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第9章 藁の下

中庭の石畳に、霜が降りていた。


夜半を過ぎて、昼のあいだに緩んだ雪が、また凍り始めていた。踏むと、靴の下で薄い氷が割れた。井戸の釣瓶は、縄ごと凍って、桶の口に白い縁ができていた。空に月はなかった。厩の二階の窓だけが、ほんの少し、中より外のほうが明るかった。


俺は手燭を一つ持っていた。火は、まだつけていなかった。


厩の戸は、閂がかかっていなかった。雑役の亜人たちが夜中に出入りするからだ。戸を押すと、馬の匂いと、藁の匂いと、古い木の匂いがした。組合の馬は二頭で、二頭とも、暗がりの中で耳だけをこちらへ向けた。


二階へは、厩の奥の狭い階段で上がる。


一段目を踏むと、軋んだ。


三年前の冬、太い靴がここを上り下りした。給仕の娘は、二階の廊下の奥の部屋で、その軋みを聞いた。俺は一階のカウンターで豆を浸けていて、何も聞かなかった。


いまは、俺の靴が軋ませていた。俺の靴は、太くない。それでも階段は、同じように軋んだ。


*


厩の二階は、天井が低かった。


梁の上に、黒い塊が一つあった。鴉人のコルだ。羽根に頭を埋めて、眠っていた。梁の上で寝るのが好きなのだ。高いところで寝ると、夢を見ないのだそうだ。


窓の下に、ドゥンが丸くなっていた。土竜人で、目が弱い。暗いところのほうが落ち着く、と前に言っていた。俺が階段を上がりきったとき、ドゥンの指が、床の上で少しだけ動いた。床の震えで、人が来たのを知ったのだろう。起きはしなかった。


戸の脇の寝床は、空いていた。夜番のない夜は、ヴェイは下の谷の家に帰る。


いちばん奥の藁に、ザザがいた。


藁の上に、細長い体を伸ばして横たわっていた。寒い夜の蜥蜴人は、体が遅い。ザザは動かなかった。ただ、目が開いていた。暗がりの中で、ザザの目だけが、手燭の火もないのに、少し光っていた。


ザザには、熱が見える。人の体の温かいところが、明るく見えるのだそうだ。俺が厩の戸を押したときから、ザザには俺が見えていたはずだ。


俺は手燭に火をつけた。小さな火だった。ザザの目が、火のほうへ細くなった。


俺は、ザザの寝床の前に、膝をついた。


「ザザ」と俺は言った。「あなたの寝床の下に、何かありますか」


ザザは、瞼を下から上へ閉じて、開いた。


「ある。私は、その上で三年寝ている」


俺は、それ以上訊かなかった。


誰が置いたのか。いつ置いたのか。なぜ黙っていたのか。訊けば、ザザは答える。ザザは嘘をつけない。訊かれたことには、本当のことを答える。


だが、誰が置いたかは、三年前の冬に、給仕の娘の耳がもう教えてくれていた。俺はそれを聞いて、閂を確かめて、寝た。


なぜ黙っていたのか、は訊くまでもない。誰も訊かなかったからだ。三年間、この街の誰一人、蜥蜴人の掃除番に、寝床の下のことを訊かなかった。俺も含めて。


*


「どいてもらえますか」と俺は言った。


ザザは、動かなかった。


一つ、数えた。二つ、数えた。三つ目で、ザザが言った。


「どけと言われれば、どく」


「どいてください」


ザザの体が、ゆっくりと藁の上を滑った。寒い夜の蜥蜴人の動きは、雪解けの水が樋を伝うくらいに遅い。三拍遅れて、ザザは寝床の脇へどいた。どいて、また藁の上に横になった。目は、まだ開いていた。


