第6話 鉄を担がせる
「雷は敵味方を選ばん」ボルクは火かき棒で壁を指した。刻まれた名前の列が、炉の火で揺れている。「俺の部下は、あの尾根で半分死んだ」
「知っています」アルノは帳面を開いた。「十年前の夏至の四日後、午後の二つ目の鐘を過ぎた頃です。天気帳に書いてあります。行商人が、峠の下から見ていました」
ボルクの目が細くなった。「……そんなものまで書いてるのか」
「雲の底が、いつもより低かった日です。あの日、槍や鍬を担いでいた人から順に倒れた。そう書いてあります」
「それを、わざと山賊に担がせるのか」
「はい。硝子を餌にします。担ぎたくなる形にして」
アルノは帳面の白い頁に、木箱の絵を描いた。硝子を詰めた箱に鉄の箍を三本巻き、両側に鉄の担ぎ棒を通す。一人では持てない重さにして、二人で肩に担がせる。尾根の上の岩屋に並べておけば、黒羽団は鉄を肩に載せたまま、尾根の一番高いところを歩くことになる。
「雷は、高くて、尖っていて、濡れた鉄が大好きなんです。尾根の上で担ぎ棒を肩に載せた人は、あの尾根でいちばんおいしい場所に立つことになります」
「言い方」イルゼが顔をしかめた。「山賊だって、おいしいって言われて焼かれたくはねえだろ」
「鉄の箍と担ぎ棒は、どこから出す」ボルクが訊いた。「村に鉄はない」
「峠の道端にあります! 雷が喰い残した鉄が、いくらでも」アルノは戸口の外を指した。「焦げた蹄鉄も、裂けた車輪の箍も、叩き直せば使えます。この峠は鉄を喰って、捨てていく。捨てた物を、もう一度雷の前へ並べるんです」
ボルクは答えなかった。答えずに、長いこと戸口の外の道を見ていた。炉の火が小さくなり、薪が一本崩れた。
「退き口は」
「また、それですか!」アルノは頬をふくらませた。この人の口からは、その言葉しか出てこないのだろうか。
「お前のじゃない。奴らのだ。追い詰めた獣は噛む。逃げ道を一本だけ残せ。どこへ逃げるか、こっちが決められる道をな」
アルノは帳面の上でペンを止めた。尾根から谷底へ下りる涸れ沢が、地図の端に一本だけ描いてある。雨の後はいつまでも濡れている沢だ。
「……それ、すごくいいです。考えます! ありがとうございます、ボルクさん」
「礼はいらん。手を貸すとも言ってない」
帰り道、峠を下りながら、イルゼが後ろを振り返った。番小屋の煙突から、煙が細く一本だけ立っている。
「あのおっさん、来ると思う?」
「来てくれます。……半分くらいは」
「半分は来ねえってことだろ」
「半分は来るってことです!」
「前向きすぎんだよ、あんたの勘定は」
* * *
その日の午後、アルノは一人で尾根の麓に立っていた。
箱の絵は描いた。けれど、雷が本当に鉄を選ぶのか、この目で見ていない。帳面に書いてあるのは、行商人の話と、十年前の誰かの死だ。確かめないまま、村の十二人と山賊六十を尾根へ並べるわけにはいかない。
峠の道端で拾ってきた古い鉄の杭を、砂地に突き立てた。杭から十歩離れ、雲を見上げる。尾根の上で雲の頭が膨らみ、底が暗くなっていく。一本目が尾根の肩に落ちた。二本目は湖へ。三本目が、杭から二十歩ほど離れた岩を打った。杭には来ない。
「なんで来ないの……」
アルノは杭へ近づいた。もう三歩。もう二歩。杭の頭に、左手の指を伸ばす。着いた日の、あの白い線が体を抜けていく感触が、まだ骨の中に残っている。もう一度、確かめたい。どこから入って、どこへ抜けて、どれだけ熱いのか。胸がどきどきして、痛みの記憶はその奥に隠れてしまった。
指先に火花を灯した。ぱち、と鳴った。空は二度目も、同じように答えた。
* * *
気がつくと、領主館の天井だった。窓の外は暗い。左腕が肩まで痺れて、指が握れなかった。
寝台の脇に、イルゼが座っていた。帳簿は閉じている。背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えていた。
「お目覚めですか、ブラウエン様」
瞬きをした。イルゼの声が、聞いたことのない高さで、聞いたことのない丁寧さだった。
「本日、村の者が三人がかりで、砂地からお運びいたしました。箱の箍は半分しか巻けておりません。担ぎ棒は一本も削れておりません。ブラウエン様がお休みの間、どなたも段取りをご存じなかったので」
「イルゼさん、あの、ごめんなさ——」
「お支払いは、いつになさいますか」
アルノは返す言葉を探した。どこにも見つからなかった。
「命でお支払いになるおつもりでしたら、先にご一報ください。帳簿の締めがございますので」
イルゼは立ち上がり、一礼して出ていった。戸が、静かに閉まった。
アルノは唇を噛んだ。目の奥が熱くなって、梁の木目がにじんだ。怒鳴られたほうが、ずっとましだった。
「……ばかだ、私」
右手で帳面を引き寄せ、包帯の腕で紙を押さえて、今日の頁を開いた。杭に来なかった三本。杭に触れた指に来た一本。尾根の絵の高いところ、鉄と人がいる場所に小さな印をつけていく。手が震えて、印が何度も滲んだ。
「雷は、尖った鉄より、鉄に触れた人を好む」
声に出して、書き足した。痛い一行だった。
夜明け前、戸が叩かれた。ハンネが息を切らして立っていた。裸足の足が、夜露で濡れている。
「領主さま。峠の上に、黒い羽根がいっぱい。樽屋のおじいが、起こしてこいって」
「約束は明日です。明日の、午後です!」
「でも、いるよ。火も焚いてる」
窓の外で、東の空が白み始めている。雲は一つもない、晴れた朝だった。
黒羽団の頭は、谷の午後を知っていた。
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