第9話 勝ちの勘定
その夜、アルノは天気帳を書いていた。
左腕は肩から指先まで包帯に巻かれ、寝台の上で動かすたびに火箸を当てたように痛んだ。それでも右手でペンを持ち、帳面を膝に載せて書いた。今日の昼は一刻早かった。風が南へ回った朝は、早い。
尾根の上で起き上がらなかった人の数を書こうとして、ペン先が紙の上で止まった。しばらくしてから、アルノはそれも書いた。数えると言ったのは自分だった。
窓の外で、赤い光が揺れた。雷の青い光とは違う。低く、ゆらゆらと、地面の近くで揺れている。遠くで誰かが叫んだ。
外へ出たときには、村の外れの倉が燃えていた。
火矢だった。北の斜面から逃げた二十人が、雨の上がった夜を待って、尾根を回り込んできたのだ。
倉の芝屋根に何本も矢が刺さり、火が乾いた梁へ移って、冬のために積んだ麦袋を内側から焼いている。村人たちが桶を手に井戸と倉を往復したが、半地下の倉は煙突のように火を吸い上げた。暗い斜面を、黒い影が笑いながら峠のほうへ走り去っていく。
「麦が……!」
アルノは井戸へ走り、右手だけで桶を引き上げようとして、よろけた。桶の水が足にかかる。もう一度掴んだところで、横から伸びた手が桶を奪った。ボルクだった。煤で顔が黒い。
「退き口は、と言った」
「……はい」
「奴らの退き口だ。逃げた奴がどこへ逃げて、何をしに戻ってくるか。そこまでが退き口だ」
アルノは奥歯を噛んだ。空を見て、尾根を見て、雷の来る時刻を当てて、帳面に書いた。なのに、逃げていった二十人の足がどこへ向かうかは見ていなかった。喉の奥から熱いものがせり上がってきて、それを飲み込むのに、ひどく時間がかかった。
朝になると、倉は黒い穴になっていた。
焼け落ちた梁の下で、麦が炭になって積もっていた。風が吹くたびに、焦げた麦粒が灰と一緒に舞い上がり、白い灰の上に、黒い雪のように降り積もる。村人たちは穴の縁に立って、黙ってそれを見ていた。
「山賊に勝って、麦に負けた」
樽屋の年寄りが、誰にともなく言った。責める声でも、嘆く声でもなかった。この谷で何度も同じ朝を見てきた者の、平らな声だった。
「私のせいです」アルノの声は震えていた。「空ばっかり、見てました。雷が当たって、嬉しくて、数えて……」
「知ってる。七人とも、そうだった」年寄りは灰の中から焦げていない麦袋を一つ引きずり出し、肩に担いで、自分の家の方へ歩いていった。
アルノは袖で目をこすった。こすっても、灰の上の黒い粒がにじんだ。
* * *
イルゼが焼け残った麦袋を数えて戻ってきた。領主館の半地下に、アルノとボルクと樽屋の年寄りが集まっていた。イルゼは帳簿を開き、一行だけ読み上げた。
「春まで食わせられるのは、今いる村の者と、あと十人。それで全部だ」
「捕虜は」とボルク。
「三十。どう数えても、二十人ぶん足りねえ」イルゼは帳簿を指で叩いた。「言っとくけど、その十人ってのも、あたしが冬じゅう豆のスープを薄める前提で出した数字だからな」
「私の分を減らしてください!」
「あんたの分は、とっくに減らしてある」
「えっ……いつの間に」
「帳簿を握ったその日にだよ。坊ちゃんがいちばん食って、いちばん稼いでねえ」
「……ひどいです」
「事実だよ」
帳簿の数字を、アルノはじっと見ていた。十人なら、食わせられる。三十人は無理だ。山賊を三十人、雪の来る谷に閉じ込めて麦を分ければ、村の子どもが春を越せない。
「働き手として、十人迎えます」アルノは言った。「峠の道を直す人手が要ります。硝子を掘る人手も。食べる分は働いてもらって、春になったら、残るか出ていくか選んでもらう。残りは、峠の西へ帰します。得物は返しません」
年寄りが唸った。ボルクは何も言わなかったが、止めもしなかった。
* * *
ズデンカは倉の焼け跡の近くで、縛られたまま座っていた。
アルノが話し終えるまで、ズデンカは一度も顔を上げなかった。捕虜たちが、その背中の後ろで息を詰めて聞いている。十人ぶんの麦と屋根。春になったら選べる。聞いている男たちの何人かの目が、揺れていた。
「断る」ズデンカは言った。「うちの者は、誰もこの谷の十人にはならない。縛られた三十で、三十のまま出ていく。半分を人質に取られて春を待つくらいなら、全員で峠の西で冬を越す」
「どうしてですか! 麦なしで冬を越したら、死ぬ人が出るんですよ!?」
「知ってる。この谷の昼を知っていたのと同じくらい、よく知ってる」
「だったら——」
「あんたの麦で冬を越した奴は、春にはあんたの槍を持つ。そういう奴をあたしは何人も見てきた。あたしの手下を、あんたの谷の十人にはさせない」
ズデンカはようやく顔を上げ、アルノの包帯の腕を見た。「あんたは昼の雷を当てた。あたしは朝を当てた。今日のところは、あんたの空が一刻早かっただけだ」
アルノは拳を握った。言い返したい言葉がいくつも喉まで来て、どれも子どもの駄々に聞こえそうで、出せなかった。
「……鎖は」
「あれは、あたしの負けだ」ズデンカは短く笑った。「雷の逃げ道を、雷の通り道にされるとは思ってなかった。覚えておく」
アルノはしばらく黙っていた。それから、ボルクに頷いた。ボルクが短刀で縄を切った。
ズデンカは手首をさすりもせずに立ち上がった。焼け跡の灰を踏み、峠へ続く坂を上っていく。捕虜の男たちが、一人、また一人と立ち上がり、黙ってそのあとに続いた。
ズデンカは、最後まで振り返らなかった。
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