第12章 隊長の非番
それから、八日たった。
如月の二十五日。治安維持隊の、給金の日だ。
給金の日の夜は、店が騒がしい。月に一度、懐の温まった隊員たちが、灰色の外套のまま、下町の酒場に散らばる。錆び釘亭にも、六、七人来た。冒険者たちと隊員たちが、同じ店で、別々の卓に固まって飲む。たまに卓をまたいで冗談が飛ぶ。たまに飛ばない。
銅貨の音が、店のあちこちで鳴っていた。
窓際の卓では、ダリオが隊員たちに、黒猫の尾の賭け札の話をしていた。上町の見習い騎士から銀貨十五枚を取り立てた話だ。もう三度目らしかった。三度目にもなると、取り立てた額が少しずつ増えていた。
「十五枚だろう」と隊員の一人が言った。
「酒が入ってるから、十八枚だ」とダリオは言った。
組合の剣士は、酒が入ると、建物の中でも嘘がつける。ダリオは堂々と、十八枚の話を続けた。
その隣の卓で、フィンが白湯を飲んでいた。給金の日でも、フィンは酒を飲まない。飲まない理由を訊いたことはない。訊けば、たぶん、真面目な答えが返ってくる。
九つの鐘のころ、裏口からトマスが来た。
灰色の外套の内側から、銅貨を出して、カウンターに並べた。一枚ずつ。数えながら。
八枚あった。
「十日の一つと、十五日の一つと、十七日の一つっす」とトマスは言った。「それと、今日の一つ」
給金の日ではない日に食べた卵が三つ。今日の分が一つ。一個銅貨二枚。
俺は、八枚を受け取った。
「隊の掟に、ツケは何枚までとは、書いてありませんでしたね」
「書いてないっす」トマスは真面目な顔で言った。「でも、オスカーさんに怒られるっす。帳面のつかない借りはするなって」
俺は瓶の蓋を開けて、卵を一つ出して、小皿に載せた。
トマスは卵をつまんで、一口でかじった。かじって、目を閉じて、噛んだ。それから目を開けて、残りの半分を見た。給金の日の卵は、ほかの日の卵より、うまいらしい。
*
表の扉が開いた。
戸口で、背の高い女が、少しかがんだ。
灰色の外套だった。治安維持隊の外套だ。足もとは、鉄を打った靴。胸当ては着けていなかった。腰の棍棒もなかった。勤めは、もう明けたのだろう。
外套の喉元に、鉄の留め金が二つ並んでいた。
二つとも、留まっていた。
店の中の隊員たちが、杯を置いて、一斉に背筋を伸ばした。隊長は手を一度だけ振った。振っただけで、隊員たちは杯に戻った。
トマスは、丸椅子から立ち上がりかけた。立ち上がりかけて、椅子の脚に足を取られた。椅子が傾いて、トマスの体が傾いて、トマスはカウンターの縁にしがみついた。小皿の上の卵の半分が、転がりかけて、止まった。
隊長は、トマスの横の丸椅子に腰を下ろした。
「転ぶなよ」と隊長は言った。
トマスは真っ赤になって、座り直した。
*
隊長は、カウンターの上に、銅貨を五枚並べた。
「麦酒を」
「はい、隊長」
今日は、隊長は訂正しなかった。
俺は麦酒を注いだ。隊長は杯を受け取って、一口飲んだ。杯を置いた。
それから、外套の喉元に手をやった。
上の留め金を、一つ、外した。
隊長は、たぶん気づいていない。気づいているのは、たぶん俺だけだ。上の留め金が外れると、隊長は隊長でなくなる。口ぶりが、少し崩れる。
「酒場番」と隊長は言った。「樽は、まだか」
去年の暮れに、この店に大きな樽が一つ届いた。南の葡萄酒の中樽だ。上町の夫人から、組合長の着任祝いに。栓は、春の議のあとまで抜かないことになっている。
「春の議のあとです」と俺は言った。
「そうだったな」隊長は、もう一口飲んだ。「あれは三人への贈り物だ。私の分は、只酒じゃない」
「掟に照らしても」
「掟に照らしても、だ」
隊長は、片側だけで笑った。
*
隊長は、監査が誰に止められたのかを、訊かなかった。
訊かずに、一度だけ、天井を見上げた。
この店の真上は、組合長の部屋だ。床板が薄い。上で人が歩けば、下でよく聞こえる。
今夜は、鳴っていなかった。
隊長は、天井から目を下ろして、杯を持ち上げた。何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。隊長は言う真実を選ぶ人だ。選ばなかったものは、言わない。俺のほうは、選ぶものが初めから少ない。
*
裏口が鳴った。
コルだった。給金の日の店の騒がしさを避けて、梁へ帰る途中に、厨房の鍋を覗きに来たのだ。ハクとチィの分の、裏口のスープは、もう出し終わっていた。
コルは裏口の内側に立って、店の中の隊員たちを見た。隊員たちは、コルを見なかった。
隊長は、コルを見た。
「春から、走りの銅貨が出ないそうだな」
コルは首をかしげた。
「出ない。そう言われた」
「雑費の行だ」と隊長は言った。「勘定方の出し直しの案で、消えた。遺族扶持は残った。雑費は残らなかった」
トマスが、卵を持ったまま、隊長を見た。
隊長は、杯を見ていた。
「全部は守れない」と隊長は言った。「予算で飯を食ってる」
それから、外套の内側から財布を出した。
銅貨を二枚、つまんだ。
隊長は、それを、厨房の上の梁へ放り上げた。銅貨は二枚とも、梁の上で一度跳ねて、止まった。コルが、裏口から梁へ、羽根を一度だけ鳴らして上がった。
「伝令の手間賃だ」と隊長は言った。「一回分」
コルは、梁の上で銅貨を拾った。黒い目が、灯を映した。
「受け取る。一回分、走る」
卵一つ分の銅貨で、春からの行は埋まらない。
誰も、それを言わなかった。
*
隊長は、麦酒を飲み干した。
杯を置いて、立ち上がった。立ち上がると、頭が梁に近い。梁の上のコルと、目の高さが少し近くなった。
「酒場番。邪魔をしたな」
「いいえ」
「次は、勤めの途中に寄る」隊長は言った。「白湯で」
隊長は、外した留め金に指をかけた。
留め直さなかった。
外したまま、戸口へ歩いていった。戸口で、少しかがんだ。それから、外套の喉元で、上の留め金を、ちかりと鳴らして留めた。
扉が閉まった。
トマスが、卵の残りの半分を口に入れた。店のあちこちで、また銅貨の音がし始めた。
梁の上で、コルが銅貨を二枚、指で並べ直していた。
天井は、まだ鳴っていなかった。




