第3章 卵一つまで
その夜、八つの鐘のあとに、隊長がまた来た。
如月の十一日。茶色の外套に、灰色の襟巻き。ゆうべと同じ格好だった。丸椅子に座って、麦酒を頼んで、銅貨を五枚並べた。
少しして、トマスが裏口から来た。今度は帳面を抱えていなかった。隊長を見て、また直立しかけて、途中でやめた。ゆうべの「卵は逃げん」が効いているらしい。
そこへ、ダリオが帰ってきた。
組合の剣士で、三十代の大男だ。髭の端が縮れている。三か月前、この店で投げられた火の礫に焦がされて、それきり元に戻らない。ダリオは懐がいつも寒く、情に厚く、酒が好きだ。好きな順番は、たぶん逆だ。
ダリオは隊長を見て、口笛を吹いた。
「おいおい。隊長が私服で、うちの店で、飲んでるのか」
「客だ」と隊長は言った。
「客ねえ」ダリオは隊長の隣の丸椅子に、どすんと座った。「マスター、俺にも麦酒。隊長と同じのを」
「銅貨五枚です」
「隊長のおごりで」
「只酒は、掟で隊を出される」と隊長は言った。「飲ませるほうも、たぶん出される」
「隊長は、今日は隊じゃないんだろう」
「隊じゃなくても、掟は掟だ」
ダリオは笑って、懐から銅貨を五枚出した。四枚しかなかった。四枚を並べて、俺の顔を見た。俺は四枚を受け取って、麦酒を注いだ。泡を少し多めにした。
*
「掟って、いくつあるんだ」とダリオが訊いた。
「八つっす」とトマスが言った。
トマスは、背筋を伸ばした。詰所の壁に板が掛かっていて、隊員は入ったその日に、全部覚えさせられるのだそうだ。
トマスは、目を半分閉じて、諳んじた。
『一、上役の得物に手をかけた者は、隊を出す。
一、賭場と酒場で只酒を飲んだ者は、隊を出す。
一、参事会の議決か令状なくして、家の戸を開けさせない。
一、夜の門は、隊長の命でも開けない。
一、非番の者は、刃を帯びない。
一、心付けは、銅貨二枚まで。
一、掟を拒む亜人には、要るだけの力を用いる。
一、帳面は、破らない。』
言い終えて、トマスは目を開けた。
「全部、言えたっす」
「言えたな」と隊長は言った。
ダリオが、指を折って数えていた。「只酒は二つ目か」
「だから私は、今日は金を払って飲んでる」と隊長は言った。
「心付けが、銅貨二枚まで?」ダリオは笑った。「しみったれた掟だな」
「銅貨二枚」隊長は、カウンターの端の赤い卵の瓶を顎で指した。「卵一つまでだ。隊ではそう言う」
トマスが、真顔でうなずいた。
隊員は、仕事の礼に何かをもらうなら、卵一つ分まで。それ以上は賄賂だ。卵一つ分なら、礼だ。トマスは給金が出ると、銅貨二枚で卵を一つ買いに来る。心付けをもらったことがあるかどうかは、知らない。
「夜の門は、隊長の命でも開けない」とダリオが読み上げるように言った。「隊長が開けろって言ったら、どうするんだ」
「隊長の命でも開けない門を、隊長が開けろと言ったら」隊長は麦酒を一口飲んだ。「開けなかった奴を褒める」
「非番の者は、刃を帯びない」
「刃は帯びてない」隊長は茶色の外套の前を少し開いて見せた。腰には何も下げていなかった。「棍棒も置いてきた。今日の私は、ただの背の高い女だ」
ダリオは、隊長の頭のてっぺんから梁までの隙間を見上げた。
「ただの、ってほどじゃねえな」
隊長は片側だけで笑った。
七つ目の掟を、ダリオは読み上げなかった。隊長も、何も言わなかった。
*
「隊の連中は、嘘がつけるからいいよな」とダリオが言った。
「組合の連中は、この建物の中じゃ、仲間に嘘をつけない」と隊長は言った。「不便だな」
「酒が入れば、つける」
ダリオは杯を持ち上げて見せた。組合の剣士や魔法使いは、登録のときに鉄の誓約を立てる。この建物の中では、仲間に嘘をつかない。例外が三つあって、その一つが酒だ。酒の入った口から出た言葉は、誓約の外になる。
「つけるのと、つくのは違う」と隊長は言った。
ダリオは考えて、わからん、という顔をした。
「亜人は、つけない」とトマスが言った。言ってから、自分で少し不思議そうな顔をした。「隊に、亜人っていないんすよね」
「いない」と隊長は言った。「入れない。参事会の定めだ。隊員は、城壁の内に生まれた人間に限る」
「でも、カラスの伝令とか、使ってるっすよね。帳場の帳面に、走りの銅貨が書いてあったっす」
「雑費の行だ」
「雑費」
「人の行じゃない。費えの行だ。帳面には、『走り 十回 銅貨百枚』と書く。誰が走ったかは、書かない」
裏口が鳴った。
組合の伝令の、鴉人のコルだった。黒い羽根の若者で、ふだんは厩の梁の上で寝ている。伝言を一字も盛らずに運ぶ。嘘をつけないからだ。コルは裏口の内側に立って、俺に紙を一枚渡した。明日の朝の酒屋の荷の刻を知らせる紙だった。
「コル」と俺は言った。「あなたは、隊の走りもしていますか」
「している。隊の伝令もやる。一回、銅貨十枚」
訊かれたことに、それだけ答えた。
*
ダリオが、空になった杯を指で回した。
「隊員の給金って、いくらなんだ」
「月に銀貨三十枚っす」とトマスが言った。
ダリオは鼻を鳴らした。「日雇いのほうが稼げるぜ。荷運びなら、半日で銀貨三枚だ」
「日雇いは、死んだら終わりだ」と隊長は言った。
ダリオは黙った。
隊長は杯を置いて、トマスのほうを向いた。
「帳場で、削り案の写しを見たか」
「見たっす」とトマスは言った。「一割っす。金貨で、百八十枚。遺族扶持の行を全部と、雑費の行を全部と、灯油と薪から少し」
「勘定方の案だ」と隊長は言った。「ブラント参事の」
トマスは杯の縁を指でなぞった。それから、ゆうべ俺に言ったことを、もう一度言った。
「お袋の扶持の行っす」
隊長は答えなかった。麦酒を飲み干して、杯を置いた。
「予算で飯を食ってる」と隊長は言った。「今日は、飯の話をしに来た」
それきり、隊長は飯の話をしなかった。ダリオの冗談に半分だけ笑い、トマスの卵を見ていた。九つの鐘が鳴ると、銅貨を一枚多くカウンターに置いて、帰っていった。
一枚は、俺の心付けだった。卵一つ分にも足りない。
*
隊長が帰ったあと、コルがまだ裏口にいた。
渡すものを渡し終えて、梁へ帰る前に、厨房の鍋を見ていた。裏口のスープの残りを待っていたのかもしれない。
「コル」と俺は言った。「隊長は、明日も来ると思いますか」
コルは首をかしげた。黒い目が灯を映した。
「隊長は、春の議まで詰所に入れない。八日の朝、詰所でそう言い渡されていた。私は伝令で、詰所の梁にいた」
それだけ答えて、コルは裏口から出ていった。
明日も来るか、には答えていなかった。コルは、知っていることでしか答えない。知っているのは、見たことと聞いたことだけだ。




