第6章 前の組合長の夜
朝、卵を漬けた。
如月の十四日。毎朝、鶉の卵を十二個、殻をむいて、赤蕪の汁に沈める。汁は、朝の光の中で見ると、思っていたより薄い色をしている。夜の灯の下では濃く見える。同じ汁なのに、と思う。毎朝、そう思う。
殻をむきながら、きのうの昼のブラント参事の言葉を思い出していた。
前の組合長は、帳面の几帳面な男だった。姪に書かせてな。
それから、もっと前の夜のことを思い出した。
*
三年前の冬、この店に給仕の娘がいた。
兎の格好をした娘で、黒い胴着に網の靴下、白い付け襟、頭の上に白い耳が二本。客はみんな、バニーと呼んだ。耳のいい娘だった。壁の向こうの小声も、床の下の足音も、硬貨が何枚あるかも、聞き分けた。
その娘は、いまはこの店にいない。去年の秋に、出ていった。
三年前の冬の、ある夜半すぎのことだ。
俺は一人で、カウンターで翌日の豆を水に浸けていた。娘が二階から下りてきて、カウンターの端で頬杖をついた。耳が二本とも、裏口のほうを向いていた。
「あら、組合長さんは、夜に藁の中で何を数えてるの?」
組合長というのは、前の組合長のバルタザールのことだ。底の厚い、鋲を打った靴の男で、一歩ごとに石を判で捺すように歩いた。いまは詰所の牢にいる。
あの夜、娘は言った。組合長が、中庭の厩の二階に上がって、奥まで歩いて、しばらく止まって、また下りてきた、と。
厩の二階は、組合の雑役の亜人たちの寝床だ。そんなところに、組合長が夜中に上がる用はない。
俺には、何も聞こえなかった。俺の耳は人並みだ。
俺は裏口の閂を確かめただけで、厩へは行かなかった。組合長が夜中に何を数えていようと、雇われの酒場番の勘定には入らない。あの夜、俺はそう決めた。
三年、そのままにしてきた。
十二個目の卵を、汁に沈めた。瓶の蓋を閉めた。
*
昼、隊長が来た。
茶色の外套で、隅の席ではなく、カウンターの丸椅子に座った。麦酒ではなく、茶を頼んだ。
「ゆうべの若いのは、昨夜のうちに、黒猫の尾に札を持っていったそうだ」と隊長は言った。「親父が裁いて、銀貨十五枚、払わせた」
「ダリオさんは、喜ぶでしょう」
「三枚はもう飲んだそうだ」
隊長は茶を飲んだ。それから、何でもないことのように言った。
「ブラント参事は、二度、牢のバルタザールに会いに来た」
俺は杯を拭いていた。
「先月の末と、今月のはじめだ。私がまだ詰所にいたころだ。面会の帳面に名がある」
「差し入れは」
「持ってこなかった」隊長は茶の杯を両手で包んだ。「牢の食い扶持は、年に金貨七十枚だ。囚人が何人いても、七十枚。いちばんよく食うのはバルタザールだ。差し入れくらい持ってきてくれれば、こっちは助かる」
隊長は片側だけで笑った。
「面会のあと、バルタザールは機嫌がよかった」
「よく覚えておいでですね」
「面会の帳面には、毎晩、私が判を捺していた。名前は、判を捺すときに読む」隊長は茶の杯を回した。「姪のほうは、叔父の隣の牢で、毎日、紙をくれと言うそうだ。字を書いていないと、落ち着かないらしい」
それだけ言って、隊長は茶を飲み干した。
俺は、何も訊かなかった。隊長も、何も付け足さなかった。隊長は、言う真実を選ぶ人だ。選んだものしか、言わない。言わなかったものは、言わなかったのだ。
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隊長が帰ったあと、俺は帳場で、勘定をした。
数字の勘定ではない。
前の組合長は、帳面の几帳面な男だった。姪に書かせて。姪というのは、魔法使いのイゾルデのことだ。叔父の帳面を、細い几帳面な字でつけていた。いまは叔父と一緒に、詰所の牢にいる。
勘定方の参事が、牢の前の組合長に、差し入れも持たずに二度会いに来た。会ったあと、前の組合長は機嫌がよかった。機嫌がいいのは、何かを持っている者だ。持っているものを、相手が欲しがっていると知っている者だ。
同じ参事が、治安方の参事を連れて、令状もなしに、前の組合長の部屋を見たがった。
隠し財産、という言葉を使って。
その参事の番頭が、隊の帳場の三十年分の帳面を、さかのぼっている。
三年前の冬の夜。厩の二階。太い靴の足音。
並べてみると、勘定は合いそうだった。合いそうなだけで、合うかどうかは分からない。合ったとして、それが酒場番の勘定に入るものかどうかも、分からない。
家探しというのは、探すものを決めない。探しに来た者は、見つけたものを持って帰る。何を見つけるかは、探しに来た者が決める。
俺は帳場を閉じた。
*
*
八つの鐘のころ、裏口にヴェイの子らが来た。
上のハクは八つで、近ごろは大人ぶる。下のチィは五つで、右の足を少し外に向けて歩く。二人で小さな鍋を一つ、両側から持ってくる。ヴェイは今夜は夜番ではないから、家で待っているのだろう。
ハクは、俺が杓子でスープをよそうのを、一杯ずつ数えていた。
「三杯」とハクは言った。「きのうも三杯だった」
「きのうより、豆が多い?」とチィが訊いた。
「同じです」
「お礼を先に言え」とハクがチィの肘をつついた。
チィは鍋のほうを向いて、頭を下げた。
「ありがとうございます」
鍋に言ったのか、俺に言ったのか、分からなかった。どちらでもいいので、俺も、どういたしまして、と言った。二人は鍋を両側から持って、雪の中を帰っていった。鍋は少し傾いていた。ハクの側が高かった。
*
夜、十の鐘のころ、トマスが来た。
裏口からだった。灰色の外套の肩に、雪が少し積もっていた。トマスは裏口を閉めて、そこに立ったまま、しばらく動かなかった。
顔が、青かった。
「トマスさん」と俺は言った。「卵は、給金の日でしょう」
「卵じゃないっす」
トマスはカウンターまで来た。丸椅子には座らなかった。
「監査が、見舞金の綴りを、二九五年まで進めたっす」
「二九五年」
「八日から始めて、今日で二九五年っす。はじめは一日に三年ずつ。古いのは字が薄いから、だんだん遅くなってるっす。でも、止まらないっす」
トマスは、カウンターの縁を指で押さえていた。
「オスカーさんが、今日は一度も算盤を弾かなかったっす」
「一度も」
「三十一年、毎日弾いてた人が。今日は一日、綴りの背を指でなぞってただけっす。ずっと、同じところを」
トマスは、何を見たのかを、まだ全部は言わなかった。言いたくないのか、言っていいのか分からないのか。悪気のない若者でも、言わないことはある。
「明日、また来るっす」とトマスは言った。「見せたいものが、あるっす」
トマスは裏口から帰っていった。
俺は、裏口の閂を外した。
中庭に出た。雪は止んでいた。井戸の釣瓶が、凍って動かなかった。中庭の向こうに、厩があった。二階の窓は暗かった。
厩の中の階段を、見上げた。
狭い階段だ。踏むと軋む。三年前の冬、太い靴が、あれを上り下りした。
上らなかった。
まだ。




