リアルタイム・タイムカプセル
掲示板のレンガの隙間から引き抜いたそれは、まるでこの街から忘れ去られた化石のようだった。
手のひらの上で埃をかぶっているピンク色のストラップ。かつては鮮やかだったであろうその色は、十年の歳月に磨り減らされ、今では鈍く、白ちゃけた光を放っているに過ぎない。
けれど、耳元に押し当てたスマホのスピーカーからは、今まさにそのストラップを「新品」として扱っている少女の、温度のある声が漏れ聞こえていた。
物理法則も、論理も、僕がこれまで二十数年生きてきた常識も。 この古びた掲示板の裏側という、あまりにもちっぽけな境界線において、すべてが音を立てて崩れ去っていた。
「……今も、ストラップは掲示板の裏にあるの?」
僕は、自分の声が他人のもののように低く響くのを感じながら、震える声で問いかけた。
『……ある。私の目の前には、まだ私が押し込んだばかりのピンクのストラップが見えてる。……未来人くん、あんたが持ってるのは、何なの?』
彼女の指先にある現在と、僕の手の中にある過去。 同じ質量を持った一つの物体が、時間を超えて二つの場所に存在している。この異常な事態を、僕の脳はまだ拒絶しようとしていた。
「僕が持っているのが本物だ。……いや、君が持っているのも本物なんだろう」
僕は手の中の色あせたストラップを見つめた。 いや、違う。繋がっているのは、この掲示板という点だけではないはずだ。
「アオイ、掲示板だけじゃない。今、僕たちが交わしているこの会話も、このストラップの感触も……僕たちの周りにある空気そのものが、十年という時間を飛び越えて混ざり合ってるんだ」
そうでなければ、非通知の履歴から過去へ電話が繋がるはずがない。僕の指先にあるこの古ぼけたプラスチックの感触が、彼女の「たった今」と直結しているはずがないのだ。
僕が混乱の極致に立たされている一方で、受話器の向こうからは、ふっと緊張の解けたような、意外なほど明るい笑い声が聞こえてきた。
『だって、そうでしょ? 最初は幽霊か何かかと思って怖かったけど、本当に十年後の未来と繋がってるんだ。私、タイムスリーパ―じゃなくてタイムリスナーになっちゃった!』
さっきまでの震えていた声はどこへやら、彼女の声には隠しきれない興奮が混じり始めていた。恐怖を好奇心が軽々と追い越していくその速度に、僕は思わず絶句する。
『ねえ、もっと実験しようよ! 今、私がここに落書きしたら、そっちでも見えるようになるかな?』
「おい、落書きなんて……」
止める間もなく、スピーカー越しにカバンを漁るような音が聞こえ、続いて硬いもので石を削るような、ガリガリという不穏な音が響いてきた。
『よし。掲示板の右下の、ちょっとだけ白くなってるところ。そこにいま、私の名前を書いたから。見てみて!』
僕は半信半疑のまま、足元の街灯の光を頼りに掲示板の右下を覗き込んだ。 そこには、十年前には鋭利な石か何かで刻まれたであろう、ひどく古びて角の丸くなった文字が浮かび上がっていた。
――アオイ。
「……ある。名前が書いてある」
『やった! すごい、本当に通じてる! ねえ、これって私が今書いた瞬間に、そっちでも文字が浮き出てきたりしたの?』
「いや、違う。君が書いた瞬間に、僕の世界では『10年前に書かれた落書き』として、ずっとそこにあったことになるんだ。僕が今まで気づかなかっただけで」
僕の指先は、レンガに刻まれた「アオイ」という三文字をなぞっていた。 10年前の彼女が削り出した溝には、砂が詰まり、角が取れている。けれど、耳元で弾ける彼女の声は、この文字を刻んだ時の熱量をそのまま宿している。
『へぇー……。なんか不思議。ねえ、いつまでも「未来人くん」って呼ぶのも変だし、あんたの名前、教えてよ』
アオイが、悪戯っぽく、けれどどこか真剣なトーンで問いかけてきた。
「……ハルだよ」
『えっ、ハル? ……あはは! なにそれ、女の子みたいな名前! あんた、本当は未来の女子高生だったりしない?』
「……男だよ。よく間違えられるけど。親が春生まれだからって適当につけたんだ」
思わず口を尖らせた僕に、アオイは「ごめんごめん!」と笑いながら、でもどこか楽しそうにその名を繰り返した。
『いいじゃんハル、覚えやすくて。ちょっと可愛いすぎだけどね! よし、覚えた。あらためて、私はアオイ。二〇一六年の今を絶賛満喫中の、現役女子高生!』
