第10話 一年の期限
イルゼの帳簿が、領主館の卓の上に開かれていた。
頁の左に、谷に入る金。右に、出ていく金。右の欄は、上から下までびっしり埋まっている。左の欄には、一行だけ。父からの支度金、金貨十二枚。
「一年目の期限は、来年の夏の終わり」イルゼはペンで右の欄の一番下を叩いた。「それまでに払う分が、借りの総額の半分近く。利息と、元本の三分の一。払えなきゃ、この谷は債権者の差し押さえだ」
アルノは卓の上の硬貨を、声に出して一枚ずつ並べた。
「いち、に、さん、し……じゅういち、じゅうに!」
「何べん数えても増えねえよ」イルゼはペンの尻で硬貨を一枚はじいた。
「雷は、数えると毎日増えるんですけど」
「あれは空が勝手に増やしてんだよ。あんたが数えてるだけだ」
「……お金も、空から降ってくればいいのに」
「降ってきたら、あんたは数えるだけで拾わねえだろ」イルゼは帳簿で卓を叩き、硬貨が跳ねた。「それに麦が焼けた。春まで食わせる分を、どっかから買わなきゃなんねえ。買う金は、ない」
「硝子があります!」
「ある。尾根の麓の砂を掘れば、まだいくらでも出る。問題は、誰にいくらで売るかだ」
「ミルデへ行きます。王都の細工師に届けば、一本で銀四十って言いましたよね」
「言った。言ったけど、あれは細工師が直に買う値だ。どこの細工師が買うのか、伝手がなきゃ店の戸も開かねえよ」
イルゼは帳簿の余白に、線を三つ引いた。ミルデの組合にまとめて卸すなら、早くて確実だが買い叩かれる。細工師に一本ずつ直に売るなら高いが、伝手と時間がいる。最後は、売らずに持っておいて値が上がるのを待つ道だった。
「最後のがいいです! 七つに分かれたのも、手放さなくて済むし」
「それは冬に死ぬ奴の選び方だよ」イルゼは最後の線を、ペンで真っ黒に塗りつぶした。「峠は雪で閉じる。閉じる前に一度ミルデへ出て、春までの麦を買う金だけは今年のうちに作る。組合か細工師か、どっちかだ」
「……はい」アルノはしょんぼりと肩を落とし、それから顔を上げた。「掘るのは、朝だけにします。朝は晴れるので」
イルゼのペンが止まり、それから動いた。「……やっと、この谷の朝に使い道が見つかったな」
「それに、午後に落ちた分が、次の朝には新しい枝になってるんです! 毎日、雷が埋め直してくれます」
「……畑より働き者だな、ここの空は」
戸が叩かれた。峠を越えてきた郵便の騎手が、革の筒を二つ、卓に置いていった。
一つ目は、父からだった。封を切ると、紙が二枚入っていた。一枚目の本文は、三行しかなかった。ディートリヒの縁談は成った。ザーラ谷の保持は、王家へ報告済みである。上納を怠るな。
二枚目は、追伸だった。一枚目より長かった。
屋根裏の、窓の下の床板が一枚外れるようになっていることを、父は知っていた。その下に、七つの年から書き溜めた帳面の古い束が隠してあることも。持っていったのか。雨漏りのする屋根裏に置いたままでは、紙が傷む。持っていっていないなら、次の荷で送る。
谷の雷はどうか。お前の帳面では、あの谷は何本落ちると書いてあった。最後の一行だけ、字が小さかった。腕は大事にしろ。
アルノは追伸を二度読んだ。三度目は、読めなかった。紙の上の字が、にじんで揺れた。
「……父上、知ってたんだ」
声が子どもみたいに裏返った。アルノは右の袖で目をこすり、こすってもまた滲むので、しばらく袖を顔に当てたままでいた。イルゼは何も訊かず、帳簿の頁をめくる音だけを立てていた。
やがてアルノは天気帳の最後の頁を一枚破り、返事を書き始めた。右手だけの字は大きく傾いた。父上へ。帳面は全部、持ってきました。谷は毎日、昼から雷です。着いた日は、数えきれませんでした。腕は、大事にしています。
「片方だけな」覗き込んでいたイルゼが言った。
「……片方だけ、って書き足します」アルノは鼻をすすり、ペン先をインクに浸した。「それから追伸も」
「追伸まで書くのかよ」
「うちの家は、追伸が本文なので」
