第7章 古い帳面
翌日の夕方五つ、トマスは紙を三枚持ってきた。
如月の十五日。隊長は、カウンターの丸椅子にいた。茶色の外套で、麦酒の一杯目を半分ほど飲んだところだった。トマスは裏口から入ってきて、隊長を見て、直立しかけて、やめた。それから、外套の内側から、折りたたんだ紙を三枚出した。
古い紙だった。帳場の、使い残しの紙らしい。開くと、黴の匂いがした。
「写しっす」とトマスは言った。「監査役に出す前に、おれが写したっす」
「写して、いいのか」と隊長が訊いた。
「写しちゃいけないって掟は、ないっす」
隊長は、片側だけで笑った。
*
一枚目は、三年前の帳面の写しだった。
「監査役が、護衛の手当の証を出せって言ったんす。隊が出た仕事の手当は、全部、参事会の記帳と照らすって。それで、帳場の棚から、三年前の頭数改めの記帳の写しを出したっす」
トマスは、紙をカウンターの上に広げた。
『三一〇年 睦月十日 頭数改め 下町 錆び釘亭 給仕 一 灰狼 二 蜥蜴 一 土竜 一 改め役 カスパル 記 ヨーナス 護衛 治安維持隊長マグダ(判)』
三年前の冬、参事会は城内の亜人の頭数を改めた。改め役が戸口ごとに人を並べて、名と生まれを訊いた。この店にも来た。隊長が、護衛についてきた。
隊長は、紙を指で引き寄せた。
自分の名と判の写しのところを、しばらく見ていた。それから、その上の行に目を上げた。
錆び釘亭、給仕、一。
隊長が、笑った。
片側だけではなかった。傷のある頬も、少しだけ引きつれて上がった。声は出なかった。肩が、一度だけ揺れた。
「私の判で、兎が人間になってる」
俺は杯を拭いていた。
隊長は紙をトマスのほうへ戻した。笑いは、それで終わった。麦酒を一口飲んで、杯を置いて、それから世間話のように言った。
「酒場番。果物は、まだ剥いてるか」
「林檎の季節ではありませんが」と俺は言った。
隊長はうなずいた。それ以上は何も言わなかった。
*
トマスは、二枚目を広げた。
「これは、二十三年前の、見舞金の綴りっす」
『二九〇年 弥生十二日 訓練中の事故 隊員マグダ 頬 見舞金 銀貨十枚 記 オスカー 連署 班長ヴォルフ・ハーゲン』
隊長は、紙を見なかった。麦酒の杯を見ていた。
「監査役は、いま二九二年あたりっす」とトマスは言った。「この綴りは、まだ監査役に出してないっす。綴りの順番だと、あさってっす」
トマスは、三枚目を広げた。
三枚目には、二つ写してあった。上の半分はトマスの字だった。下の半分は、途中から字が急に上手くなっていた。線が、定規で引いたようにまっすぐだった。
「上は、北門の門番日誌っす」とトマスは言った。「おれ、北門の班にいたとき、番小屋の棚の古い日誌を、暇なときに読んでたっす。読んでいいって言われてたから」
きのうの昼、帳場の使いのついでに、北門の番小屋へ寄ったのだとトマスは言った。番小屋には、去年までトマスがいた班の仲間が二人いた。火鉢に手をかざしながら、帳場は暖かいかと訊かれて、寒いと答えたら笑われた。棚の古い日誌は、埃をかぶって、年ごとに紐でくくってあった。二九〇年の束の紐をほどくと、埃が火鉢に落ちて、ぱちぱちと鳴った。
「仲間は、何を写してるのかって訊かなかったっす」とトマスは言った。「帳場の使いだって言ったら、それで」
訊かれなければ、言わなくて済む。トマスはそれを、まだ自分では知らないようだった。
『弥生十二日 朝六つ 追放一 灰狼 女 洗濯 上町の件』
『同刻 隊員一 頬を切る 修道女手当て』
「下は、詰所の日誌っす。帳場の棚にあるっす。弥生十二日。その朝、訓練はやってないっす。隊員は全員、北門と町廻りに出てたって書いてあるっす」
トマスは、二枚目と三枚目を、カウンターの上に並べた。
同じ日付。同じ朝。
「同じ朝っす」とトマスは言った。「頬っす」
店の中に、軒の水の音がした。
隊長は、まだ紙を見ていなかった。
麦酒の泡が、杯の縁で一つずつ消えていくのを見ていた。泡が全部消えて、麦酒がただの琥珀色の水になるまで、隊長は杯から目を上げなかった。軒の水が、二度鳴った。三度目は、鳴らなかった。
トマスは、隊長の顔を見た。悪気のない若者の顔だった。悪気がないから、引き下がることも知らない。
「隊長、その傷」
「転んだ」と隊長は言った。
声は、五日前と同じだった。
*
トマスは、口を開けて、閉じた。
紙を三枚、重ねて、端をそろえた。それから、また開いた。重ねたり開いたりしているうちに、三枚目の上手な字のところで、指が止まった。
「この字は、どなたが」と俺は訊いた。
「オスカーさんっす」とトマスは言った。「おれが写してたら、横から筆を取って、直したっす。字が汚いって」
「写すのは、止めなかったんですか」
「止めなかったっす。直しただけっす」
隊長が、杯を置いた。
「オスカーは、帳面を見せるなとは言わない」と隊長は言った。「帳面は、見るためにある。見られて困ることは、帳面に書かない。そう言う男だ」
「でも、これは――」
トマスは言いかけて、やめた。
隊長は答えなかった。
表の扉が開いた。
客のいない刻だった。軒の水の音と一緒に、冷たい空気が入ってきた。戸口に、痩せた老人が一人、立っていた。
背が丸かった。外套の下の指に、インクの染みがあった。額に、眼鏡を上げていた。
老人は、店の中を見回して、それから額の眼鏡に気づいて、目の前に下ろした。
「錆び釘亭か」と老人は言った。「二十年ぶりだ。看板の錆が、増えとる」
トマスが、丸椅子から飛び上がるように立った。
「オスカーさん」
帳場のオスカーだった。




