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十年前からのライフログ

大学2年生の日常なんて、代わり映えのしない講義と、適当な付き合いで埋め尽くされている。昨日までは、僕もその歯車の一部だったはずだ。


「なあハル、この後駅前の新しいラーメン屋行かね? 奢りはしねーけど」


午後の講義が終わった瞬間、隣の席にいた友人がカバンを肩にかけながら声をかけてきた。いつもなら「いいよ」と二つ返事でついていくところだ。一人で部屋に帰っても、スマホを眺めて時間を潰すだけなのだから。


「ごめん、今日は用事あるんだ」


「は? お前が? 珍し。バイトだっけ?」


「いや……ちょっと、探し物に」


曖昧に濁して、僕は足早に講義室を後にした。背後で「なんだよそれ」と笑う声が聞こえたが、今の僕には夕食よりも、もっと確かめなければならない「現実」があった。


二〇二六年の夕暮れ。駅前の再開発で新しくなったビル群の隙間を縫うようにして、僕はあの公園を目指す。


(今ごろ、あの子は二〇一六年の街を走ってるんだろうか)


スマホの時計は午後五時を回ったところだ。女子高生のアオイが学校を終え、寄り道をして、あの場所へ向かう時間。 物理的に考えれば、十年前の出来事が「今」になって書き換わるはずがない。けれど、昨夜のあの掲示板の落書きを見てしまった以上、常識なんて言葉はゴミ箱に捨ててきた。


公園に着くと、西日が遊具の影を長く地面に焼き付けていた。 僕は生垣の隙間に身を潜めるようにして、コンクリートの土台にあるあの「空洞」を覗き込む。


昨日の夜、そこには確かに何もなかった。指を突っ込んで確認したから間違いない。 けれど、もしアオイが「二〇一六年」の今、そこに何かを置いたのだとしたら――。


「……っ」


生垣の奥、堆積した落ち葉と泥の中に、不自然に角張った影が見えた。 手を伸ばし、指先を汚しながらそれを引きずり出す。


それは、かつてはパステルカラーの可愛らしいデザインだったであろう、手のひらサイズの小さなアルミ缶だった。 だが、僕の手の中にあるそれは、十年の歳月という冷酷な時間に晒され、表面の塗装は無残に剥げ落ち、赤茶けた錆がびっしりとこびりついている。


「本当に、あった……」


指先に伝わるのは、ザラザラとした錆の感触と、石のように冷え切った温度。 十年前、アオイにとっては「数分前」に置かれたばかりの新品の缶が、僕の世界では「十年間、誰にも気づかれずに放置された遺物」として実体化していた。


固くなった蓋を、爪を立ててこじ開ける。 中には、湿気で少し波打ち、端が茶色く変色したルーズリーフの一片が入っていた。


僕はそれを広げ、夕闇に沈みゆく光の下で目を凝らす。


『ハルへ! ちゃんと見つけた? 驚いた? これが私たちの勝負の始まりだよ! 十年後の世界は、この缶みたいにボロボロになってないよね? 缶、可愛いでしょ? 私のお気に入りなんだから!』


二〇一六年のアオイが、悪戯っぽく笑いながらペンを走らせる姿が、その勢いのある筆跡から鮮明に浮かび上がってくる。 「ボロボロになってないよね」という言葉が、錆びついた缶を握る僕の手に、形容しがたい重みとなってのしかかった。


その時、ポケットの中でスマホが激しく震えた。 画面には、やはり「非通知」の文字。


僕は錆のついた指を拭うことも忘れ、通話ボタンをスライドさせた。


『ヤッホー、ハル! 今さっき置いてきたよ! ちゃんと「未来」に届いてる?』


耳元で弾けるのは、たった今、一仕事を終えたばかりのような、瑞々しく、熱を持った少女の声。


「……ああ。今、見つけたよ。……ボロボロの、錆びだらけになった缶」


『……えっ? ボロボロ?』


スピーカーの向こうで、アオイの戸惑ったような声がした。


『ちょっと、失礼なこと言わないでよ! さっき雑貨屋さんで三十分も悩んで買った、ピカピカのペンギン柄の缶なんだから。……あ、そっか。そっちでは、十年分、古くなってるんだ。』


