第2章 帳場の小僧
翌日の昼前、トマスが帳面の束を抱えてやってきた。
如月の十一日。裏口ではなく、表の扉から入ってきた。両腕に、紐でくくった帳面の束を三つ抱えていて、扉を肩で押して開けた。束の上に、さらに巻いた紙が一本載っていた。
「マスター、組合長さんに、これ」
巻いた紙を、顎で示した。両手がふさがっているのだ。
俺は紙を取ってやった。治安維持隊の帳場の判が捺してある。組合が隊に出した伝令の手間賃の、受け取りの写しだった。組合の伝令の鴉人が、ときどき隊の走りも請け負っている。その勘定だ。
「組合長は二階です。上がってください」
「いや、置いてくだけでいいって。オスカーさんが」
トマスは帳面の束を、カウンターの上にどさりと置いた。紐の結び目が、一つほどけかけていた。
「オスカーさん、とは」
「帳場の爺さんっす」トマスはほどけかけた紐を結び直そうとして、上手くいかなかった。「おれ、いま帳場にいるんす。先週から」
*
トマスは、もとは北門の班にいた。
治安維持隊は、十五人の班が四つある。北門の番をする班と、南門の番をする班と、町を廻る班が二つ。トマスは北門の班で、門の脇の番小屋に立って、出入りする者を見ていた。去年の暮れ、北の村へ向かう依頼の一行を北門で通したのも、トマスだったはずだ。
それが先週、帳場の手伝いに回された。
「字が読めて、算盤も弾けるのが、隊に五人くらいしかいないんす」
「五人」
「隊長と、副長が二人と、フィンさんと、おれ。副長は門を離れられないし、フィンさんは町廻りの頭役だし。だから、いちばん下っ端のおれっす」
トマスは、少し得意そうだった。それから、すぐに少し困った顔になった。
「帳場って、隊員より寒いんす。詰所の奥で、火の気がなくて。紙が湿るからって、オスカーさんが火を入れさせないんす」
「オスカーさんは、どういう方です」
「三十一年、帳場にいるっす。隊員じゃないんす。剣を持ったこともないって。眼鏡を額に上げたまま、眼鏡を探してるっす。毎日」
トマスは紐の結び目をあきらめて、両手で束を押さえた。
「オスカーさん、算盤の玉を親指で弾くんす。ぱちん、ぱちんって。三十一年弾いてるから、親指の腹が平たくなってるっす」トマスは自分の親指を見せた。まだ丸かった。「それで、口癖が、帳面は、破らない」
「帳面は、破らない」
「書き損じても、破らないんす。線を引いて、横に書き直す。何十年前の帳面でも、一枚も破ってないって。隊の掟にもあるっす。いちばん最後に」
*
ザザが、階段の下から箒を持って出てきた。
昼前の掃き掃除の刻だ。ザザはカウンターの前を掃きながら、トマスの足もとで止まった。トマスの靴を見た。
トマスは、蜥蜴人に足を見られるのに慣れていない。少し足を引いた。
「おれの靴、汚いっすか」
ザザは瞼を下から上へ閉じて、開いた。
「汚い。北門の泥ではない」
トマスは自分の靴を見下ろした。
「……詰所の、帳場の床の泥っす。たぶん」
ザザは答えずに、トマスの足もとを掃いた。訊かれたことには答えた。それ以上は、訊かれていない。
*
俺は湯を沸かして、トマスに茶を出した。トマスは帳面の束から手を離して、両手で杯を包んだ。帳場は本当に寒いらしい。
「それで、帳場では何を」
「予算の弁明の写しっす」
「弁明」
「春の議で、参事会が隊の予算を決めるんす。隊は毎年、どこに何をいくら使ったか、紙に書いて出すんす。それの写しを、おれが作ってるっす。オスカーさんが書いて、おれが写す」
トマスは、隊の数字を、自分の財布の中身のようにしゃべった。
隊長が一人。副長が二人。隊員が六十人。帳場がオスカー爺さんで、見習いの席が一つ空いていて、そこに今はトマスが座っている。牢番が二人。
隊員の給金は、月に銀貨三十枚。
「宿に三十泊できるっす」とトマスは言った。「詰所の二階に寝られるから、泊まらないっすけど」
「日雇いの荷運びは、半日で銀貨三枚だそうですね」
「そうなんす。日雇いのほうが、稼げるときは稼げるっす。でも隊は、朝と夕の賄いが出て、外套と靴と槍が出て、雪の月も病気の月も、同じだけ出るっす」
それから、トマスは少し声を落とした。
「それに、勤めてるあいだに死んだら、家に扶持が出るんす」
俺は、トマスの顔を見た。
トマスは杯の中を見ていた。
「親父がそうだったっす。九年前、熱病で。隊にいるあいだに死んだから、お袋に、月に銀貨十枚出てるっす。それと、鶉小屋で」
トマスは杯を置いて、指を一本ずつ折った。
「隊には、そういう家が十四あるっす。帳場の帳面に、十四行並んでるっす。一行ずつ、毎月、銀貨十枚。おれ、写したから知ってるっす。十四行目が、うちっす。いちばん新しいから、いちばん下っす」
それで、赤い卵の瓶の卵の話になる。トマスの母親の鶉小屋は、下町の外れにある。卵を一日おきに二十四個、届けてくれる。届けに来るのは、昔はトマスだった。トマスが隊に入ってからは、近所の子どもが来る。
「お袋の卵、うまいっすか」
「うまいです」と俺は言った。
トマスは笑った。頬の産毛が、窓からの光で白く光った。
*
トマスが、帳面の束の紐を結び直していた。
結び方が下手だった。紐を二度回して、輪を作って、端を通して、引く。引くと、輪が抜けて、ほどける。三度やって、三度ほどけた。
俺はカウンターの外へ出て、紐を受け取った。帳面の束を膝で押さえて、紐を締めた。
「マスター、上手いっすね」
「酒場番は、毎日樽の縄を締めます」
トマスは束を抱え直して、帰りかけた。戸口で、思い出したように振り返った。
「マスター、ゆうべの隊長」
「はい」
「隊長が私服で酒場にいるの、おれ、初めて見たっす。隊のみんなも、たぶん初めてっす」
「私も、初めて見ました」
トマスは少し考えて、言った。
「隊長、何か言ってたっすか」
「麦酒を一杯、飲んでいかれました。お代を払って」
「そうっすか」
トマスは帳面の束を見下ろした。それから、何か言うかどうか迷う顔をした。悪気のない若者は、迷うのも顔に出る。
結局、トマスは言った。
「参事会が、隊の予算を一割削るって」
俺は黙っていた。
「真っ先に削られるのが、うちのお袋の扶持の行っす」
トマスはそれだけ言って、帳面を抱えて出ていった。扉が閉まって、軒の水がまた空の杯を鳴らした。




