検索結果に君はいない
昨夜、僕は一睡もできなかった。 手元にある、端が茶色く変色したルーズリーフ。そこに記された「アオイ」という名の、二十七歳になっているはずの女性を特定しようと、夜通しスマホの青白い光と格闘していたからだ。
「……いないな」
暗い部屋の中で、独り言が虚しく響く。 検索窓に、たった三文字の彼女の名前を打ち込んでみる。画面を埋め尽くすのは、同姓同名の全くの他人の記録や、広告、あるいは「青い」という形容詞が含まれる無関係なニュースばかりだ。 苗字も、通っている学校も、今の住所も知らない。ヒントになるのは、前日に電話で聞いた、あの日買ったという「ペンギン柄の缶」のことだけ。
僕は藁にもすがる思いで、その缶について調べてみた。
だが、十年前の雑貨屋の在庫データなんてネットの海には残っていない。ようやく見つけたのは、フリマアプリに出品された「レトロ・ジャンク品」というカテゴリーの中だった。塗装は剥げ、数百円の値を付けられたその残骸は、誰かにとっての「大切な思い出」ではなく、単なる「古いゴミ」として処理されていた。
アオイにとっての「今、買ったばかりの宝物」は、この二〇二六年の世界では、とっくに賞味期限の切れた遺物でしかない。
めきれずに画面をスクロールしていた時、ふと、隣市の再開発に関する古いニュース記事が目に入った。
『二〇一六年十月、デザイン専門の私立校が開校予定』
その学校の名前を見て、僕は少し意外な気がした。隣市の駅前にある、あのガラス張りの綺麗な専門学校のことだ。 「へぇ……あそこって、意外と最近できたんだ」 僕が物心ついた頃にはもうあったような気がしていたけれど、十年前はまだ開校すらしていなかったらしい。そんな情報の断片を脳の隅に放り込み、僕は再び、終わりなき「アオイ」の捜索に戻った。
画面の中の二〇一六年は、整然としたデジタルデータとして冷たく横たわっている。けれど、受話器から聞こえてきたあの街の喧騒は、もっと泥臭くて、埃っぽくて、確かな人間の熱を持っていたはずなのだ。僕は、存在すら定かではない「大人のアオイ」を求めて、出口のない迷路を彷徨い続けていた。
翌日、大学の講義はほとんど頭に入らなかった。 教授の喋る経済学の理論よりも、バッグの中に忍ばせた一枚のルーズリーフの感触の方が、よほど現実味を帯びて僕の皮膚を刺激する。講義室を抜け出した僕は、吸い寄せられるように、いつものあの公園へと足を向けた。
昨日の雨のせいで、遊具の下はぬかるんでいる。僕は泥で靴を汚すのも構わず、生垣の奥へと手を伸ばした。 指先に触れる、冷たくてザラついた錆の感触。 蓋を開けると、案の定、そこには新しいルーズリーフが、十年前の空気ごと閉じ込められるようにして置かれていた。
『ハルへ。昨日はありがと! 私の言った通り、ちゃんと届いてたでしょ? 今日はね、ちょっと元気ないんだ。進路希望の調査票を出したんだけど、先生に「もっと現実を見ろ」って言われちゃって。私は将来、デザインの道に進みたいんだけどな。 あ、そういえば今日、駅前の掲示板に「夏祭りの中止」のお知らせが貼ってあったよ。楽しみにしてたのに、なんか古い配水管が破裂したんだって。十年前のハルも、がっかりしてるかな?』
「……デザイン、か」
そこで初めて、僕は彼女の夢を知った。 そして同時に、「夏祭りの中止」という言葉に、心臓が大きく脈打った。 二〇一六年、夏。僕がまだ小学生だった頃だ。 記憶の地層に埋もれていた、あの湿り気を帯びた夜の空気が一気に蘇る。 浴衣の糊の匂い。鼻をくすぐる蚊取り線香の煙。かき氷のイチゴシロップで舌を真っ赤にするのをあんなに楽しみにしていたのに。 夕暮れ時、駅前の掲示板の前で大人たちが困った顔で話し込んでいた。そこには確かに「中止」の二文字が躍っていて、僕は泣きべそをかきながら親に手を引かれて帰らされたのだ。
あの時、あの人混みの中で、アオイも同じ掲示板を見つめて立ち尽くしていたのかもしれない。 十年前のあの日、僕と彼女は、数メートルの距離ですれ違っていた可能性さえあった。今、僕の手に届いている彼女の言葉は、かつて僕のすぐ隣にあったはずの振動なのだ。
「……アオイ?」
『ヤッホー。手紙、見つけた?』
受話器の向こうから、夏の陽炎のような熱を帯びた声が届く。
「……読んだよ。祭りの中止、僕も覚えてる。……というか、僕もその時、そこにいたよ。たぶん」
『えっ、本当!? 運命じゃん! あ、そういえば! 私のことなんかわかった?……十年後の私、ちゃんとデザイナーになってる?』
アオイの声は、純粋な期待に満ち満ちていた。 今の今まで、必死に彼女の正体を検索していた僕の指が、かすかに震える。 検索結果に、彼女の名前はなかった。デザイナーとして活躍している「アオイ」なんて、どこにも見当たらなかった。 彼女が夢を叶えたのか。それとも、現実の荒波に揉まれて諦めてしまったのか。