アルノは紙の下の余白に、小さな字で書いた。追伸。屋根裏の床板は、父上が直してください。あそこは雨漏りがします。
何も言わずに、イルゼは自分の帳簿へ目を戻した。
* * *
アルノは手紙を天気帳に挟み、帳簿の前に座り直した。硬貨の山を、イルゼのほうへ押しやる。
「イルゼさん。硝子の値段は、イルゼさんが決めてください」
イルゼのペンが、また止まった。「……は?」
「私は空を読めます。雷の来る時刻も、落ちる場所も、たぶん谷でいちばん分かります。でもこの前の晩、逃げた二十人の足を読めませんでした。人の懐は、もっと読めません」アルノは包帯の左腕を見下ろした。「硝子を掘るのは私がやります。売るのは、イルゼさんにお任せします」
イルゼは長いあいだアルノの顔を見ていた。それから硬貨を指先で集め、帳簿の上に積み直した。
「任されたからには、あたしの取り分ももらうよ」
「いくらですか? 高いですか?」
「……『で、いくら』は、あたしの台詞だろ」
イルゼは初めて、口の端を上げて笑った。すぐに、それを帳簿の陰に隠した。アルノは見逃さなかった。
「今、笑いましたよね!?」
「笑ってねえよ! 帳簿を見ろ。帳簿を」
アルノはもう一つの革の筒を開けた。硬い紙に、重い蝋。印は、秤と麦束を組み合わせた紋だった。イルゼの顔から、残っていた笑いが消えた。
「ミルデの、商人組合だ」
封の中の書面は短かった。整った事務の字で、一行だけ、太く書いてあった。
雷硝子の買い取り価格は、組合が定める。
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【第1章「押し付けられた谷」のあらすじと登場人物】(第1〜10話)
■あらすじ
兄の縁談の条件として、男爵家の三男アルノは借金つきの「雷の谷」ザーラ谷を押し付けられる。雷硝子を見つけた矢先に山賊・黒羽団に狙われるが、正午の雷を一刻早く読んで撃退した。だが逃げた残党に冬の麦を焼かれ、手元には一年目の返済期限と、硝子の値は組合が決めるという書状が残った。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
屋根裏で十年、空だけを見て育った男爵家の三男。谷に着いた日に雷に打たれて「来た!」と笑い、天気帳の読みで黒羽団を尾根の雷の下へ誘い込んだ。だが逃げた者の足までは読めず、麦を焼かれて泣いた。硝子を売る役はイルゼに託した。
◆イルゼ
谷の借金・金貨八百四十枚を取り立てに来たラッセル商会の取立係。「払い終わるまでここにいる」と居座り、峠道では帳場机ひとつで山賊の頭と値切り合って時を稼いだ。無茶をしたアルノを丁寧すぎる敬語で叱る。最後に、初めて小さく笑った。
◆ボルク
峠の番小屋に十年ひとりで住む元国境守備隊の百人長。小屋の壁には、尾根の雷で死んだ部下の名が刻まれている。「手を貸すとは言ってない」と言いながら岩を落として道を塞いだ。口癖の「退き口は」が、この戦いの鍵になった。
◆ハンネ
壺に小石を入れて、落ちた雷を数えている村の女の子。捨てられていた雷硝子の在りかへアルノを案内し、雲の育ちにも誰より早く気づく。戦いの後、雨の中で「天気、当たった」とだけ告げた。
◆樽屋の年寄り
谷に残った四十一人の声を代弁する村の古老。「あんたで七人目だ」と新しい保持者を冷ややかに迎え、谷を時計とはしゃぐアルノに「その鐘で、何人死んだと思ってる」と返した。麦の焼け跡では「山賊に勝って、麦に負けた」と平らに言った。
◆ズデンカ
山賊・黒羽団の頭。ひと夏かけて谷の午後の雷を調べ上げ、約束を一日早めて朝に攻めてきた。敗れても手下を谷の働き手にすることを拒み、捕虜全員を連れて峠の西へ去った。「覚えておく」という一言が残る。
◆エックハルト
アルノの父で、王都近くの小さな男爵家の当主。家の縁談のため三男に谷を任せた。届いた手紙の本文は三行だったが、追伸では屋根裏に隠した息子の帳面を知っていたと明かし、「腕は大事にしろ」と書いた。




