第7話 朝の峠道
峠から谷へ下りる道は、両側を岩壁に挟まれた細い坂だった。荷車がやっと一台通れる幅で、三度折れ曲がりながら谷底へ落ちていく。その二つ目の曲がり角に、村人たちが夜明けから運んだ雷木の丸太が、斜めに組まれていた。箍を半分しか巻けていなかった箱は、村人が夜通しで仕上げ、尾根の岩屋へ担ぎ上げてある。
雷に焼け残った木は、斧が欠けるほど硬い。村ではそれを雷木と呼んで、薪にもできずに放っておいた。その放っておかれた木が、今は道を塞いでいる。
柵の上の岩棚には、槍の十二人が伏せていた。岩棚の端には、昨夜のうちに梃子を噛ませた大岩が三つ。その梃子の横に、大きな背中が一つ屈んでいた。
「ボルクさん! 来てくれたんですね!」
「手を貸すとは言ってない」ボルクは岩棚の上から言った。「見に来ただけだ」
「見に来てくれたんですね!」
「……声がでかい。下まで聞こえる」
ボルクは岩棚に並んだ十二人を顎で示した。「こいつらは槍の持ち方も知らん。突かせるな。立たせて、並ばせて、数に見せろ。あとは岩が働く」
柵の手前、道の真ん中に、イルゼが帳場机を出していた。村の集会所から運ばせた古い机に帳簿を広げ、インク壺を置き、椅子に浅く腰かけている。背中が真っすぐだ。昨夜の敬語の名残が、まだ背骨に残っているように見えた。
アルノは机の横を通るとき、小さな声で「昨日は、ごめんなさい」と言った。イルゼはペン先から目を上げずに、「利息つけとく」とだけ返した。
アルノは柵の陰で、空を見ていた。
夜明け前に、風が南へ回った。湖の湯気がいつもより早く、いつもより太く立っている。尾根の上にはまだ何もないが、南の空の低いところに、綿をちぎったような雲が並び始めていた。
「イルゼさん。今日は、昼が早く来ます。一刻くらい。風が南に回った朝は、雲の育ちが早いんです」
「一刻も早いのかよ。ありがたいね」イルゼはペン先をインクに浸した。「で、それまであたしが粘ればいいんだな」
「お願いします!」
「高くつくよ」
坂の上に、黒い羽根が現れた。先頭の十人ほどが柵の前で止まり、後ろの列が坂に溜まっていく。槍、弓、斧。鉄の部分に布を巻いた得物が、朝日を鈍く返している。
列が割れて、女が一人、前へ出てきた。三十半ばの、背の高い女だった。黒い羽根を一本だけ髪に挿し、鞍を下りて、柵とイルゼの机とを順に見た。
女は、それから空を見た。ズデンカは空を見るのが癖だった。雲の数、風の向き、日の高さ。この谷の雷は昼から来る。峠の下で一夏をかけて確かめたことだ。前の保持者が荷車で夜逃げした晩も、手下に見張らせて帳面につけさせた。日はまだ東の肩。正午まで、たっぷり二刻はある。
「頭。柵ごと押し破りますか」隣の手下が囁いた。
「岩棚を見ろ。上に槍が並んでる。押せば上から落ちてくる。……急ぐな。昼までに片づけばいい」
ズデンカは机の前へ進んだ。「黒羽団のズデンカ。硝子を受け取りに来た」
「ラッセル商会、イルゼ。お取引の窓口です」イルゼは帳簿を回して見せた。「約束は明日の午後だったはずですね。前倒しの受け取りには、手数料がかかります」
坂の上で、誰かが笑った。ズデンカは笑わなかった。
「山賊に手数料を取る女は初めてだ」
「取り立てる相手を選ばないのが、あたしの取り柄でね」
イルゼは引き出しから細い布包みを出した。広げると、雷硝子の枝が一本、朝日を受けて青く光った。坂の上のざわめきが止まった。
「見本です。これ一本で、ミルデなら銀四十。残りは尾根の上の岩屋。鉄の箍の箱に詰めてある。道はあたししか知らない」
「その机ごと、お前を尾根まで担いでいってもいい」
「担いでいく間に、あたしは道を忘れる。忘れっぽいんだよ、朝は」
ズデンカの目が、机の上の硝子とイルゼの顔を行き来した。
「若い男は」
「十人、と仰いましたね。この村の若いのを全部数えても、両手が余ります。代わりに、硝子の箱を一つ上乗せ」
「二つ」
「一つ半」
「箱を半分に割る気か」
「割りますよ。割った分だけ、お代もいただきます。箱の運び賃です。岩屋から峠まで、あんたらが担いでいく。担いでいく間に角が欠けたら、そっちの損。欠けなかったら、あたしの見立てが正しかった分の手間賃。どっちに転んでも、あたしは損しない勘定でね」
「……頭が痛くなってきた」
「よく言われます」
柵の陰で、アルノは両手で口を押さえていた。笑い声が漏れそうだった。隣に伏せた少年が、肘でそっと突いてくる。
値切り合いは、そこから長かった。箱の数、岩屋までの案内料、見本の一本を先に渡すか後に渡すか。イルゼは一つ譲るたびに二つ条件を足し、ズデンカが一つ呑むたびに帳簿へ何か書きつけては、それを読み上げた。書く手がゆっくりで、読み上げる声はもっとゆっくりだった。その間に日が昇り、坂の岩壁の影が短くなっていく。
ズデンカが、また空を見た。南の低い雲が、ひとつ、ふたつ、白く膨らみ始めている。
「もういい」ズデンカは片手を上げた。「見本を寄越せ。岩屋の場所を言え。箱は二つ上乗せで、案内料は払ってやる」
「毎度」
イルゼは帳簿の一枚を丁寧に破り、見本の枝と一緒に差し出した。描いてあるのは、尾根の上の岩屋へ続く一本道。ズデンカはそれを受け取り、手下の半分以上を連れて尾根へ向かった。残りの十人ほどが柵の前に残り、イルゼの机を囲んだ。
ボルクが岩棚の上で、梃子に手をかけた。アルノは柵の陰から、尾根を見上げていた。黒い羽根の列が、蟻のように尾根の斜面を登っていく。やがて岩屋に着き、箱を担ぎ、鉄の棒が肩の上に並ぶ。日の光が、その棒の一本一本を細く光らせた。
南の雲が、尾根にぶつかった。
白い塔が一気に伸び上がり、根元が灰色に濁る。雲の底が、尾根の頂へ向かって、ゆっくりと降りてくる。
アルノは空を見上げ、左手の人差し指を、一本だけ立てた。
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