない。不吉なんだよ」


「不吉? 意味わかんない。何なの、急に……。私、あのアドバイスをもらってから、やっと自分の未来が明るく見えたのに。ハルなら応援してくれるって信じてたのに!」


言えるわけがない。 その「明るい未来」の先に、君の遺作が飾られているなんて。 僕の言葉に突き動かされた君が、最短距離で死へと向かっているなんて、口が裂けても言えない。


「いいから言う通りにしろ! 悪いことは言わない、その道だけは絶対にダメだ! 頼むから、僕を信じてくれ!」


「信じられるわけないよ! 理由も言わずにただ『ダメだ』なんて、そんなの、ただの我儘じゃない! ハルは私の将来を何だと思ってるの?」


葵の叫びが、鼓膜を震わせる。


「ハルは、私の何を知ってるっていうの? 未来の世界にいるからって、何でも分かったような気にならないで。これは私の人生だよ。私が決めて、私が歩く道なんだよ! ハルに私の邪魔をされる筋合いなんてない!」


「違う! 僕が変えてしまったんだ! 僕が余計なことを言ったから、君の運命が狂い始めたんだよ! 僕のせいで、君は……!」


必死だった。 彼女を救いたいという焦燥感が、言葉をバラバラにしていく。喉元まで出かかった「君が死んでしまう」という言葉を、血が出るほど唇を噛んで飲み込む。 本当のことを言えば、彼女は信じてくれるだろうか。それとも、狂人の戯言だと切り捨てられるだろうか。どちらにせよ、今ここで彼女の心を折るわけにはいかなかった。けれど、僕の拒絶は、それ以上に彼女の心を深く傷つけていた。


「……勝手すぎるよ、ハル」


葵の声が、急に低く、震えるものに変わった。 それは怒りというよりも、深い失望だった。


「私の夢を、ただの『間違い』みたいに言わないで。……もういい。しばらく、声を聞きたくない」


「待て、葵! 違うんだ、聞いてくれ――」


プツリ、という無機質な切断音。 2026年の静寂が、昨日よりもずっと重く、冷たく、僕の部屋にのしかかってきた。


机の上には、さっきまで宝物のように見えていたルーズリーフが、ただの紙切れとなって散らばっている。 葵を守りたいという一心で吐いた言葉が、結果として彼女を最も深く傷つけ、僕たちの唯一の繋がりを断ち切ってしまった。

通話が切れたスマホの画面には、自分の情けない顔が反射して映っている。


僕は、スマホを握りしめたまま、暗闇の中で激しく後悔した。 運命を変えるための代償は、彼女との「今」を失うことだったのか。 もし彼女がこのまま、僕への拒絶を貫いてあの学校へ進んだら? 僕は彼女を救うどころか、孤独にしたまま死へ追いやることになるのではないか。


窓の外では、2016年と変わらないはずの月が、冷ややかに僕を見下ろしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