第8章 帳面は破らない
オスカーは、カウンターの前まで来て、丸椅子を一つ引いた。
座る前に、トマスを見た。
「小僧。外で卵でも食ってこい」
トマスは、外套の内側を探る手つきをして、止まった。銅貨を持っていないのだ。給金の日は、まだ十日先だ。
俺は瓶の蓋を開けて、卵を一つ出して、小皿ごとトマスに渡した。
「表の樽の上で、どうぞ。代金は給金の日に」
トマスは小皿を受け取って、隊長を見て、オスカーを見て、それから黙って表の扉から出ていった。扉が閉まると、軒の水の音が少し遠くなった。
オスカーは、ようやく丸椅子に腰を下ろした。それから、額に手をやった。眼鏡を探しているらしかった。眼鏡は、さっき目の前に下ろしたまま、鼻の上に載っていた。指が額をなぞって、そこにないと分かって、鼻の上にあると気づいた。
オスカーは、何事もなかったように、眼鏡の位置を直した。
「酒場番さん。白湯を一杯、もらえるかね」
「はい」
白湯を出した。オスカーは両手で杯を包んだ。指のインクの染みは、何十年分も重なって、皮膚の色の一部になっていた。
*
「監査役は、いま二九二年あたりだ」とオスカーは言った。
隊長は、麦酒の杯を見ていた。
「古い綴りは、字が薄い。紙が脆い。めくるのに手間取っとる。それでも、あさっての朝には、二九〇年の頁に届く」
オスカーは白湯を一口飲んだ。
「届けば、照らす。照らせば、分かる。あの監査役は、照らす男だ。帳面を照らすことしか、知らん男だ」
「照らすのは、悪いことじゃない」と隊長は言った。
「悪いことじゃない」とオスカーは言った。「わしも、三十一年、照らしてきた」
それから、杯を置いた。
「頁を破れば、済む」
店の中が、静かになった。
「綴りの紐をほどいて、あの一枚を抜いて、紐を締め直せば、誰にも分からん。三十一年分の綴りの中の、一枚だ。わしなら、半刻でやれる」
オスカーは、隊長を見なかった。カウンターの木目を見ていた。
「だが、帳面は、破らない」
それは、隊の掟の八つ目だった。トマスが四日前の夜に、この店で諳んじた。
「わしが書いた」とオスカーは言った。「それ以上は、隊長が言うことだ」
隊長は、何も言わなかった。
オスカーは、もう一度、白湯の杯を持ち上げた。持ち上げただけで、飲まなかった。
「隊長が言わんなら、わしも言わん。わしが書いたのは、訓練中の事故、だ。それだけだ」
*
俺は、杯を拭いていた。
隊の掟の一つ目を、思い出していた。上役の得物に手をかけた者は、隊を出す。
二十三年前、北門で、何かがあった。隊員が一人、頬を切った。その日の朝、訓練はなかった。帳面には、訓練中の事故と書いてある。
嘘の帳面だと分かれば、何が嘘だったのかを、照らす者は訊く。訊かれれば、隊長は、言う真実を選ぶだろう。選んでも、隠しきれないものは隠しきれない。
それに、嘘の帳面を書いた帳場が、帳場にいられるはずもない。
「オスカーさんも」と俺は言った。
「わしも、出される」とオスカーは言った。「帳面に嘘を書いた帳場は、帳場ではおれん。掟に書いてなくても、そうだ」
オスカーは、ようやく隊長を見た。
眼鏡の奥の目が、少し赤かった。年寄りの目は、いつも少し赤い。それだけかもしれなかった。
「マグダ」とオスカーは言った。
隊長の肩が、少しだけ動いた。
「わしは、あの朝の帳面を、一度も読み返しておらん。二十三年、一度もだ。三十一年分の綴りの中で、読み返しておらん頁は、あれ一枚だ」
隊長は、麦酒の杯を置いた。
「破るな、オスカー」
低い声だった。
「掟は掟だ」
オスカーは、長いあいだ隊長を見ていた。それから、うなずいた。うなずいて、また額に手をやった。眼鏡を探した。眼鏡は、鼻の上にあった。
今度は、すぐには気づかなかった。
*
オスカーと隊長は、六つ半の鐘のあとに、一緒に出ていった。
表の樽の上で卵を食べ終わっていたトマスが、二人の後ろについて帰っていった。小皿は、樽の上に置いてあった。洗ってはいなかった。
客が来始めた。冒険者たちが日暮れの腹を抱えて帰ってくる刻だ。俺は麦酒を注いで、煮込みをよそって、黒板の値段を一つ書き直した。
七つの鐘のころ、表の扉が開いて、白い手袋の老女が入ってきた。
灯火教会の修道女、アガタだ。月に一度、組合へ施療に来る。今日がその日で、昼のあいだに二階の書庫で冒険者たちの傷や咳を診て、夕べの祈りに一度大聖堂へ戻っていた。書庫に置いていった薬箱を、取りに寄ったのだった。
アガタは嘘をつかない。灯の前の誓願というもので、偽りを口にしない。それから、訊かないことにかけては、亜人よりも上手い。
アガタはカウンターの端に座って、白湯を頼んだ。白い手袋を、片方だけ外した。
湯気が、灯の前で立ちのぼった。
「広場で、隊長さんとすれ違いました」とアガタは言った。
「そうですか」
「冷える日は、痛みますかと訊きました」
俺は、杯を拭く手を止めなかった。
「予算ほどじゃない、と」
アガタはそれだけ言って、白湯を飲んだ。それ以上は何も言わなかった。俺も、何も訊かなかった。訊かないことにかけては、俺はアガタの足もとにも及ばない。及ばないなりに、訊かなかった。
アガタは白湯を飲み干して、手袋をはめ直して、帰っていった。代金に、銅貨を一枚置いた。白湯は代金を取らないことにしている、と言ったが、アガタは銅貨を引っこめなかった。
*
その夜、閉店したあとで、天井が鳴った。
この店の真上は、組合長の部屋だ。床板が薄い。上で人が歩けば、下でよく聞こえる。
七歩、歩いて止まる。引き返して、七歩。右の足だけ、少し軽い。
組合長も、眠れない夜らしかった。おととい、参事が二人来て、令状のない頼みごとをしていった。それを、丁寧に断った。断ったことを、たぶん今、窓から扉までの七歩のあいだで、もう一度勘定している。
夜半の鐘が鳴った。
十二打が鳴り終わっても、天井の七歩は続いていた。
俺は、カウンターの灯を一つだけ残して、裏口へ行った。
閂を、外した。




