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第10章 二十三年前の朝

夕べの祈りの、六つの鐘が鳴った。


如月の十六日。鐘が鳴り終わると、軒の水の音だけが残った。昼のあいだに緩んだ雪が、夕方になってまた固まり始めていて、樋の口から落ちる水は、だんだん間遠になっていた。ちん、と鳴る。しばらく鳴らない。


客のいない刻だった。


俺は杯を拭いていた。懐には、油紙の包みが入っていた。ゆうべから、ずっとそこにあった。誰にも見せていなかった。


表の扉が開いて、隊長が入ってきた。戸口で、少しかがんだ。茶色の外套に、灰色の襟巻き。


すぐあとに、裏口からトマスが入ってきた。


「呼ばれたっす」とトマスは俺に言った。それから隊長を見た。「隊長に」


隊長は、カウンターの丸椅子に座った。トマスに、隣の丸椅子を顎で示した。トマスは座った。今度は、直立しなかった。


「麦酒を一つ。こいつには白湯を」と隊長は言った。銅貨を五枚、並べた。「只酒は、飲ませるほうも出される」


俺は麦酒を一つと、白湯を一つ出した。


*


「明日には、帳面がその頁に届く」と隊長は言った。


トマスは、杯を握っていた。


「その前に、お前に聞かせておく。帳場の小僧が、人づてに聞くのは癪だ」


隊長は、麦酒を一口飲んだ。


「二九〇年の、弥生の十二日だ。朝六つ。北門。雪が残っていた」


それから、隊長は話した。


短い話だった。隊長は、言葉を飾らなかった。一つずつ、置くように話した。


*


上町の屋敷で、銀の杯が一つ、なくなった。


その屋敷で洗い物をしていた灰狼の女がいた。女が盗んだという証は、なかった。盗まなかったという証も、なかった。ただ、その杯を洗ったのは女だった。


貴人の館で起きた罪に関わった亜人は、罪の有無にかかわらず、夜明けの開門とともに北門から追放される。灰壁の掟だ。掟は罪を量らない。関わったかどうかだけを量る。


女は、北門へ連れていかれた。


隊員が五人ついていた。班長と、隊員が四人。隊長は、その四人のうちの一人だった。二十三歳で、隊に入って四年目だった。


「隊で、いちばん背が高かった」と隊長は言った。「いまもそうだが」


門の前に、子どもがいた。


女の子どもだった。小さかった。八つくらいだったと、隊長は言った。子どもは、母親の外套の裾をつかんで、離さなかった。谷の者が何人か来ていて、子どもを引き離そうとした。子どもは、離さなかった。


母親の外套は、煤けた緑色だった、と隊長は言った。


開門の刻が来た。門番が閂に手をかけた。子どもは、まだ離さなかった。


班長が言った。


離れんなら、離させる。


班長の名は、ヴォルフ・ハーゲンといった。三十代の、大柄な男で、隊でいちばん槍が上手かった。ハーゲンは、短い槍を逆さに持った。穂先を上に、柄を下に。柄で、子どもの腕を打とうとした。打って、指を開かせようとした。


ハーゲンは、槍を頭の上に振りかぶった。


隊長は、ハーゲンの斜め後ろにいた。


「ほかの者は、ハーゲンの腕にしか届かなかった」と隊長は言った。「腕をつかんでも、あの男は振りほどく。頭の上の柄には、誰も届かなかった」


「届いたのは、私だけだった」と隊長は言った。「背が高かったからだ」


隊長は、柄をつかんだ。


ハーゲンが、振りほどこうと引いた。槍が、隊長の手の中で回った。上にあった穂先が、下りてきた。


穂先が、隊長の左の耳の下から、口の端へ、滑った。


それだけだった。


血は、雪の上に落ちた。


隊長は、柄を離さなかった。ハーゲンは、槍を取られて、雪の上に尻餅をついた。


そのあいだに、谷の者たちが、子どもを母親から引き離した。子どもは、谷の者の腕の中で、まだ手を伸ばしていた。


門が開いた。


母親は、一人で北門を出ていった。振り返ったかどうかは、隊長は見ていなかった。


*


門の内側に、灯火教会の修道女が一人いた。


追放の朝には、教会の誰かが門に来て、出ていく者に黒パンを渡す。その朝の修道女は、もう黒パンを渡し終えていた。修道女は、雪の上に膝をついて、隊長の頬に手を当てた。灯の術で、傷を閉じた。


閉じたが、痕は残った。


修道女は、何も訊かなかった、と隊長は言った。何があったのかも、誰の槍だったのかも。傷を閉じて、手袋をはめ直して、帰っていった。


上役の得物に手をかけた者は、隊を出す。


掟の一つ目だ。


詰所に戻ると、帳場の男が、見舞金の綴りを開いた。四十前の、まだ髪の黒い帳場だった。帳場は、何も訊かずに書いた。


『訓練中の事故 隊員マグダ 頬 見舞金 銀貨十枚』


ハーゲンが、その横に、名を書いた。


「ハーゲンは、そのあと隊長になった」と隊長は言った。「私を、跡目に推した。推して、隠居して、三年後に胸の病で死んだ」


隊長は、麦酒を一口飲んだ。


「子どもの顔は、覚えていない」


杯を置いた。


「手が、小さかった」


*


店の中で、軒の水が一度だけ鳴った。


トマスは、杯を握ったまま、動かなかった。白湯は、一口も減っていなかった。


それから、トマスは言った。


「隊長、転んだって、言ったっす」


隊長は、トマスを見た。


「転んだのは、ハーゲンのほうだ」と隊長は言った。「槍を取られて、尻餅をついた」


隊長は、片側だけで笑った。


トマスは、笑わなかった。笑っていいのかどうか分からない顔をしていた。それから、少しだけ、口の端が上がった。隊長の笑い方が、うつったようだった。


*


隊長は、外套の喉元に手をやった。


紐の結び目を、ほどいた。ほどいて、少しのあいだ、紐の両端を指に持っていた。灰色の外套なら、そこに鉄の留め金がある。上の一つを外すと、隊長は隊長でなくなる。


茶色の外套には、外す留め金がなかった。


隊長は、紐を結び直した。


「春の議までに、私は隊長じゃなくなるかもしれん」


トマスが、顔を上げた。


「それならそれで」と隊長は言った。「予算が一人分浮く」


トマスは、指を折り始めた。


隊長の給金は、月に金貨五枚。年に、六十枚。トマスの指が、カウンターの上で、五を十二回――


「トマスさん」と俺は言った。


トマスは、指を止めた。


それから自分の指を見て、隊長を見て、真っ赤になった。


隊長は、今度は声を出して笑った。短く、一度だけ。


*


七つ半の鐘が鳴る前に、隊長は帰った。


麦酒の代金は、最初に五枚置いてあった。白湯の代金は、この店では取らない。トマスは、隊長の背中に頭を下げた。


隊長は振り返らなかった。戸口で、少しかがんだ。


トマスも、隊長のあとを追うようにして帰った。白湯は、半分残っていた。


俺は、杯を二つ下げて、洗った。


懐の中で、油紙が、乾いた音を立てた。


俺はそれを、まだ誰にも見せていなかった。隊長にも。


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