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第11章 一行

その夜、十の鐘が鳴って、少ししてから、俺は二階へ上がった。


客はまだ何人か残っていた。ダリオが窓際で寝ていた。俺はカウンターの灯を一つ落として、階段を上がった。


組合長の部屋は、酒場の真上にある。扉の前に立つと、中の足音が聞こえた。七歩、歩いて止まる。引き返して、七歩。


俺は扉を叩いた。


足音が、止まった。


少しして、扉が開いた。エーリカが立っていた。灰色がかった栗色の髪を、首の後ろで一本に編んでいる。寝支度はしていなかった。部屋の奥の机の上に、灯が一つと、紙が何枚か広げてあった。壁に、弦を外した長弓が立てかけてあった。


「マスター」


「夜分に失礼します」


俺は懐から、油紙の包みを出した。


「組合の建物で見つかった、組合の物です」


エーリカは包みを見た。受け取らずに、俺を見た。


「どこで」


「厩の二階で。ザザの寝床の下に」


エーリカは、少しのあいだ、何も言わなかった。


それから包みを受け取った。重さを手で量るように、一度だけ手のひらの上で揺らした。それから、扉を大きく開けた。


「入ってください」


*


エーリカは、机の上の紙を脇へ寄せて、包みを置いた。紐をほどいた。新しいほうの結び目から。


帳面を開いた。


灯の下で、エーリカの目が、行をたどっていった。


狩人の目、と前に誰かが言っていた。足跡や、紙の上の筆の跡を見て、覚える目だ。エーリカは昔、弓を持って組合にいた。そのあと、参事会の書記を長く務めた。参事の名も、参事会の帳面の字も、俺よりずっとよく知っている。