納得したような、それでいてどこか寂しそうな彼女の吐息がノイズに混じった。


「うん。色もほとんど剥げちゃってるし、蓋を開けるのも一苦労だったよ。……でも、中身は無事。君のこの、妙に勢いのある字もちゃんと読めるよ」


『勢いがあるって何よ! ……でも、本当に届いたんだね。私がさっきまで手に持ってたものが、十年の時間を飛び越えて、本当にハルのところにあるんだ。』


アオイの声が、嬉しそうに弾んだ。 夕闇が深まる公園で、僕は手の中の錆びた缶をもう一度見つめた。アオイが「たった今」買ったばかりの感触と、僕が触れている「十年の重み」。その残酷なまでの乖離が、この通話の異常さを際立たせている。


「……勝負、だったっけ。これから毎日、ここに手紙を置くつもり?」


『もちろん! 私が誰なのか、ハルが自力で辿り着くまでね。あ、でもハルは未来にいるんだから、ズルしてネットとかで調べちゃダメだよ?』


「調べるも何も、苗字も知らないし、手がかりは『アオイ』っていう名前と、この独特な筆跡だけだから。……二十七歳になった君がどこで何をしてるかなんて、これだけで辿り着けるわけないよ」


『ふふん、それを考えるのがハルの仕事でしょ。……あ、やば! また友達に呼ばれた。今からみんなで遊びに行く約束してるんだ!』


受話器の向こうから、かすかに二〇一六年の喧騒が聞こえてくる。再開発前の、今よりもずっと雑多で賑やかだった駅前の空気感。当時流行っていた曲が流れるショップの音や、今ではもうなくなってしまったゲームセンターの電子音。 そんな「十年前の音」が、ノイズ混じりのスピーカー越しに僕の耳を撫でる。


『じゃあね、ハル。明日もまた、同じ場所に「私の今日」を隠しておくから。……ちゃんと、見つけてね。』


「……分かった。待ってる」


プツリ、と通話が切れる。


僕はルーズリーフを丁寧に折り畳み、ジーンズのポケットへ。 缶を丸ごと持ち去るわけにはいかないけれど、中身のこれだけは、僕が持っていってもいいはずだ。明日、アオイが二〇一六年の今日に新しい手紙を足せば、二〇二六年の僕の明日には、空になったはずのこの缶にまた新しい手紙が届いている。そんな不思議な確信があった。


僕は空になった錆びた缶を、元あった生垣の奥、一番見つかりにくい場所へそっと戻した。


アパートの自室に帰っても、心はまだあの公園に置いてきたままだった。 僕はデスクに向かい、ポケットから慎重にルーズリーフを取り出した。蛍光灯の下で見ると、紙の端が茶色く変色しているのがよく分かる。 アオイにとっては数分前に書かれたばかりの文字が、僕の手の中では十年の時を経たアンティークのような質感を纏っている。


僕はノートパソコンを開き、無意識に「二〇一六年 流行」「二〇一六年 ニュース」と検索バーに指を走らせた。画面に並ぶのは、今の僕にとっては少し懐かしい情報の断片。


その情報の海のどこかに、今まさに友達と遊び回っているアオイがいる。そして、その十年後のどこかに、二十七歳になった彼女が生きている。


僕は椅子の背もたれに体を預け、もう一度ルーズリーフの文字をなぞった。 二〇二六年の世界は、アオイが夢見たほど輝いてはいないかもしれない。けれど、手元にあるこの古びた紙の感触だけが、今の僕にとって唯一の、確かな「現実」だった。

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