未来にいるはずの僕は、彼女の問いに答えるための情報を、何一つ持っていなかった。
「……。デザイナーになってるかどうかは、わからない。二〇二六年のネットで探してみたけど、君のことは見つけられなかったんだ」
『えっ……。そうなの? 私、有名になれなかったのかな』
その言葉が、僕の胸を鋭く刺した。 「見つからなかった」という事実は、単に彼女が有名人になれなかったことを意味するだけではない。十年という時間は、残酷だ。 もし彼女が、夢破れて全く別の仕事に就き、デザインとは無縁の生活を送っているのだとしたら。日々の暮らしに追われて、かつてのルーズリーフに書き留めたような情熱さえ、とうに忘れてしまっているのだとしたら。
検索に引っかからないのは、彼女が挫折した証拠なのではないか。あるいは、僕の知らないどこかで、全く別の、デザインとは関係のない人生を選んだ結果なのではないか。そんな考えが、冷たい泥のように心にまとわりつく。
けれど、それを口にすることはできなかった。 今の彼女にとって、二〇二六年の僕は「すべてを知っている未来人」なのだ。
「……。デザイナーになってるかどうかは、わからない。二〇二六年のネットで探してみたけど、君のことは見つけられなかったんだ」
『そっか……。私、才能なかったのかな』
アオイの声は、今にも消え入りそうだった。 その時、僕の脳裏を、昨夜スクロールしたあの無機質なニュースの文字が掠めた。
(待てよ、確か……)
「あ、そうだ! 今、思い出した。……アオイ、諦めるのはまだ早いよ」
『えっ……?』
「二〇一六年の秋にさ、隣の市に新しいデザイン専門の学校ができるはずなんだ。僕のいるこの時代では、あそこ、結構有名な学校として普通に存在してるんだよ。アオイの今いる時期だと、まだ発表されたばかりか、これからのはずだけど……チャンスはまだこれからだ」
咄嗟に口をついて出た言葉だった。けれど、嘘じゃない。あのガラス張りの校舎が、今の僕の日常には確かに存在している。
『えっ……? なんでそんなこと知ってるの。……あ、そっか。ハルは「未来」にいるんだっけ』
アオイが息を呑むのが分かった。
「予言者みたいで、ちょっと不気味かな」 『……ううん。なんか、ズルいけど安心した。ハルに言われると、本当にそうなる気がする。……ありがとう、未来のハルくん。私、もう一回先生に話してみる!』
彼女の声に、少しだけ力が戻った。
『あ、友達がこっち見てる。内緒の話してると思われちゃう。……また明日ね、ハル!』
プツリ、と低い電子音がして通話が切れた。 耳元に残っていた彼女の体温のような熱っぽさが、急速に冷めていく。スマホの画面は無機質な待ち受けに戻り、スピーカーから溢れていた十年前の街のざわめきは、今の公園を支配するカラスの鳴き声と、遠くを走る車の走行音に塗り替えられた。
「……デザイナー、か」
僕は、二通目のルーズリーフをバッグにねじ込んだ。 ヒットしなかったのは、彼女が別の道を選んだからなのだろうか。 もし、もっと根本的な理由で――この二〇二六年の世界に、アオイという存在そのものが欠落しているのだとしたら。
公園を出て、駅前へ続く道を歩く。 アオイが「今」見ているはずの、あの掲示板の前に辿り着いた。 駅周辺は再開発され、巨大な駅ビルやデジタルサイネージが立ち並ぶ無機質な風景に塗り替えられている。けれど、路地裏へと続く入り口にひっそりと立つこの掲示板だけは、十年前から変わらぬ姿でそこに居座っていた。
緑色の塗装は少し褪せているが、ガラスの向こうには今も地域の催し物やポスターが、整然と貼り出されている。 アオイは、確かにこの場所で、僕と同じ板を見つめていたのだ。
すれ違う、自分より数歩先を歩く大人の女性たちを、つい無意識に目で追ってしまう。 落ち着いた色のコートを着て、仕事帰りだろうか、少し疲れたような顔で歩いていく年上の彼女たちの誰かが、あの「勢いのある字」を書くアオイなのだろうか。 二十七歳になった彼女は、今、どんな顔をしてこの街を歩いているんだろう。
電話で言葉を交わすたびに、アオイの輪郭は僕の中で鮮明になっていく。 それなのに、この二〇二六年の街のどこを探しても、彼女の欠片すら見つからない。
まるであの日の中止になった祭りのように。 彼女の「未来」だけが、どこかで消えてしまっているかのように。
掲示板の縁に指を触れる。 指先に伝わる、十年の歳月を吸い込んで少しザラついた感触。 それだけが、今の僕にとって、彼女が確かにこの街のどこかで僕と同じ時間を刻んでいるという、唯一の証拠だった。




