第8話 正午の鐘
尾根の上で、ズデンカは箱の数を数えていた。
岩屋には、言われたとおり鉄の箍を巻いた箱が並んでいた。蓋を開けると、藁の間から透明な枝が覗く。手下たちが歓声を上げ、担ぎ棒を通して二人ずつ肩に載せた。箱は重く、担いだ者の膝が沈む。ズデンカは箱から目を上げ、空を見た。
雲が、近すぎた。
さっきまで南の低いところにあった白い綿が、今は頭の真上で塔になっている。塔の底が墨を含んだように暗く、その暗さが、見ている間にも厚くなる。日はまだ真上に来ていない。一夏かけて確かめた谷の正午より、ずっと早い。
「下りるぞ。来た道を戻れ」
列の先頭が、尾根から峠へ下りる道の入口で止まった。道がなかった。崩れた大岩が三つ、細い道を斜めに塞いでいる。落ちたばかりの岩の肌が白く、砂埃がまだ漂っていた。岩の向こうの岩棚に、槍を持った人影が並んでいる。先頭の男が反対側の斜面へ走り、そこにも雷木の柵が組まれているのを見て、立ち止まった。
「頭、道が」
ズデンカの首筋の産毛が逆立った。髪に挿した羽根が、風もないのに、ふわりと立ち上がる。手下のひとりが担いだ鉄の棒の先で、青い小さな火が、じじ、と鳴った。
「鉄を捨てろ! 箱を下ろせ、尾根から離れろ!」
何人かは箱を投げ出した。何人かは、箱を抱えたまま立ちすくんだ。硝子の詰まった箱を置いていけるほど、この夏は甘くなかった。
ズデンカは尾根の谷側へ目を走らせた。涸れ沢がひと筋、谷底へ向かって深く切れ込んでいる。黒い岩肌が濡れて光っていた。沢の縁から、誰が置いたのか、長い鉄の鎖が沢底へ垂れている。鎖を雷の逃げ道にして、その脇を下りればいい。知っている者だけが、この谷で生き延びる。
「沢だ。鎖の脇を下りろ。鉄から離れて歩け」
「頭、箱は」箱を担いだままの男が叫んだ。「ひと夏待ったんですよ!」
「命と箱と、どっちを担いで帰る気だ。捨てろ!」
* * *
谷底の涸れ沢の出口で、アルノは雲の底を見上げていた。
雲の縁が、白から灰へ、灰から紫へ変わる。空気が甘く、焦げたように匂い始める。左腕の赤い模様が、皮膚の下でちりちりと疼いた。背後には、岩棚から回ってきた槍の十二人が、息を殺して屈んでいる。
「穂先を寝かせろ。地べたにだ」ボルクが低く言った。「立てた奴から死ぬ。頭も上げるな」
十二本の錆びた穂先が、一斉に濡れた砂の上に伏せられた。声変わり前の少年が、震える声でアルノに訊いた。
「領主さま、まだですか」
「まだです。雲の底が、あと指一本ぶん下がったら」アルノは空から目を離さずに答えた。「光ってから、音まで。……二つ。……一つ。来ます!」
尾根の上が、白くなった。
一本の雷が、尾根の背に並んだ鉄の担ぎ棒の上へ落ち、そこで割れた。割れた光が隣の棒へ、その隣の穂先へ、さらに隣の箍へと跳ねる。尾根の端から端まで、穂先という穂先に同時に青い火が走った。光の筋が稜線をなぞって、黒い岩を一瞬だけ昼より白く照らす。
音が来た。空を裂く音と、地面の腹が鳴る音が重なって、谷じゅうの岩壁に跳ね返り、何度も返ってきた。
「今日のいちばん……!」
アルノは膝立ちになっていた。叫んだ声が、雷鳴の尻尾に重なった。尾根の端から端まで一度に光る雷など、十年の帳面のどこにもない。二本目が湖に落ちる。
「に!」
三本目が尾根の肩へ。
「さん!」
「おいおい、領主さま……」地面に頬をつけた少年が、震えるのも忘れて呆れた声を出した。ボルクの手がアルノの襟首を掴み、濡れた砂へ引き倒した。
「数えるのは後にしろ」
「……はい」
砂に伏せたまま、アルノは尾根の上を見た。人影がばらばらと倒れ、箱が転がり、硝子が砕けて、光の粒が斜面に散っていた。倒れた人影のうち、いくつかは起き上がらない。数えていた指が、そこで止まった。谷の昼の鐘が、一刻早く鳴り始めていた。
