第5章 非番の女
如月の十三日、昼すぎ。隊長は、隅の席で茶を飲んでいた。
昼から店にいたのは初めてだった。茶色の外套に、灰色の襟巻き。窓際のいちばん奥の、壁を背にした席だ。入口と階段と裏口が、全部見える席でもある。茶は銅貨二枚で、隊長は二枚を卓に置いていた。
昼すぎ二つの鐘が鳴って、少ししてから、表の扉が開いた。
男が二人、入ってきた。
一人は、痩せて背が高かった。灰色の毛皮の襟の外套に、薄い髪を後ろへ撫でつけている。上町の穀物商で、参事会の勘定方、ゲルハルト・ブラント参事だ。三年前の冬、一度だけこの店に来たことがある。蒸留酒を頼んで、口をつけずに帰った。
もう一人は、首が太かった。
背はそれほど高くないが、肩から首にかけてが一つの塊のようで、顎が襟に埋まっていた。外套の仕立ては上町のものだが、腰に剣は下げていない。歩くと、床がよく鳴った。
治安方の参事、ホルン。治安維持隊と牢を預かる、隊長の上役だ。
ホルン参事は、戸口で店の中を見回した。数えるためではなく、値踏みするための見回し方だった。カウンターの中の俺を見て、窓際で床を掃いているザザを見て、それから、隅の席を見た。
隊長がいた。
ホルン参事の口の端が、上がった。
「非番の隊長が、昼から酒場か」
大きな声だった。店の端まで届いた。
ホルン参事は、顎でザザのほうをしゃくった。箒を持って床を掃いている、年寄りの蜥蜴人のほうを。
「人も予算も足りてねぇのは、あの亜人どものせいだってのにな」
ザザは、掃く手を止めなかった。訊かれていないからだ。
隊長は、茶の杯を卓に置いた。
「はい、ホルン参事」
それだけだった。
隊長の手が、外套の喉元に行っていた。灰色の外套なら、そこに鉄の留め金がある。茶色の外套には、留め金がない。紐の結び目があるだけだ。隊長の指は、その結び目を握っていた。
指の節が、白くなっていた。
俺はカウンターの中から、それを見た。隊長の顔は見なかった。顔は、見ても何も分からないだろうと思った。
*
階段が鳴った。左の足が先に、右があとから。
エーリカが下りてきた。最後の段で止まって、人数と出口を数えて、それから参事二人の前へ来て、頭を下げた。
「組合長のエーリカ・ランゲです。ブラント参事、ホルン参事。ご足労をおかけします」
「前の組合長の部屋を見せろ」とホルン参事は言った。「隊が改められんなら、俺が見る」
隅の席で、隊長は動かなかった。
エーリカは、もう一度、少しだけ頭を下げた。
「令状か、参事会の議決をお持ちでしたら、すぐにご案内します」
ホルン参事の首が、さらに太くなったように見えた。
「組合長。俺は治安方だぞ」
「存じております」
「前の組合長は、罪人だ。罪人の部屋を見るのに、いちいち紙が要るのか」
「前の組合長の部屋は、いまはわたしの部屋です」エーリカは言った。「わたしは、罪人ではないつもりです。令状か、議決をお持ちでしたら、すぐに」
ホルン参事が、一歩前へ出かけた。
そのとき、ブラント参事が、ホルン参事の袖に指を一本かけた。それだけで、ホルン参事は止まった。
ブラント参事は、穏やかに言った。言葉を一つずつ置くような、低い声だった。
「組合長。組合の助成は、春の議にかかっていることを、お忘れなく」
「忘れておりません」とエーリカは言った。
ブラント参事は、うなずいた。それ以上、何も言わなかった。
ザザが、窓際から床を掃いてきて、参事たちの足もとを通った。ザザは、二人の足を見た。ホルン参事の上町仕立ての靴と、ブラント参事の細い靴。細い靴のほうを、少し長く見た。何も言わなかった。訊かれていないからだ。
*
参事たちは帰りかけた。
ホルン参事が先に扉を出た。ブラント参事は、戸口で一度立ち止まって、振り返った。カウンターの中の俺を見た。
「酒場番」
「はい」
「前の組合長は、帳面の几帳面な男だった」ブラント参事は、外套の襟を直しながら言った。「姪に書かせてな」
それだけ言って、出ていった。
俺は、杯を拭いていた。拭き終わった杯を棚に戻して、次の杯を取った。
隅の席で、隊長が茶を飲み干して、立ち上がった。外套の紐の結び目を握ったまま、俺のほうを見ずに、表の扉から出ていった。
エーリカは、階段の下で、参事たちの出ていった扉を見ていた。しばらくそうしていて、それから階段を上がっていった。左の足が先に。
*
夜。
八つの鐘のあと、隊長がまた来た。茶色の外套で、昼のことは何も言わなかった。丸椅子に座って、麦酒を頼んだ。
「それと、卵を一つ」
隊長が卵を頼むのは、珍しかった。
俺は瓶の蓋を開けて、卵を一つ出した。底の一つは、よけた。小皿に載せて、隊長の前に置いた。銅貨二枚。
隊長は卵をつまんで、半分かじった。赤蕪の汁の色が、指先に移った。隊長はその指を見て、残りの半分を口に入れた。
*
九つの鐘のころ、表の扉が乱暴に開いた。
若い男が一人、入ってきた。仕立てのいい上着に、腰に細身の剣。上町の見習い騎士だ。十八くらいで、顔が赤い。どこかで飲んできたらしい。
男は店の中を見回して、窓際の卓のダリオを見つけた。
「おい、ひげ。黒猫の尾の札の件だ」
黒猫の尾は、下町の賭場だ。ダリオはゆうべそこで、この若いのと札を打って、勝ったらしい。勝った分の銀貨十五枚が、まだ払われていない。
「払う気になったか」とダリオは言った。
「払わん。いかさまだ」
ダリオが椅子から立った。大男が立つと、店が狭くなる。
若い騎士は、剣の柄に手をかけた。
店の中の客たちが、杯を持ったまま、少しずつ壁際へ寄った。俺は杯を拭く手を止めた。
隊長が、丸椅子から立ち上がった。
立ち上がると、頭が梁に近い。若い騎士より、頭一つ高い。茶色の外套に、灰色の襟巻き。腰には何もない。刃も、棍棒も。今日の隊長は、隊長ではない。誰かを捕まえる権限もない。
隊長は、若い騎士の前まで歩いていった。
「賭け札の揉め事は、黒猫の尾の親父が裁く」と隊長は言った。「夕べの祈りを欠かさない男だ。札を持って、明日行け」
若い騎士は、隊長を見上げた。頬の傷を見た。
「お前は誰だ」
「非番の女だ」隊長は言った。「非番の女に剣を向けたら、明日の朝、上町のお前の家に詰所の者が行く」
それから、少し間を置いた。
「私は行かない。非番だからな」
若い騎士の手が、剣の柄から離れた。
ダリオが、背中から言った。「隊長、それは脅しってやつじゃ」
「非番の女の世間話だ」
若い騎士は、何か言いかけて、やめて、扉を乱暴に閉めて出ていった。客たちが、杯を持ったまま、壁際から戻ってきた。
隊長は丸椅子に戻って、残りの麦酒を飲んだ。
「隊長でない私に、できるのはこれくらいだ」
それから、杯を置いて、独り言のように言った。
「あの監査役は、三十年分の帳面をさかのぼってる。何を探してるんだかな」




