第1話 泥の中の伝説
城壁の上は、火と土煙でいっぱいだった。
門の外には、魔物の群れ。数えるのをやめたくなるほど多い。後ろには、守りたい人たちがいる。
足の裏で、城壁の石が鳴っている。砂つぶ一つまで、俺の言うことを聞く。それでも、下から見上げる人たちは、まだ仮面の下の名前を知らない。
俺は、顔の仮面に手をかけた。
「……影でいたかったんだけどな」
――と、かっこよく決める日が来るのは、まだずっと先の話だ。
この話は、もっと間抜けなところから始まる。
* * *
前の世界の俺には、ノートが一冊あった。
表紙には、太いペンでこう書いてある。
『転生したらやりたいことリスト』
中身はこうだ。
一、かっこいい二つ名を持つ
二、仮面の冒険者になる
三、秘密の隠れ里を作る
四、ケモミミの仲間と旅をする
五、義手とか義足とか、ロマンのある道具を作る
六、ドワーフと一緒に剣を打つ
七、ギルドの受付で「なんだこの数値は!」と言われる
全部で五十三個ある。
三十を過ぎた大人が書くノートじゃない。分かってる。でも俺は、本気だった。
昼間は、小さな会社で数字の表を作っていた。毎日同じ席で、同じ画面を見て、同じ時間に帰る。怒られもしないし、褒められもしない。
そのかわり、夜は自由だった。
転生もののラノベが大好きだった。トラックで異世界へ行き、神様の力で無双し、仲間と街を作って世界を救う。そういう話を、毎晩読んだ。
読み終わるたびに、ノートを開いた。
――俺だったら、こうする。
そう思った分だけ、リストは長くなった。
あの夜も、そうだった。
好きなシリーズの最終巻を、朝まで読みきった。泣いた。腹が減った。コンビニに行こうと、アパートの外階段に出た。
冬の朝だった。階段は凍っていた。
トラックじゃない。神様もいない。
足がすべって、空が見えて、それで終わりだった。
最後に思ったのは、こうだ。
(リストの五十四番目、まだ書いてないのに)
* * *
べちゃ、という音がした。
顔が冷たい。口の中がじゃりじゃりする。
俺は、水たまりに顔から突っ込んでいた。
「ティオー! また転んだー!」
遠くで、子どもの声がした。
顔を上げる。泥だらけの、小さな手が見えた。俺の手だ。指が短い。ぷにぷにしている。
頭の中に、二つの記憶が流れこんできた。
一つは、凍った階段で終わった、三十何年の記憶。
もう一つは、この街の路地で生きてきた、三年ぶんの記憶。
二つが、ゆっくり混ざっていく。
ここは、ロウエンという街だ。王国のいちばん端っこにある。街の外には、黒樹海という大きな森が広がっている。魔物が出るから近づくなと、大人はいつも言う。
俺は、その街の貧民街にいる孤児だ。名前はティオ。親の顔は知らない。
寝る場所は、路地の奥の崩れかけた廃屋。同じような子どもが、十人くらいで固まって暮らしている。食べ物は、市場のゴミ箱と、ときどきもらえる芋。
三歳。
泥まみれ。
家なし、親なし、金なし。
……転生、した?
本当に? あのラノベみたいに?
心臓がどくどく鳴った。叫びたかった。でも口から出たのは、「あう」という声だけだった。三歳の舌は、思ったように動かない。
落ち着け。
設定は、正直かなり厳しい。貴族の三男でもない。勇者の生まれ変わりでもない。スタート地点は、水たまりの底だ。
でも、まず確かめることがある。
転生といえば、魔法だ。
この世界に魔法があることは、三歳の俺の記憶が知っていた。守備隊の人が、手から火を出すのを見たことがある。市場の占い師が、水晶玉を光らせているのも見た。
問題は、俺に使えるかどうかだ。
俺は、水たまりの泥に手を置いた。
目を閉じる。
ラノベでは、だいたいこうだ。体の奥にある温かいものを感じて、それを手のほうへ流す。
……温かいもの。
ない。
ない。
どこだ。
腹の中を、ぐるぐる探す。胸。頭。指先。
あった。
へその下あたりに、小さな、ぬるいお湯みたいなものがある。本当に小さい。お茶わん一杯ぶんもない。
でも、確かにある。
それを、ゆっくり手のほうへ押していく。
力を入れすぎた。
ばしゃっ、と泥がはねて、俺の顔に飛んだ。
「ぶっ」
口に入った。苦い。
もう一回だ。今度は、そっと。お湯を、一滴ずつ流すように。
指先が、むずむずした。
目を開ける。
泥が、動いていた。
俺の指の動きに合わせて、泥がふくらんだり、へこんだりする。指を立てると、泥も小さく立ち上がる。指を曲げると、泥もくにゃりと曲がる。
「――っ」
声が出なかった。
来た。
本当に来た。
土魔法だ。
火じゃない。雷でもない。地味な土。でも、そんなことはどうでもよかった。魔法だ。俺の手で、魔法が動いている。
路地の向こうから、さっきの子どもが走ってきた。俺より少し大きい女の子だ。
「ティオ、だいじょぶ?」
「だいじょぶ」
今度は、ちゃんと言えた。
女の子は首をかしげて、また走っていった。泥をいじっている三歳児なんて、この路地ではめずらしくもない。
俺は、もう一度泥に手を置いた。
ぬるいお湯を、ほんのちょっとだけ流す。
泥をこねる。丸める。頭を作る。胴を作る。短い足を二本。
手のひらに乗るくらいの、不格好な泥の人形ができた。
ここからが本番だ。
人形の足に、指でそっと触れる。
立て。
泥の人形が、ぐらりと揺れた。
倒れる。いや、倒れない。
ゆっくりと、短い足で、水たまりのふちに立ち上がった。
小さな、小さな泥の人形が、ひとりで立っている。
俺は、泥だらけの顔で笑った。
五十三個のリスト。前の世界では、一つも叶わなかった。
でも、ここなら。
(見てろよ。俺の伝説は、ここから始まる)
泥の中から。