エーリカは一頁ずつ、ゆっくりめくった。めくるたびに、指が行の頭で止まって、行の終わりまで動いて、次の行の頭に戻った。


途中で、何度か指が止まった。どの頁で止まったのかは、俺の立っているところからは見えなかった。


俺は戸口の近くに立っていた。机の上は、俺の立っているところからは、灯の陰になって見えなかった。


「マスター」とエーリカは言った。顔は上げなかった。「これを、ほかに見た人は」


「ザザと、私です」


「ザザは、中を」


「ザザが字を読むかどうか、私は訊いたことがありません」


エーリカは、ようやく顔を上げた。


「どうして、わたしに」


「組合の建物で見つかった、組合の物ですから」


それは本当のことだった。本当のことしか、言わなかった。


エーリカは、俺の顔をしばらく見ていた。何を見ているのかは、分からなかった。分からないまま、エーリカは目を机に戻した。


*


エーリカは、引き出しから新しい紙を一枚出した。


羽根ペンを取って、インク壺に浸した。


一行だけ、書いた。


帳面のどの行を写したのかは、俺には見えなかった。エーリカの背中と、灯の陰になった紙と、動くペンの先が見えただけだ。ペンは、一行分だけ動いて、止まった。


エーリカは紙を三つに折った。


机の端の小さな燭台で、封蝋を温めた。赤い蝋が、灯の煤を吸って、少し黒ずんだ。蝋を紙の合わせ目に垂らして、組合の印を押した。釘を三本、交差させた印だ。


封をした紙を、机の上に置いた。帳面は、油紙で包み直した。紐を、また新しいほうの結び目で縛った。


「ありがとうございました、マスター」とエーリカは言った。


それだけだった。何を写したのかも、誰に送るのかも、言わなかった。


俺は、おやすみなさい、と言って、部屋を出た。


扉が閉まった。廊下で少し待ったが、七歩の足音は、もう始まらなかった。


*


翌朝、如月の十七日。朝六つ半。


俺は、中庭の井戸の釣瓶の氷を、湯で溶かしていた。


厩の戸が開いて、エーリカが出てきた。厩に入ったところは見ていなかった。夜明け前に、もう入っていたのかもしれない。左の足から、厩の前の段を下りた。


エーリカは中庭の真ん中に立って、厩の梁のほうを見上げた。


「コル」


梁の上で、黒い羽根が動いた。コルが、厩の二階の窓から顔を出した。


エーリカは、懐から封をした紙を出して、掲げた。


「ブラント参事に。返事は要らない」


コルは窓から中庭の塀へ下りた。エーリカの手から封書を受け取った。黒い目が、封蝋の印を見た。


「ブラント参事に。返事は要らない」


一字も盛らずに、コルは復唱した。それから、塀の上へ、塀から屋根へ上がっていった。屋根伝いに、上町のほうへ消えた。


エーリカは、もう一度厩に戻っていった。手に、油紙の包みを持っていた。


俺は、釣瓶を桶に下ろすふりをして、厩の戸のほうを見ていた。


厩の二階から、エーリカの声が、小さく聞こえた。


「ザザ。もう少し、その上で寝てくれる?」


少し間があって、ザザの声がした。


「寝る」


*


その日の夕方五つ、トマスが来た。


裏口からではなく、表の扉から、走って入ってきた。灰色の外套の前が、半分開いていた。息を切らしていた。


「マスター」


「どうしました」


「止まったっす」


トマスは、カウンターに両手をついた。


「監査、止まったっす」


トマスは、話した。話しながら、ときどき息を継いだ。


今朝、監査役は、とうとう二九〇年の綴りに届いた。監査役のカスパルは、帳場の机の上で綴りをめくって、弥生十二日の頁で、指を止めた。


『訓練中の事故 隊員マグダ 頬 見舞金 銀貨十枚』


カスパルは、その行を指で叩いた。


それから、帳場の机の脇に立っていたトマスに、訊いた。


「おい。この見舞金、間違いないか」


「訓練中の事故って、書いてあるっす」とトマスは答えた。


カスパルは、トマスの顔を見た。


「門番日誌と照らしたか」


「門番日誌は、北門の棚っす」


カスパルは舌打ちをして、北門の番小屋へ人を走らせようとした。走らせる前に、昼の鐘が鳴った。


昼の鐘のあとで、参事会の使いが詰所に来た。


監査は、取り下げ。帳場の写しに足りぬところがあり、出し直させる、と。


使いは、もう一枚、紙を持っていた。治安方ホルン参事の名で。隊長の非番は、今日で解く。


カスパルは、綴りを閉じて、帳場を出ていった。何も言わなかった。


「それと、削り案が、出し直しになったっす」とトマスは言った。「遺族扶持の行は、残るっす。削るのは、雑費の行と、灯油と薪と、装備と修繕から」


トマスは、そこまで言って、ようやく息をついた。


それから、少し胸を張った。


「書いてあるっす、って言ったっす」


「聞きました」と俺は言った。


「書いてあるっす、って」トマスは、もう一度言った。「嘘は、ついてないっす。書いてあるんだから。北門の棚にあるんだから」


三度目には、すっかり得意げになっていた。


それから、トマスは外套の前を、手で押さえた。


押さえた手の下で、紙が鳴った。


「写しは、ここにあったっす」とトマスは言った。声が、少し小さくなった。「門番日誌の写し。あのとき、懐に」


俺は杯を拭く手を止めた。


「照らしたかって、訊かれたっす。持ってるかとは、訊かれなかったっす」トマスは外套の上から、紙の角を指でなぞった。「だから、棚の話をしたっす。棚にあるのは、本当だから」


トマスは、もう得意げではなかった。


「隊長のやり方っすね、これ」


俺は答えなかった。答えなくても、トマスには分かっているようだった。


俺は瓶から卵を一つ出して、小皿に載せた。


「代金は、給金の日に」


トマスは卵をかじって、それから、ふと手を止めた。


「マスター。誰が、止めたんすかね」


「さて」と俺は言った。


*


トマスが帰ったあと、裏口が鳴った。


コルが、梁へ帰る前に、厨房の鍋を覗きに来たのだった。今朝、上町まで走って、戻ってきて、それから昼のあいだはずっと、隊の走りをしていたらしい。


「コル」と俺は言った。「今日は、隊の走りはありましたか」


コルは首をかしげた。黒い目が、灯を映した。


「あった。三回」


それから、続けた。訊かれたことの、続きだった。


「隊の伝令の銅貨は、春から出ない。今日、そう言われた」


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