俺は藁をどけた。


藁の下の床板は、古い松の板だった。何枚も並んだ板のうち、一枚だけ、隣の板とのあいだの隙間が、指一本分広かった。


指を入れた。


油紙に触れた。


引き出すと、油紙で包んだ、薄い帳面が出てきた。紐で十字に縛ってあった。紐の結び目は固かった。何年も、誰もほどいていない結び目だった。


いや、違う。


結び目の脇に、もう一つ、新しい結び目があった。古い紐の上から、別の紐で縛り直してある。何度か、ほどいて、縛り直したらしかった。


俺は紐をほどいた。


*


表紙のない帳面だった。綴じてある紙は十二枚。


最初の頁を、手燭の火にかざした。


細い、縦長の、几帳面な字だった。一画ずつ、定規で引いたような字だ。三年前の冬、帳場でこの字を見た。前の組合長の後ろで、帳面を胸に抱えていた姪の、イゾルデの字だった。


『三〇九年 秋 参事ブラント 金貨六枚 済』


『三〇九年 師走二十九日 参事ブラント 金貨八枚 済』


師走の二十九日。三年前の冬の、その夜を、俺は覚えている。灰色の毛皮の襟の男が、奥の席で蒸留酒を頼んで、口をつけなかった。前の組合長が、ため息をつきながら、革の袋の中を数えた。給仕の娘が、杯を拭きながら言った。金貨が八枚。


頁をめくった。


『三一〇年 睦月 参事ブラント 金貨十枚 参事ザイデル 金貨三枚 参事ホルン 金貨三枚 済』


名前が、三つになっていた。


ブラント。勘定方の参事だ。ザイデル。上町の旧家の当主で、参事会の古株だと聞いている。ホルン。治安方の参事。隊を預かる、隊長の上役だ。


四季ごとに、三人の名が並んでいた。春、夏、秋、冬。年が変わると、額が上がった。三一一年には、ブラントに十五枚。ザイデルとホルンに四枚ずつ。三一二年の弥生には、ブラントに二十枚。文月と長月には、二十五枚。


余白に、ところどころ、別の字があった。


太い、押しつけるような字だった。毎年、春の欄の脇に、同じ言葉が書いてあった。


『席は春』


三一二年の弥生の欄だけ、こうなっていた。


『席は春 必ず』


前の組合長の字だった。参事会の席が、春の改選で一つ空く。毎年、そう言われていたのだろう。毎年、春は来て、席は空かなかった。


*


最後の頁を、めくった。


一行だけ、書いてあった。


『三一二年 霜月朔日 石の件 懸賞金ののち 参事ブラント 金貨百枚』


済、の印はなかった。


前の組合長が夫人の石を盗ませた件の、懸賞金の分け前だった。払われることは、なかった。


俺は帳面を閉じなかった。開いたまま、膝の上に置いて、頭の中で勘定をした。


三年と少しのあいだに、三人の参事に払われた顔代は、金貨二百七十枚。払われなかった約束が、百枚。


前の組合長は、二百七十枚払って、席を一つも買えなかった。


*


手燭の火が、少し揺れた。


この紙一枚で、何ができるか。


勘定方の参事を、議席から引きずり下ろせるかもしれない。治安方の参事も、旧家の当主も。隊長の非番は、明日にも解けるかもしれない。三十年分の帳面をさかのぼっている監査役を、止められるかもしれない。


それから、この紙一枚で、何をすべきでないか。


雇われの酒場番が、参事三人の首に手をかけて、いいことはない。酒場番の名は、どこの帳面にも載っていない。載っていない者が、帳面を振りかざすと、次に帳面を調べられるのは、その酒場番のほうだ。


俺は、帳面を油紙で包み直した。紐で縛った。新しい結び目のほうで。


ザザが、藁の上から俺を見ていた。


「持っていくのか」


「借ります」


「返すのか」


俺は、少し考えた。


「返すかどうかは、私が決めることではありません」


ザザは、それには何も言わなかった。訊かれていないからだ。瞼を下から上へ閉じた。今度は、開かなかった。


俺は藁を元に戻した。ザザの寝床の形に、なるべく近く。


包みを、懐に入れた。


階段を下りた。一段目で、軋んだ。最後の段で、また軋んだ。


中庭に出ると、霜の上に、俺の足跡が一筋ついていた。行きの分と、帰りの分。


見上げると、組合長の部屋の窓に、まだ灯がついていた。


天井の七歩は、まだ鳴っているらしかった。


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