峠道の柵の前では、イルゼを囲んでいた十人が、空を見上げたまま棒のように立ち尽くしていた。
「なんだ、ありゃあ……昼には、まだ早えだろ」
「早いよ」イルゼは帳簿を閉じ、インク壺に蓋をした。「うちの坊ちゃんの読みじゃ、今日の昼は一刻早い。言っとくけど、当たるんだよ、あれが」
「頭は。頭はどうなる」
「知らねえよ。あたしは取り立て屋だ。空のことは、坊ちゃんに訊きな」
男たちが得物を捨てて地面に這いつくばるのを見届けると、イルゼは机を置き去りにした。雨の来る前の坂を、涸れ沢のほうへ駆け下りる。
涸れ沢の上から、足音が下りてきた。
先頭に、黒い羽根。ズデンカは鉄をすべて捨て、十人ほどを連れて、鎖の脇の濡れた岩を下りてくる。速い。迷いがない。谷底へ出られたら散って逃げ、峠の西で残りを集め直すだろう。あの女は、それができる。
「頭、下に人が! 槍が伏せてある!」
「構うな。沢を抜ければ散れる。走れ!」
鎖の端は、アルノの足元の濡れた砂に埋まっていた。
昨夜、目を覚ましてすぐ、村人に頼んで沢へ垂らさせた鎖だった。ボルクに言われた一本だけの退き口の、その底へ。雷を知る者なら必ずこの鎖を雷の逃げ道に使い、脇を下りてくる。そう読んだ。
アルノは右手で鎖を掴んだ。左手を空へ上げた。
「坊ちゃん、よせ!」
背後の斜面から、イルゼの声がした。息を切らし、外套の裾を掴んで、坂を転がるように下りてくる。
「よしません! あの人を峠の西へ帰したら、次は朝に、倍の数で来ます。村が焼かれます!」
「昨日焼いた腕だろうが! 死んだら取りっぱぐれるって言っただろ!」
「一本だけです。今日の、一本だけ!」
指先に、火花を灯す。ぱち。
空は、三度目も答えた。
白い線が指から入り、肘を焼き、肩で折れて、右手の鎖へ抜けていった。鎖が一瞬、沢の上まで青く光った。濡れた沢底を、光の網が這い上がる。ズデンカの足元で砂利が跳ね、黒い羽根の列が、将棋の駒を払ったように横へ倒れた。
アルノは膝から崩れた。
左腕が燃えていた。肘から先の感覚が消え、耳鳴りが鐘のように続く。心臓が胸の中で二度、三度とつまずいて、それからやっと、もとの拍に戻った。
「……行け」
ボルクの声だった。十二人が槍を構えて沢へ駆け上がる。起き上がろうとした黒羽団の男たちの喉元へ、錆びた穂先が並んだ。
* * *
雨が降り出した。
尾根の北の斜面を、二十人ほどが転がるように逃げていくのが見えた。残りは谷底の雨の中で、槍に囲まれて座り込んでいた。ズデンカは両手を縛られ、濡れた羽根を髪から垂らして、黙って尾根を見上げていた。尾根の上には、まだ動かない者たちが残っている。
アルノはイルゼの膝の上に頭を載せられていた。雨が顔を叩く。イルゼは焼け焦げた袖を、自分の外套の端で押さえていた。
「よせって言っただろ」
「言われました」
「聞けよ!」
「聞きました。聞いた上で、やりました」アルノは雨の中で瞬きをした。唇が震えて、うまく笑えなかった。「……イルゼさん。今日のは、しょっぱかったです」
「知るか!」
イルゼの声が裏返った。袖を押さえる手に、力がこもった。ボルクが沢から下りてきて、二人の横に立ち、尾根と沢と鎖を順に見た。
「……奴らの退き口を、使ったな」
「ボルクさんのです。お借りしました」
小石の壺を抱えたハンネが、雨の中を走ってきた。壺の中で、小石がからからと鳴っている。ハンネはアルノの顔を覗き込み、それから尾根を振り返り、もう一度アルノを見た。
「……領主さま、天気、当たった」
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