誇らしげに名乗る彼女の声に合わせて、受話器の向こうで自転車のベルがチリンと鳴った。 十年前。この場所が再開発される前、確かにこの空気の中に彼女は存在していたのだ。
彼女の無邪気な質問に、僕は思わず鼻で笑ってしまった。
「知るわけないでしょ。この街に何万人人間がいると思ってるんだよ。だいたい、さっき電話がかかってくるまで、僕は君のことなんてこれっぽっちも知らなかったんだから」
『えー、そんなのわかんないじゃん! 未来の私だよ? ちょっとは気になるとか、有名になってて「あ、あの時の!」とかないの?』
アオイは不服そうに声を弾ませた。十年前の彼女にとって、今の自分は可能性の塊でしかないのだろう。
「ない。断言するけど、僕は君のことを一ミリも知らない。……だいたい、普通に暮らしてる人間の二十七歳の姿なんて、赤の他人が知るわけないだろ」
『ちぇー、つまんないの! 未来人なんだから、もうちょっと夢のあること言ってよ。未来の私が、実はどっかの大富豪と結婚してセレブ生活送ってるとかさ!』
アオイのぶーぶーと膨れるような声が、スマホ越しに振動となって伝わってくる。
「……夢見すぎ。現実はそんなに甘くないよ。大体、そんなに自分の将来が気になるなら、地道に勉強でもしてなよ」
『はーい、お父さんみたいなこと言わないの! ……でもさ、ハル。私が今書いた文字が、十年後のハルの目の前にちゃんと残ってるんだよね?』
「ああ。さっきも言ったじゃん」
『だったらさ、私がここに私の「今」をどんどん刻んでいくことにするよ。ハルが私のことを嫌でも「知ってる人」にするしかないくらいにね!』
「は? どんどんって……。おい、僕たち今出会ったばっかだよ。そもそも、そんなに書くスペースなんてない。レンガなんだから」
『あ、そっか……石で削るの結構疲れるし、隙間もそんなにないね』
スピーカーの向こうで、アオイが「うーん」と唸る気配がした。けれど、彼女はすぐに名案を思いついたような声を出した。
『あ、いいこと思いついた! ここは駅前で人も多いから、別の場所にタイムカプセルを作るの。ハル、ここから少し歩いたところに、小さな公園があるの知ってる?』
アオイが口にした場所の特徴を聞いて、僕は息を呑んだ。
「……知ってる。っていうか、さっきまで僕がいた場所だ」
『えっ、本当!? 運命じゃん! じゃあ話が早いよ。あの公園の隅っこ、生垣の奥にあるコンクリートの土台……雨樋の出口が塞がってて、大きな空洞になってる場所があるでしょ?』
アオイの言葉に、僕は記憶を逆回転させる。 さっきまで僕がぼんやりと座っていたベンチの、すぐ裏手だ。雑草が茂り、放置された落ち葉が溜まっていた、あの薄暗い隙間。
「……ああ。あそこなら、わざわざ覗き込むやつなんていないかもね」
『でしょ? 掲示板のレンガだと一言しか書けないけど、あそこなら「箱」ごと隠せちゃうもん! これから毎日、私が書いたメモをそこに詰め込んで、十年後のハルに届けるの。名付けて、リアルタイム・タイムカプセル!』
『だって十年分だよ? 相当貯まるよ! 十年後の私がどこで何をしてるか、ハルが自力で探し出してくれるまで、私はそこに「今」を隠し続けるから。ワクワクしない?』
「……全く。振り回される身にもなってくれ」
そうぶっきらぼうに返しながらも、僕は手の中にあるピンク色のストラップを、壊れ物を扱うようにそっと握り直した。
『あ、でも今日はもう遅いし、ちゃんとした「箱」を用意しなきゃ。明日、学校の帰りに可愛い缶でも買って、最初の手紙を入れておくよ! だからハル、明日になったらもう一度そこを見てみて。……あ、ハルにとっては「十年前の明日」だけど!』
アオイは自分一人で納得したように、ケラケラと笑う。 彼女にとっては「明日」から始まる新しい遊び。けれど、僕にとってはすでに十年前の過去として「完了」している出来事なのだ。
僕は、夜の闇に沈む公園の方角をじっと見つめた。 あそこに行けば、彼女が明日置くはずの、そして僕にとっては十年前から置かれ続けている「何か」が、今もひっそりと眠っているはずだ。
「……アオイ。そのタイムカプセル、僕が全部読み終わる頃には、君が誰で、どこにいるか、わかるようになってるのか?」
『さあ、どうかなー! 私だって、十年後の自分が何してるかなんてわかんないし。でも、毎日ちょっとずつ「私」を届けるから。全部読み終わるまでに、ちゃんと見つけ出してよね。……ハル。』
