第11話 組合の値札
ミルデは、秤の町だった。
鉄喰い峠を西へ下り、レーゲン伯領の麦畑を抜けた先の川沿いに、石の家が折り重なるように建っている。市の屋台には麦も塩も羊毛も山になっていて、どの山にも小さな木札が刺してあった。札の隅には焼き印で同じ紋が押してある。秤と麦束。谷に届いた封書の蝋と、同じ紋だ。
峠を越える二日の道のあいだ、イルゼは同じことを三度言った。あんたは荷担ぎだ。口を開くな。開いたら置いていく。
アルノは硝子を詰めた背負い籠を右肩だけで担ぎ、包帯の左腕を布で吊って、イルゼの後ろを歩いた。屋台の札を見るたびに首が伸びる。どの札の値も、隣の町より高いのか安いのか、アルノには見当もつかなかった。
商人組合の広間には、人の背丈ほどもある真鍮の大秤が据えてあった。両の皿は大人が二人並んで座れるほど広く、磨き込まれた梁が天窓の光を受けて金色に輝いている。壁には秤と麦束の紋が大きく彫り込まれていた。帳場の男たちが小さな秤に袋を載せては、札に数字を書き込んでいく。
その大秤の片方の皿に、雷硝子が一本だけ載っていた。
アルノは広間の柱の陰に立っていた。口は閉じている。目は、閉じられなかった。秤の皿の上で、硝子の枝が天窓の光を透かしている。幹から二つに分かれ、分かれた先でまた分かれている。唇だけが、勝手に動いた。
「……いち、に、さん、し」
イルゼの踵が、アルノの爪先を踏んだ。
「おお、きれいなものだ」
組合長アンゼルム・ラッセルは秤の前で両手を揉んだ。六十を過ぎた、丸い顔の男だった。白い眉の下の目がいつも笑っていて、笑ったまま硝子を見て、笑ったままイルゼを見た。
「ご苦労だったね、イルゼ。夏から谷に詰めきりだと聞いていたよ」
「取り立てが済んでませんので」
「うん、うん。うちの取立人は、取りっぱぐれたことがない」アンゼルムは秤の皿を指で軽く弾いた。「組合の目利きにも見せたがね。一本、銀三だ」
アルノは声を出さずに、口だけ「さん」の形に開けた。尾根の麓で、イルゼは一本銀四十と言っていた。十三本売って、やっと細工師の一本だ。
「細工通りで、これが銀四十で売られてたのを見てます」
「見ただろうね。去年ミルデに出回った雷硝子は、組合の帳面では六本。どこで採れるか誰も知らないから、ああいう値がついた」アンゼルムは頷き、嬉しそうに笑った。「相場というものはね、イルゼ。品が年に六本しかないときと、谷から毎朝いくらでも掘れるときとで、同じ値はつかないんだよ。来年の今ごろ、細工通りの硝子は石ころの値になる。そうなる前に、組合が全部買ってあげようと言っているんだ」
「全部、ですか」
「全部。毎月。銀三で。冬の麦の心配は要らなくなる」
アルノの胸が跳ねた。村の四十一人が、冬を越せる。焼けた倉の黒い穴が、目の裏に浮かんだ。
アンゼルムは笑顔のまま、柱の陰へ首を向けた。
「どう思われます、保持者殿」
イルゼが舌打ちをこらえる音がした。アルノは籠を担いだまま、目を丸くした。
「ばれてました!?」
「雷に焼かれた左腕で荷を担ぐ荷担ぎは、ミルデに一人しかいないよ」アンゼルムは楽しそうに言った。「銀三なら、谷の硝子は組合が責任を持って引き取る。売れ残りの心配も、取りっぱぐれもない。うちの取立人の仕事も、一年早く片づく」
アンゼルムの目がイルゼへ戻った。
「うちの取立人なら、安く組合へ入れて早く回収しなさい。八百四十の回収が一年早まれば、君の一割も一年早く入る。君の給金を払っているのは、どこの商会だったかな」
イルゼは返事をしなかった。帳簿の角を親指で撫でている。
アルノは籠の紐を握り直した。喉まで「売ります!」が来ていた。麦が買える。村の子どもが春を越せる。けれど谷を出る前の晩、卓の上の硬貨を押しやって、自分で言ったのだ。
「値段は、イルゼさんが決めます」
アンゼルムの眉が、ほんのわずかに上がった。イルゼは帳簿から顔を上げた。
「銀三じゃ、売りません」
「では、どうする」
「よそで売ります」
「ミルデで組合を通さずに物を売っている店が、何軒あるか知っているね」アンゼルムの声は、ずっと柔らかいままだった。「組合の品を扱わない店には、組合の麦も塩も卸さない。それが、この町の秩序だ。君は取立人だから、組合の外で商いをして潰れた店の戸口に、何度も立ってきただろう」
「立ってきました。潰れなかった店の戸口も、知ってますので」
アンゼルムは声を立てて笑った。秤の皿から硝子を取り上げ、布に包んでイルゼに返す。その手つきは、壊れ物を扱う商人の丁寧さだった。
「銀三。ひと銅も上げないよ。相場は、組合の秤が決めるものだからね。冬が来る前に、また来なさい。秤はいつでも空けておく」
* * *
組合の石段を下りきるまで、イルゼは一言も口をきかなかった。広場を抜け、坂を上り、組合の紋の見えない角を曲がったところで、ようやく足を止めた。背中が、怒りで硬い。
アルノはその背中に、我慢していた声を全部ぶつけた。
「売らないんですね!?」
「売るよ! ここじゃねえだけだ!」
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