第1章 留め金のない外套
本作はシリーズものです。第一作「夜啼きの涙」からお読みいただけますとよりいっそうお楽しみいただけます。
第一作『夜啼きの涙』:https://ncode.syosetu.com/n2595mv/
如月の十日、夕べの祈りの六つの鐘が鳴った。
鐘が鳴ると、錆び釘亭は空になる。冒険者たちは日が沈んでから腹を空かせて帰ってくるから、六つから七つ半までは、客のいない刻だ。俺はその刻に、杯を拭き、樽の栓を確かめ、黒板の値段を書き直す。
この建物は、城塞都市グラウヴァルの冒険者組合だ。一階が酒場の錆び釘亭で、俺はそこで酒を注いでいる。組合の者ではない。雇われの酒場番だ。名前はあるが、誰も呼ばない。みんな「マスター」と呼ぶ。
軒から水が落ちていた。
如月も半ばに近づいて、昼のあいだは雪が緩む。樋の口から落ちた水が、店の外に出しっぱなしの空の樽の上の、伏せ忘れた杯に当たって、ときどき鳴った。ちん、と鳴って、しばらく鳴らない。また、ちん、と鳴る。数えていると、間が少しずつ短くなっていく。日が傾くと、また長くなる。
カウンターの端の、赤い卵の瓶を拭いていた。
鶉の卵を赤蕪の汁で漬けたものだ。毎朝十二個漬けて、一個銅貨二枚で売る。瓶の外側を布で拭いて、蓋の縁の汁の跡を拭く。それだけだ。
*
表の扉が開いた。
客のいない刻に扉が開くのは、たいてい客ではない。組合の使いか、酒屋の荷か、道を訊きに来た旅の者だ。
入ってきたのは、背の高い女だった。
戸口で、少しかがんだ。この店の戸口は、背の高い客には低い。古い茶色の外套を着て、灰色の毛糸の襟巻きを首に二重に巻いていた。足もとは革の長靴で、鉄は打っていない。石畳を踏む音が、思っていたより静かだった。
左の頬に、古い傷があった。耳の下から、口の端まで。
治安維持隊の隊長、マグダだ。
隊長がこの店に来るのは、珍しいことではない。隊長は誰にでも声をかけられる人で、下町の酒場にも賭場にも顔を出す。ただし、いつも灰色の外套を着ている。治安維持隊の外套だ。革の胸当てと、鉄を打った靴と、腰の棍棒。それが隊長の格好だった。
今日の隊長は、そのどれも身につけていなかった。
私服の隊長を、俺は初めて見た。この店で一度もなかったことだ。
隊長はカウンターの前まで来て、丸椅子に腰を下ろした。座っても、目の高さは俺とあまり変わらなかった。梁に頭が近い。
俺は、外套の喉元を見た。
隊長の灰色の外套の喉元には、鉄の留め金が二つ並んでいる。隊長は、役を脱ぐとき、その上の一つを外す。外すと、口ぶりが少し崩れる。本人は気づいていない。気づいているのは、たぶん俺だけだ。俺はそれを誰にも言ったことがない。
茶色の外套には、留め金がなかった。
喉元を、紐で結んであった。
役を脱ぐ合図を持たない隊長は、初めて見た。
*
「麦酒を」と隊長は言った。
「はい、隊長」
隊長は眉を片方上げた。
「今日は隊長じゃない」
「では、何とお呼びすれば」
隊長は少し考えた。
「客でいい」
俺は麦酒を注いで出した。銅貨五枚。隊長は外套の内側から財布を出して、銅貨を五枚、カウンターに並べた。一枚ずつ指で押して、数を確かめた。
「お代は結構ですよ、と言うつもりでしたが」
「只酒は掟で隊を出される」隊長は杯を持ち上げた。「今日は隊じゃないが、癖だ」
隊長は一口飲んで、杯を置いた。それきり、しばらく黙っていた。外の樋の水が、空の杯を一度鳴らした。
隊長は、店の天井を見て、梁の焦げを見て、表の扉の内側の擦り傷を見た。去年の暮れに、大きな樽を入れたときについた傷だ。隊長は、その傷の上で少しだけ目を止めた。何も言わなかった。
それで、また黙っていた。
隊長は、本音をあまり表に出さない人だ。誰にでも好かれて、誰にでも声をかけられて、誰にも何を考えているのか分からない。今日の隊長は、それがいつもより少しだけ、分かりにくかった。外套に留め金がないせいかもしれない。
*
七つ半の鐘が鳴る少し前に、裏口が鳴った。
裏口から入ってくる客は限られている。組合の雑役の亜人たちと、卵屋の息子だ。
入ってきたのは、卵屋の息子のほうだった。
トマスという。治安維持隊の若い隊員で、十九になる。頬にまだ産毛が残っている。母親が鶉小屋をやっていて、俺の瓶の卵は、その小屋の卵だ。トマスは卵が好きで、隊の給金が出ると銅貨を二枚握って、一つ買いに来る。
今日は給金の日ではない。
トマスは灰色の外套のまま、裏口からカウンターの脇まで来て、瓶を見た。見るだけのつもりで来たらしい。給金の日ではない日にも、ときどき来て、瓶を見て帰る。
それから、カウンターの丸椅子に座っている背の高い女を見た。
トマスは、その場で直立した。
背筋が伸びて、踵がそろって、顎が上がった。外套の裾が、遅れて揺れた。
「た、隊長」
「座れ」と隊長は言った。「今日は隊長じゃない」
トマスは座らなかった。座れなかったのだろう。直立したまま、隊長と瓶を、交互に見た。隊長を見て、瓶を見て、また隊長を見た。
「卵は逃げん」と隊長は言った。
トマスの顔が赤くなった。
俺は瓶から卵を一つ出して、小皿に載せて、トマスの前に置いた。
「代金は、次の給金の日で結構です」
トマスは隊長の顔を見た。隊長は麦酒を飲んでいた。トマスはおそるおそる丸椅子の端に腰を下ろして、卵をつまんで、一口でかじった。かじってから、また少し背筋を伸ばした。
隊長は、片側だけで笑った。
隊長が笑うと、頬の傷が引きつれて、口の片側だけが上がる。もう片側は動かない。だから隊長の笑いは、いつも半分だ。半分の笑いは、見る側によって、優しくも、皮肉にも見える。
トマスは、その半分の笑いを、しげしげと見ていた。
悪気のない若者だ。悪気がないから、思ったことを、思ったときに口に出す。隊の中でも、それでよく叱られている、と前に本人が言っていた。
トマスは卵を飲み込んで、言った。
「隊長。その傷、どうしたんすか」
隊長は杯を置いた。
俺は、瓶の蓋を閉めた。
店の中で、軒の水だけが鳴った。
「転んだ」と隊長は言った。
それだけだった。隊長はまた杯を持ち上げて、麦酒を飲んだ。トマスは、そうっすか、と言って、卵の残りを食べた。
転んで、耳の下から口の端まで切れる者はいない。
転んだ傷は、たいてい額か、顎か、手のひらにつく。頬の、耳の下から口の端へ、まっすぐ一本、引いたように走る傷は、転んでつくものではない。
俺は、瓶を拭く布を畳んだ。何も言わなかった。