彼女の声が、ふっと悪戯っぽさを潜めて、少しだけ真剣な響きを帯びた。
『あ、せっかくだから勝負しようよ。私が自分を書き尽くして「正解」を教えるのが先か、ハルが私の正体にたどり着くのが先か。……未来人くんなら、それくらい楽勝でしょ?』
彼女の挑戦的な、けれどどこか楽しそうな声が、夜の静寂を震わせる。
「……勝負、ね。いいよ。その挑戦、受けてやる。その代わり、手がかりはちゃんと残せよ。君の筆跡が汚くて読めないなんてオチは無しだ」
『ひっどーい! 私、字は綺麗なほうなんだからね! よし、約束だよ。じゃあね、ハル。また明日。……あ、そっか。ハルのところには、私の「明日」はもう、通り過ぎちゃってるんだっけ?』
「……ああ。君の言う『明日』は、僕にとってはもう十年前の、ただの過去だ」
理屈では分かっていても、口にすると喉の奥がざらつくような感覚があった。
「そもそも、なんで今更繋がったのかさえ分かってないんだ。……たまたま、何かの間違いで波長が合っただけかもしれないし」
僕は手の中にある、色あせたピンクのストラップを見つめた。 この電話に出るまで、僕は彼女の存在すら知らなかった。ストラップを持っていたから繋がったわけじゃない。ただ、夜の静寂の中で、僕のスマホがふとした拍子に彼女の「今」を拾い上げてしまった。そんな、名前の付けようがない偶然としか思えない。
「……明日、もしこの電話がただの『非通知の履歴』に戻ってたら。この勝負、僕の不戦敗か?」
『えー、そんなの勝手に終わらせないでよ! もし声が届かなくなっても、手紙はあるでしょ? ハルが退屈しないように、これから一生分、いっぱい書いてあげるから。…ね?」
アオイがそう言って、少しだけはにかむような沈黙が流れた。 スピーカーから漏れる微かなノイズすら、十年の時間を隔てているとは思えないほど近くに感じていた、その時。
『あ! やば! 友達と待ち合わせしてたんだった!』
スピーカーの向こうで、アオイが唐突に声を上げた。それまでのしっとりとした空気を吹き飛ばすような、いかにも彼女らしい慌てぶりだ。
『もともとこの電話だって、友達にかけようとして間違えてかかっちゃったんだよー! 全然違う番号に繋がるし、未来人とか言い出すし、もうパニックで忘れてた!』
「間違い電話かよ。……感動を返せ」
『ごめんってば! でも、そのおかげでハルに繋がったんだから結果オーライでしょ? 遊びすぎた、もう行かなきゃ。絶対怒られるー!』
「おい、勝負とか言っておいて……」
『大丈夫、覚えてるから! 明日、絶対にあの場所に「一通目」を隠しておくからね。……あ、でもハルにとっては、今行けばもうあるのか? あれ、ややこしいな、もう!』
彼女は自分自身にツッコミを入れながら、ガサゴソと荷物をまとめる音を響かせている。
「急ぎなよ。友達を待たせてるんでしょ」
『はーい! じゃあねハル、またね! ……あ、最後に一つだけ。未来の私に会えたら、あんまり甘やかさないでって言っておいて。今の私が調子に乗っちゃうから!』
「……会えるかどうかも分からない相手に、そんな伝言頼むなよ。だいたい、頑張らなきゃいけないのは『未来の君』じゃなくて、『今の君』だろ」
呆れたように放った僕の言葉に、受話器の向こうから『わ、手厳しい!』と弾んだ笑い声が返ってきた。
受話器の向こうから『アオイ、遅ーい!』という別の少女の声が遠くに聞こえ、続いてアオイの『ごめんってばー!』という明るい叫びが重なった。
プツリ、と。 短い電子音と共に、通話が切れた。
スマホの画面には「非通知」の文字だけが残り、再び夜の静寂が戻ってきた。 アオイは友達にかけようとして、なぜか「非通知」で、しかも「十年後の僕」に繋いでしまった。その理由は、今はまだ暗闇の中だ。
僕は駅前の喧騒の中に立ち尽くし、手の中にあるストラップの、ひどく冷たくなった感触を確かめた。耳の奥にはまだ、彼女がカバンを揺らして走り去る、キーホルダーの重なり合う微かな金属音だけが残っていた。
明日。 僕はもう一度、あの公園へ向かうだろう。 十年前の彼女が「明日」置くはずの、そして僕にとっては十年前からそこにあるはずの「最初の手紙」を求めて。
冷たい夜風が、二〇二六年の街を通り抜けていく。 僕たちの、理由も正体も分からない奇妙な「勝負」は、今、始まったばかりだった。




